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朝9時半にはもう、劇場に皆の姿があった。藤田さんは二日連続で一睡もしなかったようで、ぼさぼさの頭をしている。午前中は日本人の役者だけで集まって、プロローグから稽古を始まった。既に翻訳されたテキストに対する編集作業はもう終わっていて、今日は次の段階の編集作業が行われてゆく。実子さんが製作した映像やタイトルがスクリーンに映写される。実子さんは映像オペレーションの仕事ではなく、照明も担当していて、今日はシーンごとに照明も決めてゆく。
この日取り掛かった編集作業の中で何より大きいのは、モノローグが加えられたことだ。
代役を立ててプロローグの流れを確認していく。プロローグのタイトルは「チェックイン」だ。ホテルに宿泊する3人の客が、それぞれチェックインする場面が演じられる。そのシーンのあいだに、チェックインとはまた別の時間軸にあるモノローグが加えられていく。ここまでのシーン――インタビューをもとに作られたシーンや即興芝居をもとに作られたシーン――とは違って、藤田さんが創作したテキストだ。
藤田さんが口伝するテキストを、役者の皆はその場でメモし、覚える。伝え終えるとすぐにシーンが始められる。役者の顔つきが、昨日までとは一つ違うものになる。観客席に座る僕が受ける印象もまったく違ったものになる。あゆみさんがモノローグを語り出した瞬間に、劇場に漂う気配ががらりと変わる。ここまでの1週間で、僕が稽古を観てきたシーンはどれもダイアローグだった。こうしてモノローグの稽古を目の当たりにすると、その強さにビリビリしびれる。
一通りモノローグを終えると、「あっちゃんさ、モノローグのとき、うなずきながらやってみようか」と藤田さんは言った。「なんかさ、たとえば『てんとてん』のプロローグには聡子のモノローグがあるけど、ああいう重さは必要なくて。今回の作品が良いのは、まあ物語に重いも軽いもないとは思うんだけど、誰かが死んでしまった話をするわけではないわけだよね。あと、言わせてる台詞としても、抽象的なことは言わせてないと思ってる」
あゆみさんのモノローグには、旅という言葉が含まれている。
「旅をしてるとさ、朝起きてキョドるときがあるじゃん。『あれ、今ここどこだろう』とか、『夢と現実のすきまで、いつかわかんなくなる』とか。なんか、あっちゃん最近さ、皆としゃべってるときも口の中でなんか動かしてるじゃん。口内環境がどうなってるのかしらないけど、奥歯あたりの唾液を飲んでる感じなんだよね。そういう言い方でやってほしくて。聡子が客席を凝視して作ってるみたいな時間じゃなくて、内側にあるもので作ってる時間ってことでいいと思うんだよね。マームは客席に言う感じでモノローグを作ってきたけど、今回はもっと自分の内側にあるものでいい気がする」
修正が加えられたあゆみさんのモノローグには、不思議な感触があった。これまでのマームとジプシーのモノローグとは、たしかに違った感触があった。演劇がフィクションであるとはいえ、その場所を「こういう場所なんだろう」って見えている。でも、あゆみさんがモロノーグを語っている時間は、どこでもないどこかにいるような気がした。舞台上でモノローグを語るあゆみさんも、一緒に舞台に立つ皆も、聴いているこちらも、輪郭が溶け出しているような感触があった。それは、たとえば『てんとてん』という作品で感じるものとは(ある意味では)対極にある感覚だ。
「モノローグなんて、究極的には独り言だし、一人で言ってるのを観客が盗み聞きしてるようなものじゃないですか」。日本人の皆だけでの稽古が終わって、イタリアの皆との稽古が始まるまでのあいだの時間、藤田さんはそう話してくれた。「最近はちょっと、『たくさんの人に見せなきゃいけない』とか『他言語の人に見せなきゃいけない』ってときに、変に面と向かって言い過ぎてた気がするんです。今回のイタリアの滞在が面白いのは――『てんとてん』を持ってきたときには字幕を見るしかなかったお客さんが、今回はイタリア語を聞けるじゃないですか。それは同じ言語の人を前にしたときでも、特に『cocoon』とかはお客さんに向けてやらなきゃいけないところが多過ぎた気がする。それがほどけてきた気がするんですよね」
13時にイタリア人の皆が到着すると、稽古が始まった。今日の稽古はまず、藤田さんが台本にどんな編集を加えたのかを皆に伝えるところからスタートする。ちなみに、今日の21時からは公開リハーサルが予定されていた。そこに向けて、ここまでやってきた作業の精度をあげていく。ここにきて、改めて言語の壁にぶつかる。皆、なんとなく相手の言っていることのニュアンスは把握しているけれど、そこで好ましいとされる速度で演じてみせるには、相手がどのフレーズを言い終えたところで自分がしゃべりだすか、完璧に把握している必要がある。
「もうさ、会話を演じるしかないわけじゃん。言語が同じ人たちは言葉が通じるから、フィクションなのに会話したようにできるけど、実は会話できてないわけだよね。だから会話を演じるしかないわけじゃん。しかも結構無機質に。やっぱり僕らのなかにある壁って言語だと思うんだ。でも、この壁を乗り越えれば、今回の滞在政策は良い感じにやれたなって思える気がする」
この日の稽古は頻繁にブレイクを取って、役者同士で台詞を確認しあうことになった。お互いに何と言っているのかを確認しあって、どの単語が聴こえたのをきっかけに自分がしゃべりだすかを確認しあってる。確認を終えると、何度も繰り返し稽古している。もちろん言葉の壁はあるのだが、通訳を介すことなく確認しあっている役者の皆を見ると、少なくとも役者間というレベルでは壁は突破できているように思える。
台詞の確認を終えると、猛烈なスピードで稽古が始まる。藤田さんは、役者がどう動くのかを、細かく指示しながら先に進んでいく。イタリアの皆が爪を噛む頻度が増える。何か集中して考え事をするとき、イタリアの人はよく爪を噛んでいる。学生時代から一緒にやっている日本人の俳優にすら結構な負荷がかかっているように見えるが、イタリアの皆は「何でこんなに次々指示するんだ」と嫌な顔を見せることもなく、その一つ一つを完璧に把握している。
あっという間に日が暮れて、公開リハーサルの時間がやってくる。稽古場に少し演劇関係者が入るくらいだろうと思っていたら、ロビーには人が溢れかえっていて、公演の日だけ開くバーまで営業していて気が急く。21時17分、「じゃあ、大きい声で!」と藤田さんが役者の皆に伝えると、劇場のドアがオープンし、お客さんが入ってきた。リハーサルだというのに、50人以上のお客さんがやってきて、用意した席はほぼ埋まってしまった。
「皆さんこんにちは、演出家の藤田貴大です。この作品は、土曜日と日曜日にちゃんと完成したものは見せるんですけど、今日は途中まで見せます。僕は今日までに10日間滞在して、皆と旅をしてきました。今日見せるのは、みんなにインタビューして聞いた話をつなぎ合わせて、一つのホテルを描こうとしてるっていう内容です。まあ、あくまで途中なので、台本も持ってるし、衣装もつけてないし、何かあってもご了承ください。とにかく言葉の壁はあるにせよ、皆よくコミュニケーションをとってくれる人たちで、優秀なイタリアの俳優さんたちとやれて幸せです。僕は今30歳なんですけど、皆もほぼ同年代で――太郎さんも同年代で――作ってるものなので、この先、この作品をさらに発展させられたらと思ってます。どうぞ、土日も見に来てください。じゃあ、やってみます。えっと、準備できたら、好きなときに」
この公開リハーサルは、劇場側から「どうしても」と言われてやることになってしまったものだ。明日も明後日も、21時からは公開リハーサルが控えている。わずか2週間で作品を作らなければならないということを考えたときには、「公開リハーサルなんてやっている時間はあるのだろうか」と思っていた。公開リハーサルとはいえ、ただ稽古風景を見せることはしないだろう。そうすると、それなりのクオリティのものを仕上げなければならなくなる。
ただ、今日の公開リハーサルは、結果的に考えればあってよかったという気がした。お客さんを入れた状態で公開リハーサル――というよりも現時点で完成しているところまでの通し稽古――をやっていると、もっと精度をあげなければならないという課題も浮き彫りになってくるし、「これができたのであれば、もっとこういうことができるはずだ」という手応えもまた、藤田さんの頭に浮かんだはずだ。
公開リハーサルを終えると、藤田さんは役者を前にしてこんな話をした。
「明日はこれよりも先を見せたいんだけど、一番大切なのは、ここまでの流れをもっといいものにしていくってことだと思ってます。皆よくやってくれて、良い流れができてきてると思うんだけど、ただつなぎ合わせてるって感じになってるシーンがあると思ったんだよね。っていうか長いって感じたシーンがあるから、そこは二つに分けていこうと思ってる。今、結構欲が出てきちゃって、当初は短編集みたいに作っていくって言ってたはずなんだけど、皆よくできるから、もっと複雑な構成でもいいかもしれないと思ってる。僕のお芝居のいいところは――まあ自分で言うことでもないんだけど――ちゃんと音楽としてもいいし、美術としてもいいし、もちろん演劇としても良いって状態を作っていきたい。たしかに今、物語が立ち上がってきてるっていうのはいいことなんだけど、もうちょっと音楽としてのアプローチもかっこよくできる気がするし、皆の動き方とかももっと美術的に良いものにできるんじゃないかと思ってる。だから、明日はここまでの構成を丁寧にやりながら、もう15分とか20分先のシーンまで進められたらいいかなって思ってます」
今日は本当に、作品が立ち上がりつつある瞬間を目の当たりにした1日だった。数日前までは設計図や一つ一つの素材だったものが、一つの物語として立ち上がろうとしている。その様子を目の当たりにしていると、少し涙が出そうになる。
前にも記したように、今回の作品は、質問に対する皆の回答や即興芝居を素材として作られている。その素材をじっと見つめ続けて、編集を加える。ある台詞を、もう少し本人の意図やおかしみが伝わるようにする。ある台詞を、よりふさわしいスピードとテンポに変える。本来はサラが経験したエピソードを、カミッラが自分のエピソードとして語る。ある台詞に、ある音楽をぶつける。ある人物に、ある衣装を着せてみる。そうしたことの一つ一つは、一言で言えば“未来を見ること”でもある。
「未来」や「ヒカリ」といった言葉は、この1年のマームとジプシーの作品にはずっと登場している言葉だ。この人がこんなふうに話したとしたら、こんなことを言ったとしたら、こんな服を着たとしたら、こんな動きをしたとしたら――今、この目の前にある現実とは違う未来を想像するということが、現劇を作るということなのかもしれない。今日の稽古を見ているとき、ふいにそんなことを思った。