公開リハーサルが近づいてきた或る日、皆はある相談をしていた。それは、夕食の問題だ。

 9月13日に滞在制作が始まってから、イタリアの皆と作業をする時間は基本的に13時から18時までだった。稽古が終わったあと、イタリアの皆も宿舎のキッチンに遊びにきてくれることが多かったけど、夕食は一緒に食べなかった。だいたい20時頃に皆を見送って、そのあとでパノラマに買い物に出かけて夕食を取る。最初の数日は各自で料理をしていたけれど、そうすると翻訳作業のある門田さんや映像ネタを作る実子さんの時間がどんどん削られてしまうので、役者の皆で全員分の料理を作っていた。

 問題は、公開リハーサルが始まって以降だ。公開リハーサルは21時に始まる。そうすると、日本の皆も、イタリアの皆も、どこかの時間で夕食を取る必要がある。イタリアの皆は料理が好きだから、公開リハーサルが行われる3日間は、全員分の――16人分の料理を作ってもらえないか、お願いしてみようと相談をしていたのだ。皆は快く了承してくれた。

 それで、公開リハーサル初日の昨日、いつもより少し早めに劇場にきてもらって、日本の皆でひとり10ユーロずつ出し合って、3日ぶんの買い物を済ませていた。昨日は鶏肉のレモンソテー。今日は野菜と豆を使った料理――特に料理名はないとのこと――だった。「手早く食事を済ませたい」というリクエストに答えて、簡単にできる料理を作ってくれたのだ。今日は45分ほどで16人ぶんの料理を完成させてしまって、その手際の良さに驚かされる。手際が良いだけではなく、昨日の料理も今日の料理も、ちゃんと美味しかった。


「橋本さん(が写真撮ってるの)に慣れてきたかも」と言うあゆみさんと、「うそ、まだ慣れない」と言う荻原さん。


たまねぎ対策にサングラスを掛けたカミッラ。

 「イタリア人は、食事をしながら食事の話をする唯一の民族だ」と冗談交じりに言っていたのはカミッラだった。また、「イタリア人は自分の料理に誇りを持っていて、自分の料理が一番だと思ってる」と言っていたのはアンドレアだ。たしかに、イタリアの皆が料理をしていると、どんな味付けにするかで時々論争が巻き起こっている。

 これはもう、イタリアの皆に料理を作ってもらったほうがいいんじゃないか――そのアイデアを決定的にしたのは、9月20日に作ってもらったカルボナーラだ。そのカルボナーラは、本当に、僕が今まで食べたパスタの中で間違いなく一番うまいパスタだった。腹の底から力がみなぎってくるような味だった。その絶品パスタを、彼らはいとも簡単そうに手際よく作ってくれた。




 9月20日、夜7時。ジャコモの指示に従って、波佐谷さんはたまねぎを2個、みじん切りにしている。あゆみさんは卵を7個ボールにあけて、フォークで混ぜる。そこに塩を振り、胡椒を振り、パルミジャーノ・レッジャーノをたっぷり削る。ジャコモが生クリームを入れようとすると、アンドレアが止める。結局ジャコモは生クリームを入れてしまったけれど、アンドレアは日本語で「本当の料理じゃない」と僕たちに説明する。サラも「生クリームは入れない」と言っていた。今度はペコリーノ・ロマーノという名前のチーズをたっぷりと削り、混ぜる。少しとろみがついたところでマエストロ・ジャコモから「オーケー!」が出る。

「ペーペ!」とジャコモが声をあげると、再び胡椒が運ばれてくる。胡椒の黒が目立つくらいしっかり入れる。基本的にずっと目分量だ。鼻と目を頼りに料理をしている。サラはもうビールを開けて飲み始めてる。目が合うと「君も飲む?」と勧めてくれる。「もう飲んでます」と僕は自分のボトルを掲げる。「もちろんね」とゆりりが言葉を添える。

 マエストロがコンロの前に立った。フライパンがひたひたになるまでオリーブオイルを入れると、みじん切りにしたたまねぎ(3つ)を投入する。コンロはやや弱火だ。あまり神経質に混ぜることなく、マエストロは誰かと談笑し、思い出したかのように時々フライパンを振る。「シュガー!」とマエストロ。砂糖がキッチンになかったので、代わりに蜂蜜を垂らす。テーブルではまだ卵がかき混ぜられている。卵を1個追加して、さらに胡椒を振っている。「そんなに胡椒を入れるの? チーズも入れる?」と訊ねると、「チーズは問題じゃないんだ」と返ってくる。チーズは後からいくらでも追加できるから、と。

 コンロでは寸胴鍋が沸騰していた。蓋をあけると、マエストロは塩をふた握り放り込んだ。ふた匙でもふたツマミでもなく、こぶし一杯に握った塩を二度投入する。いかに1.5キロのパスタを茹でるとはいえ、そんなに入れるものなのかと驚く。さらにオリーブオイルをひとたらしする。「これはパスタがくっつかないように」とマエストロが説明を加える。

 驚いたのは、フライパンのたまねぎが炒まってきたところでビールを50ミリリットルほど注いだこと。マエストロの「ビッラ!」の声に、波佐谷さんが自分の飲んでいたビールをて渡そうとすると、カミッラが「ノー!」と止める。普通のビールではなく、グルテンフリーのビールを注ぐ。ワインでも可。そこにパンチェッタ――塩漬けにした豚バラ肉。これを燻製にするとベーコンになる――を600グラム(!)も投入する。

 このあたりで鍋にパスタが投入される。パスタにもこだわりがあるようで、皆で買い出しに出かけたとき、日本の皆が見つけてきたパスタは「ノー、ノー」とダメだしされてしまった。にこやかに談笑しながら、時々思い出したようにフライパンを振る。波佐谷さんが「ユー・ライク・クッキング?」とジャコモに訊ねる。「イエース、アイ・ライク!」とジャコモ。「カミッラ・トゥー?」と波佐谷さん。「ンー。ソー・ソー」とジャコモは体を揺らしながら答える。

 フライパンの中にある汁気をお玉でとりのぞくと、マエストロは鍋の蓋を開けた。まったく時計を確認する素振りを見せなかったのに、蓋を開けたタイミングはぴったり11分――パスタの袋に書かれていた茹で時間――だったことに驚く。マエストロはパスタを1本だけすくって試食する。近くにいたルイーサにも食べさせてみる。いまいちだとルイーサは顔だけで答える。そこからさらに1分ほど茹でると、マエストロは今度はゆりりを呼んだ。

 「ユリーコ! ユー・シンク・イッツ・グーッド?」
 「うーん、メイビー」
 「オーケー! ラスコーラ!」

 マエストロの「ラスコーラ!」という呼びかけに、イタリアの皆が慌ただしく動き出す。ラスコーラというのは湯切りを意味する言葉だそうだ。湯切りを終えると、「エッグ!」「パンツェッタ!」と順に持ってこさせて、パスタと絡ませていく。フライパンに残ったソースまでしっかりさらって絡ませる。器用に盛り付けると、最後にもう一度ペコリーノ・ロマーノをふりかけて完成だ。

 ポンテデーラのキッチンには、いくつもの思い出が詰まっている。去年ここに滞在したときも、僕はずっとビールを飲みながら皆が料理する様子を眺めていた。それはとても良い風景だった。藤田さんもまた、ビールを飲みながらその風景を眺め、自分でも料理を始めた。その1年後、ここポンテデーラで制作している作品も、キッチンの時間というものが一つの軸になっている。

 話を今日に戻す。

 イタリアの皆に作ってもらった料理を平らげて、エスプレッソを淹れながら洗い物をしていると、藤田さんが「ちょっと、これは皆見た方がいいんじゃないの」とキッチンに戻ってくる。洗い物の手を止めて、言われるがままに随いて行くと、窓の外には大きな虹が出ていた。雨が降ったわけでもないのに、くっきりとした虹が弧を描いている。日本の皆も、イタリアの皆も一緒に、しばらくぼんやりと空を眺めていた。去年、ポンテデーラ滞在中に皆で花火を眺めたことを時々思い出すように、この風景のことも後になって思い出すことになるだろうなと僕は思った。

 この日はもう一つ良い風景を見た。アンドレアが花をプレゼントしているところを見かけた。それは愛の告白だとか、そういう大げさなことではなく、ささやかな心配りだ。その風景もまた、いつか思い出すだろう。こう書いている今、もう既に何度も思い出している。