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17時、新宿に出る。パンクしたまま放置していて自転車をピックアップして、新宿三丁目にある自転車ショップへ修理に出す。タイヤが劣化して裂けてしまっていたらしく、外側も内側も買わなければならないそうだ。自転車を預けると、すぐに東南口のほうに移動して、今度はiPhoneを修理に出す。ポンテデーラに到着して間もない日に、落として割ってしまったのだ。パソコンも、iPhoneも、自転車も、次々壊してしまって、修理代ばかり払っている。
19時過ぎ、iPhoneと自転車をそれぞれ受け取り、六本木を目指す。総武線の線路脇を抜け、外苑東通りを南下してゆく。この通り――特に青山墓地からトンネルにかけての道を走っていると、今自分は東京にいるのだと実感する。いつも暮らしている場所だって東京なのだけれども、このエリアと、あとは皇居前の松林のあたりを歩いているときは、「ああ、自分は今東京にいるのだなあ」と感じる。普段生活しているエリアとはずいぶん雰囲気が違うせいかもしれない。それともう一つ、あまり人通りも車通りも大きくない場所だということもあるのかもしれない。道端に巨大なすすきが生えていた。
それで、そんな道を通ってどこに行くかと言えば、今日はスーパーデラックスでTapeフェスDAY 1というイベントが開催されている。階段を降りていくと、もうライヴが始まっている。出演するバンドの多くはアンビエント・ミュージックだ。アンビエントをライヴで観るのは初めてだ。いや、音楽に詳しいわけではないから、それを「アンビエント」と呼ぶのかどうかすら定かではない。とにかく、こういう音楽をライヴで観て、観客はどんなふうに過ごすのだろうとソワソワしていたのだが、皆ジッとしたまま聴き入っている。
何も知らずにこの現場に遭遇すると、「何かと交信しようとしているのです」と説明されても信じてしまうかもしれないなと思った。そう考えた直後に、少し思い直す。アンビエント・ミュージックを演奏している人は、何かと交信しようとしているのかもしれない。少なくとも何か信仰のようなものがなければ、こういう音楽を――雰囲気で成立させることはできるにしても――心の奥底から奏でることはできないのではないかという気がする。僕はといえば、どんな顔をしていればいいのかと、ずっとソワソワ過ごしていた。誰も名乗らずに始めて、言葉を発さないまま終わっていくから、(カフカ鼾をのぞいて)どれが誰なのかもわからなかった。こんなことを書くのは、楽しくなかったからではない。
23時頃に帰宅する。アパートまで自転車をこいでいるときに、こんなことを考えていた。因果論的な考え方が、いろんな場面で悪影響をもたらしているのではないか、と。そんな言葉が浮かんできたのは、坂で自転車を漕いでいるときだった。一体なぜそんな言葉が思い浮かんだのだろう――と、そのときは不思議に思っていたけれど、アパートに帰って川上未映子『ヘヴン』を読んでいて、その理由がわかったような気がした。
『ヘヴン』には、二人のいじめられっ子が登場する。ひとりは主人公の男の子で、もう一人はコジマという女の子だ。二人は同級生だ。二人はこんな会話を交わしている。
「ねえ、神様っていると思う?」
ずいぶん時間がたってから、コジマが小さな声できいた。
「神様?」僕はききかえした。「神様って、どんな?」
「どんなでも。ぜんぶのことをわかってる神様。ぜんぶのことをちゃんとわかってくれる神様よ。見せかけや嘘や悪をちゃんと見抜いて、ちゃんとわたしのことをわかってくれている神様のことよ」
そうしてコジマは、彼らをいじめている同級生についても語りだす。
「あの子たちは、……本当にね、なにも考えてないのよ。ただ誰かのあとについてなにも考えずにその真似をして。それがいったいどういう意味をもつことなのか、それがいったいなんのためになるのか――、わたしたちはね、そんなこと想像したこともないような人たちのね、はけぐちになってるだけなのよ」コジマはためいきをついた。
「ねえ、でもね、これにはちゃんとした意味があるのよ。これを耐えたさきにはね、きっといつかこれを耐えなきゃたどりつけなかったようなが初夜できごとが待ってるのよ。そう思わない?」コジマははっきりとした声で言った。
ここでコジマは、自分が(理不尽にも)いじめられているという現実に対して、その必然性を見出そうとしている。さらに彼女は、そこには自発的な“しるし”が関係しているのだとさえ思っている。それは、まるっきり因果論の世界だ。そして、その因果論を、同じようにいじめられている主人公と共有しようとする。それを伝えられた主人公は、どこか戸惑っている。そして、その戸惑いを、いじめる側に属している百瀬という男の子にぶつけてもいる。だが百瀬は、主人公の言い分にこう返答する。
「なあ、世界はさ、なんていうのかな、ひとつじゃないんだよ。みんながおなじように理解できるような、そんな都合のいいひとつの世界なんて、どこにもないんだよ。そういうふうに見えるときもあるけれど、それはただそんなふうに見えるというだけのことだ。みんな決定的に違う世界に生きてるんだよ。最初から最後まで。あとはそれの組みあわせでしかない」
「それは君の」と言いかけた僕の言葉をまたさえぎって百瀬はつづけた。
「その組みあわせのなかでさ、僕たちの側で起こってることと、君の側で起こってることは一見つながってるように見えるけど、まったく関係のないことでもあるんだってことだよ。そうだろ? たとえば君はさっきまで意味の目が原因で苛めを受けてると思っていた。でもそんなのは僕にとってはまるで関係がないことだった。君が受けている眠れないぐらいの苛めは、僕にとってはなんでもないことだ。良心の呵責みたいなものなんてこれっぽっちもない。なんにも思わない。僕にとっては苛めですらないんだよ。棒と君に限ったことじゃなくて、考えてみればみんなそうじゃないか。思い通りにいかないことしかないじゃないか。自分が思うことと世界のあいだにはそもそも関係がないんだよ。それぞれの価値観のなかにお互いで引きずりこみあって、それぞれがそれで完結してるだけなんだよ」咳ばらいをひとつして、百瀬はつづけた。
この、因果論に囚われた考え方と、「因果論なんてまるで関係ないんだ」という考え方のはざまで、読者である僕の考えは揺れる。因果論に囚われていると、行為や出来事に見返りや必然性を求めるようになる。でも、因果論なんてデタラメだと考えてしまうと、ではこの日々の積み重ねは一体何なのだという話になる。どちらにも立つことはできないなあと思っていると、物語は善悪を超えた美の世界に飛んで終幕を迎える。その帰結に、何より、著者の存在を感じる。