朝9時に起きる。エスプレッソを淹れて、昨日買ったパンを食す。お菓子みたいな味だ。知人はまだ具合が悪くて会社を休むと言う。もう33歳なんだから、土日明けに休むなんてことがないように体調管理しなよ。そう伝えると、「まだ32歳」と力なく知人は言う。32歳って言えるのもあと2回くらいだねえ。そういう僕に、「32歳」と知人が答える。

 昼、駅前の富士そばでゆず鶏ほうれん草そばを食し、渋谷から東急東横線に乗って横浜へ向かう。14時半、STスポットにてバストリオ『ニュークリアウォーター』観る。音楽はMINAMOだ。客席にいると、音楽から強くインスピレーションを得る。役者は力強く朗々と語る、意図的なのだろうけども、なぜこのように語るのだろう(これはくさして言っているわけではない)。僕はバストリオの作品を観るのは初めてだから、他の作品も観て考えないとわからないこともある。

 あとは俳優の魅力というのは何だろうということを思い浮かべながら観ていた。目の前に人が出てきて、何かを語り、動く。そこから目が離せなくなるためには、技術があればいいということではないのだろう。ひとり、強く印象に残る役者がいた。いつも「どの役をやっていたのが何て名前の人だったのか」、わからないままになってしまうけれど、今日は終演後に上演台本とCDのセットを購入し、名前を確認する。中野志保実という女優だった。

 湘南新宿ラインで新宿まで引き返してくる。今日はこのあと18時からK’sシネマで映画を観るつもりだ。映画館の近くでつけ麺を食したのち――もう二度とこの店には入らないだろう――『3泊4日、5時の鐘』を観る。昨日、ある人が褒めているのを見かけて、観てみることにしたのだ。90分ほどの映画。ゆったりした気持ちで観る(途中で「おい! 砂!」と思ったところを除けば)。監督はまだ20代だという。この淡さが、どこに向かうのだろう。

 紀伊國屋書店(新宿本店)と伊勢丹に寄ってアパートに帰ると、知人は布団に横になっている。僕は風呂に湯を張ってサリンジャーフラニーとズーイ』(村上春樹訳)を読んだ。イタリア滞在中にちびちび読んでいたのを、ようやく読み終える。何年も前に読んだことがあるはずだけれども、今回のように響くことはなかった。たとえば、ラストのほうに登場する、ズーイのこんな言葉。その言葉が響いてくるのは別に、前に読んだときは演劇を観たことがなくて、今はときどき演劇を観るようになっているだとか、そういうこととはもちろん関係のないことだ。

 「もうひとつだけ。これでもうおしまいだ。嘘じゃないよ。ただね、君はうちに帰ってきたとき、観客たちの愚劣さについてくそみそにこき下ろしていた。ろくでもない『場違いな』笑い声が五列目の席から聞こえたって。うん、そうだよ、確かにそのとおりだ。そういうのってほんとにめげちゃうよな。僕もそれに反論はしない。でもね、なおかつ、そいつは君の知ったことじゃないんだよ。君がとやかくいうべきことじゃないんだよ、フラニー。アーティストが関心を払わなくちゃならないのは、ただある種の完璧を目指すことだ。そしてそれは他の誰でもない、自分自身にとっての完璧さなんだ。他人がどうこうなんて、そんなことを考える権限は君にないんだ。本当にその通りなんだぜ。そんなことにいちいち頭を使うべきじゃない。僕の言いたいことはわかるかな?」

 風呂から上がると、一日寝ていたせいか知人は身体を起こしている。日付が変わったタイミングで伊勢丹で買ってきたモンブランと、ビームスで買ってきた犬柄の靴下と熊柄の靴下を渡して知人の誕生日を祝う。病み上がりなのと、知人はダイエット中なこともあり、モンブランは二人で食べることにした。シャンパンはほとんど僕が飲み干した。