5時半に起きる。3時間睡眠だが寝坊せずに済んでホッとする。朝の新宿駅では、若者から老人まで大きなリュックサックを背負い、蛍光色のアウターもしくはチェック柄のシャツを身にまとっている。登山にでも出かけるのだろう。ゴルフバッグを抱えた男性も見かけた。そういえば今日から三連休だ。僕は毎日が休日みたいな生活を送っている。新幹線の自由席は満席だったけど、幸運にも座ることができた。乗るたびに思っているが、山形新幹線から見える風景はのどかだ。新幹線の車窓というよりローカル線のそれに近い。田んぼには黄金色の稲穂が実っている。もう稲刈りを済ませた田んぼもある。少し走るごとに、はさがけのタイプが違っていて面白い。

 10時過ぎ、山形駅に到着する。今年も山形国際ドキュメンタリー映画祭にやってきた。11時、まずはフォーラム山形にて『太った牛の愚かな歩み』観る。ボスニアに暮らす監督は、「ここはがんじがらめで息が詰まる。自由がまったくないのだ」と言ってドイツへと渡る。目指す先はとあるクラブで、そこではゲイナイトが開催されていた。20分ほどの短いドキュメントは、様々な都市に話が飛んでゆく。ナレシュという男性が監督に訊ねる。「なぜここに」。「罪悪感のせいだ」と“私”は答える。「なぜ」と再び問われる。その理由は、HIVの検査が陰性だったことだと“私”は告白する。4年前にこの場所で、“私”はハメを外し過ぎていた。そのとき関係を持った相手が、HIV陽性だと知り、“私”は逃げるようにその場をあとにする――その場所に、彼は再び足を運んだのである。ラストに入る監督のモノローグは「僕が謝りたいのは自分自身だった」という内容だ。アフタートークで監督は「よくビデオダイアリーを撮る」と語っていた。自問自答するビデオダイアリーというのは、観ていてつらい。20分の作品だったから席を立たなかった。

 続けて『太陽の子』の上映が始まる。説明にはこうある。「自分はアメリカ人の子だと信じているフィリピン人青年が、辞書を手がかりにアメリカのことばを手に入れようとする。モノクロの映像に焼付けられた、太陽の子の奇想天外な冒険物語」。説明を読んだときはなかなか面白そうだと思ったのだが……。冒頭に、英語と、タガログ語だろうか、違う言語がひたすら並置されていく。それが終わると、会話やナレーションのない時間が続く。どこか呪術的だ。頭の中がはてなで一杯になり、途中で席を立ってしまった(いずれにせよ次に観る予定の作品と時間が重なるので、途中で退席するつもりでいて、出口に一番近い席に座っていたのだが)。

 早めに出てしまったので、少し時間に余裕がある。次の会場である山形市中央公民館は街の中心部にある。そちらに向かって歩いて行くと、メインの通りは歩行者天国になっていて、地元の人たちが名産品や焼きそばやビールを売っていたり、何かイベントを開催したりしている。前に来たときより盛り上がっている。仮装した子供たちも見かけた。ハロウィンはいよいよ日本に浸透している。昼は「高峰」という蕎麦屋で天ぷらそばを食す。

 12時45分、『河北台北』観る。1927年に中国河北省南皮県高家村に生まれた男の半生を振り返るドキュメンタリーだ。撮影する監督はその男性の娘だ。アフタートークで語られていた内容によると、「父に願いから企画がスタートした」のだという。最初は高校生の頃に「俺の半生を記録してくれ」と頼まれたそうだ。当時は小説にするつもりでいたが、大学で映画を学んでいくなかで「ドキュメンタリー映画にしよう」と思い立ち、『河北台北』の撮影が始まった。

 真っ暗な画面が映る。「待つって、何を待つんだ? 何も映ってないぞ」という父の声だけが聴こえる。しばらく経つと映像が映り始める。「ああ、この角を左だ」なんて風に、父の声が入る。映像は、どうやら父が生まれた高家村に向かっているようだ。「井戸があって、その近くに大きな池があったんだ」という父の証言に基づいて、生家を探す。しかし、そこにはもう井戸も、池も残っていなかった。村人が語る、「昔を懐かしんでのことか? 今は変わったんだ」と。あちこち聞き回っても、彼のことを覚えている人はいなかった。ただ、父が語っていた“ある男”のことを知っている老人には遭遇することができた。

 監督の祖父は義和団に所属していたが、義理の兄に殴り殺されてしまった。義理の兄はまた別の秘密結社――「紅槍会」という組織――に所属していて、「アイツは義和団だ」と密告があり、紅槍会の連中が殴り込んできたのだ。祖父は生殖器まで切り裂かれてしまったのだと父は語る。祖母は、まだ幼かった父を連れて命からがら逃げ出し、天津にたどり着く。これで一安心かと思いきや、1939年8月、天津は大洪水に見舞われる。浸水は1ヶ月半も続き、コレラや下痢が蔓延する。ようやく水がはけると今度は干ばつが続いた。祖母は、天津に腰を落ち着けることもできず、北西へと逃げる。

 逃げた先は「第十里」という名前の村だ。そこには髪を祀る畳1畳ほどの村があった――父の証言をもとに、監督は第十里に足を運び、その寺を探す。しかし、最初に出くわした若者たちは「寺なんてない」と語る。昔を知る老人を紹介してもらって訊ねると、「1958年に取り壊された」と言う。そこには村人達の墓があったが、改葬すら許されず、農地にするために更地にされてしまった。だが、そこで映し出される風景には農地はなく、ただ林が広がるばかりだ。

 画面の中で、父が過去の記憶を振り返る。少し口の悪い彼は、実に楽しそうに中国共産党の悪口を言う。彼が所属していたのは国民党の物資隊だ。だが、給料はおろか食料も支給されなかった。上官にそのことを訊ねると、「お前が手にしてるのは何だ。その中で奪ってこい!」と怒られたという。父は続ける。国民党がやってくると食料も土地も没収されるからと、民衆には嫌われていた。反対に、食料を与え、庭を綺麗にしてくれる共産党は人民に好かれたのだ、と。国共内戦では次第に共産党が勢力を伸ばす中で、父の所属していた部隊は北京で包囲される。投降を呼びかけられた彼は、食料を上官に渡し、共産党に入党する。

 「入党しろと言われて入ったんだ。形式的なことだ。何をするかは問題じゃねえ」

 人民解放軍編入された父が向かわされたのは太原という都市だ。当時は要塞都市だった太原は、国共内戦の激戦地の一つだ。この太原も監督は訪れているが、要塞都市の名残はなく、高層マンションが広がっているだけだ。農村も、都市も、様変わりした。そこではもう、記憶の中にある風景を見つけることはできない。国共内戦が終わると今度は朝鮮戦争が待っていた。政治に振り回された父は台湾に渡り、21年間バスの運転手を務めていた。

 「李忠孝は台湾に尽くした。でももうやめだ。政治が俺たちをめちゃくちゃにした」「昔は家を思って泣いた。でも今は何の意味もない。過去のことは水に流そう」

 先日北京を訪れた際、疑問に感じたことがある。たとえば、天安門広場には大勢の観光客がいた。彼らの多くは中国の地方都市からやってきたのだろう。中国の現状は、天安門広場に象徴される中国共産党によって作り出されたものだ。だが、そこには中国共産党に対する不満は感じられなかった。どこかヨソの国の王宮でも見学しているように感じられた。その理由が、少しだけわかった気がした。彼らには何度となく政治に振り回された歴史があり、だから政治にはもうウンザリしてしまっているのだ。誰が何をやろうと構わない、俺にはもう関係のないことだ――李忠孝のようなニヒリズムが、一部の中国人にはあるのかもしれないと思った。ドキュメンタリーは、2013年に父が亡くなったことを映して終わりを迎える。

 『河北台北』を観終えると、再びフォーラム山形に戻る。15時、『離開』観る。そういうつもりで選んだわけではないけれど、2本続けて中国をテーマとするドキュメンタリーだ。60年代には村ごとに小中学校が作られていたが、1979年に一人っ子政策が掲げられたことで状況は一変する。「少なく産んで健康にそだれてば一生幸せ」と書かれたスローガンが掲げられた風景が映し出される(少し原発のスローガンを思い出す)。子供が減ったことで、90年代以降は次々に小学校が廃校に追い込まれるようになる。

 まだ暗いうちからバスを待つ少年が映し出される。ぎゅうぎゅうのバスに乗り込み、大きく揺れる悪路を走り、バスを乗り継ぎ、ようやく小学校に到着する。それでも10人以下のクラスだ。廊下には孔子の言葉が掲げられている、煤けた校舎。この学校に、ある少女が通っている。二人目の子である彼女には、戸籍がなかった。

 「戸籍を買ってやれと言われたけど、とてもそんな余裕はありません」と語るのは、彼女の母だ。彼女が二人目の子を産んだのは、47歳のときだ。医師にも反対されたが、家族が医師を説得して出産することになった。「計画出産事務所」(!)からは罰金を求められることになる。支払いを求める役人が何十回とやってきたけれど、「こんなに困窮してるのに、何も助けてくれないじゃないか!」と一喝すると、役人は引き下がったのだと母は語る。戸籍がなければ、当然学校にも通えないのだが、なんとか校長を説得して通わせてもらっている。学費やバス代は弟に借金して暮らしている。父は箕を編んで売っているが、大した収入になるわけでもない。長男は家を出ていて、帰って来るのは金の無心のときだけだ。

 母は、長男に対する不満を滔々と語る。これはアフタートークで語られていたことだが――中国には「老いては子に従え」という言葉がある。日本ほど社会保障制度が発達していない中国では、老人がどう生きていくためには、子供に面倒を見てもらうほかないのだという(だからこそ老いた親が子に従うというわけだ)。ここで登場する母が、47歳という年齢で出産を決断したのは、彼女が長男をあてにすることができず、自分たちの老後の面倒を見てくれそうな子供が必要だったという事情もあるのだと、監督は語っていた。

 続けて、別の子供が映し出される。その男の子がインタビューに答えている様子が、アップで撮影されている。

 「月曜日の朝は、4時過ぎのバスに乗って学校に行きます。通学のバスの中で、僕と姉さんは、冗談を言い合ったりします。話すのは……(少し口をパクパクさせる)……昨日観たテレビのこととか、……(目が少し泳ぐ)……宿題についてです。(突然、左の目頭から涙が流れる)将来は…………社長になりたい。(今度は右目から涙があふれ、頬をつたう。「どうして?」と質問がある)お金がたくさん稼げるので。父さんに楽な暮らしをさせてやりたい」

 画面が引くと、子供の右には父親らしき男性が、左には祖母とおぼしき女性が座っていた。子の言葉に、父は言葉をなくし、そわそわごしている。祖母も言葉を失ったまま、口を震わせていた。

 ドキュメンタリーが後半に差し掛かると、戸籍のなかった女の子が再び登場する。インタビューに答える母親の表情は明るくなっている。女の子には戸籍が与えられ、30キロ以上離れた別の学校――前の学校よりも環境の整った学校――に通えるようになったのだという。「バス代が大変だ」と母は語るが、どこか嬉しそうだ。政府が貧困家庭の援助を始めたことで、女の子にも戸籍が与えらえ、学費免除で通学出来るようになったというのだ。

 田舎にある学校は、いよいよ追い詰められてゆく。彼らが通っていた学校には、もう2人しか生徒が残っていなかった。皆んな、村を捨てて町に出たり、町の学校に通ったりするようになったのだ。残った生徒のうちの一人は、「僕は父さんといる」と語る。彼がどこまで本心で言っているのかはわからない。彼は村を出ることなんて出来ないからだ。彼の父は、「仕事はしてないよ」と飄々と語る。家の外壁には「金返せ」と書かれている。妻は愛想を尽かして、3年前に出て行った。君はここを出て行かないのかと訊ねられた少年は首を振る。なぜ、と再び問われると、「あー」「あー」と二つの方向をあごで指す。「言葉で話して?」と促されると、「おばあちゃんもいるし、お父さんもいる」と彼は答えた。

 彼は(少なくとも表面上は)「ここに残る」と語っているが、もう一人の生徒は対照的だ。彼は親に「僕も転校したい」と伝えていた。だが、「転校の申請はもう間に合わない」と役所に断られてしまったのである。新学期前に申請しないといけないことになっていたのだ。学校からも「どこで勉強しても同じだ」と言われてしまった。それに、少年の祖母には介護が必要で、彼らの家族はその村を離れることができなかった。小学校は、2人が卒業すると生徒がゼロになり、廃校せざるを得なくなった。

 上映後のトークでは、中国の地方都市の現状や、教育問題に関する質問が続いた。僕は、そういうこととは別にどうしても聞いておきたいことがあって、トークのあとで中国人の監督に話しかけた。それは、「社長になりたい」と語っていた少年のことだ。彼は普段からあんなにたどたどしく話す子なのか、それともあの日だけたどたどしく語っていたのか――。

 「普段はバーっとしゃべる子なんですけど、あのときは、僕が最初にお母さんのことを聞いてしまった。そこで彼は幼い頃にいなくなってしまったお母さんのことを思い出していたから、ああいう話し方になってしまったんです」

 何より印象的だったのは、彼の涙だ。母のことを思い出していたとはいえ、そこで彼が語っていた内容は、涙なしには語ることができない話でもなかったからだ。そこでふいに涙を目の当たりにしたとき、監督は何を思ったのだろう――それを聞いておきたくて、上映終了後に話しかけたのだ。

 「あのときは、僕もすごくつらかったです。相当離れた距離で撮ってましたけど、でもすごくつらかった。というのも、彼のことをわかっていくと同時に、僕自身のことを思い出したからです。僕も山里で育って、電気がないからランプの火をともして、朝4時から学校に通うような生活をしていました。だから、僕には彼の気持ちがすごくわかる」

 『離開』を観終えると、1時間ほど時間があいた。僕はフォーラム山形の前で、ぼんやり空を眺めていた。少しずつ空が赤く染まっていく。日が暮れる直前、カラスが空を埋め尽くした。最後に観た『桜の樹の下』は立ち見も出るほど盛況で、最終的には入場制限も加えられていた。川崎の団地に暮らす老人を被写体に据えたドキュメンタリーで、来春にはポレポレ東中野で上映されることが決まっている。このドキュメンタリーは刺さったが、まだうまく言葉にすることができずにいる。来春、もう一度観ると思う。画面の中には、老人ひとりひとりに寄り添う監督の気配がある。ただ、ドキュメンタリーである以上、それだけで終わるわけではない。孤独死ということが目の前にある老人たちに、「孤独死とは何だと思うか」と監督は訊ねていた。

 上映が終わると、「母家」という居酒屋に急いだ。あさひたか。白露垂珠。上喜元。山形の日本酒を3杯飲みながら、『桜の樹の下』のことを――その質問のことを思い出していた。僕にはその覚悟が足りないのだろう。だし豆腐、つくね、それに青菜漬けを食す。最後に芋煮を食べて、これで満足だ。最終の新幹線に乗り込んで、日本酒を飲みながら東京に帰った。