寒くて布団から出られず、12時頃になってようやく起き出す。明け方には雪が降ったというが、もう雪の名残はどこにも見えない。雪が降ったのも、それに昨晩Mさんと話したことも、全部夢なんじゃないかという気がしてくるけれど、たしかに着信履歴が残っている。昼、納豆オクラ豆腐入りうどんを食べて、原稿を書く。16時、新宿「らんぶる」に出かけ、ブレンドを飲みながらさらに原稿を書く。

 18時、五反田へ。今日はゲンロンカフェで高橋源一郎×藤田貴大「演劇・戦争・民主主義――歴史と未来を結ぶ言葉と身体」というトークイベントを聞きにきたのだ。ゲンロンカフェを訪れるのは今日が初めてだが、メニューにワインのボトルがあるのを見つけ、迷わず注文する。19時、立ち見も出るほどの盛況の中、トークが始まる。印象的だったのは、高橋源一郎さんがブランショの話とギリシャの民主政の話をされていたことだ。

 ブランショというのは保守的な思想家だと思われているが、彼が理想的な共同体としたのは「私」が「私たち」に統合されてしまう場所でなく、「私」が「私」のまま集まり、目的が達成されれば解散するような場所である。酔っ払っていたのでフレーズは正確ではないが、おおむねそういった話だったと思う。僕は、ある種の運動が常に敗北し続けているのは、組織化ということが欠けているせいだと思っている。ある種の運動――そこに反原発を入れてもいいし、安保反対を入れてもいいのだが――が見据える「敵」は、徹底して組織化を続けている。具体的に言えば、選挙で勝利するために一票でも多く獲得するために活動している。いくら理想を掲げても、数を組織できなければ敗北し続ける。

 もちろん、政治的に敗北してしまうことと、理念の正しさ、美しさ、尊さは揺るがない。揺らがないどころか、敗北することでより際立つとも言える。だからこそ、そこでブランショが引かれ、「私たち」ではなく「私」であることを語る源一郎さんの姿に、作家というものの佇まいが見えてくるような気持ちになる。

 それは、ギリシャの民主政の話もそうだ。源一郎さんは、「古代ギリシャでは、徐々に民主政が登場したのではなく、どうも突然民主政が生まれたようだ」と語っていた。そのことは、現代においては「民主主義はそのようにして可能である」という例として存在するというよりも、「現代における民主主義の困難」を提示しているように思える。ギリシャの民主政は広場で行われていた。アテナイ直接民主制は、実際に人が集まることが可能な規模で存在していた。現代とは当然、規模が異なっている。また、古代ギリシャ都市国家・ポリスには神殿があった。つまり、彼らには共通の「神」がいた。だが、私たちには共通の「神」など存在しないのだ。

 共通の神が不在であるということは、多くの困難をもたらす。しかし――ここからは勝手な印象になるのだが――壇上で語る源一郎さんの姿を見ていると、それが「多くの困難をもたらす」なんていうのは思い違いではないかという気がしてくる。源一郎さんの話は、「神」についての話ではなく、徹底して「人間」の話だった。徹底して人間を考えているように思えた。その姿勢こそが作家なのだろうか――そんなことを考えているうちに、ワインのボトルは空になっていた。

 ところで、今回のトークは『cocoon』の話から始まった(イベントの予告にもその写真が採用されていた)。ひょっとしたら客席に出演者の姿もあるかと思ったが、マームの皆以外にその姿は見つけられず、少し寂しくなる。ワインのボトルを手にふらついていると役者のAさんの姿が見えた。Aさんとは原稿の話をした。彼女も同じ号に原稿を執筆するのだ。僕の原稿は、どう頑張っても説明的になってしまうけど、あなたはそうじゃない原稿が書けるはずだ、そうじゃない原稿を書いても僕の説明的な原稿があるから、それを思う存分書いたらいいんだと思います。そんなふうに余計なことを伝えて、店を出た。