読書メモ:中田考『なぜ私はイスラーム教徒になったのか』(太田出版)

 
 イスラームは戒律の厳しい宗教であり、何だかよくわからないというイメージが多いけれどそれは誤解で、「イスラームになるのはすごくラクだ」と何度か語られている。中田さん自身、そのラクさに惹かれてムスリムになったのだという。たとえば、イスラーム世界に暮らしていると、イスラーム的な徳として「気前の良さ」(カラーマ)があることに気づかされると中田さんは語る。

 こういうもてなしの文化は、中東世界には宗教にかかわらず、どこにでも見られます。人が来たら泊めて、食事を出しもてなす。お金がない人には施しをする。困っている人がいれば、みなで助け合う。砂漠の多いこの風土では昔から、そういう文化があり、それがイスラームによって強化されてきたのでしょう。砂漠では分け与えるのが当たり前です。生きていくために、それは当然のことなんです。

 こうした徳と、中田さんがあるべき姿として提示する「カリフ制再興」とはどこかで通底している。カリフ制というのは「代理人」あるいは「後継者」という意味のアラビア語であり、預言者ムハンマドの没後、イスラーム共同体を率いてアッラーの意思を代行する存在だ。カリフはイスラーム世界全体を束ねるリーダーであり、代々受け継がれてきたのだが、オスマン帝国の解体と共に廃止されてしまったのだという。

 カリフ制再興は、このような(「国民国家」という西洋的なイデオロギーを押し付けられて引かれてしまった――引用者注)国境を取り払い、人と資本が自由に移動でき、富の構成で適切な配分を行い、真の意味でのグローバリズムを目指そうとする運動です。そこではムスリムであるか否かを問わず、移動や移住も自由です。いいと思えば住めばいいし、いやなら出ていけばいい。パスポートもいりません。亡命や不法入国を禁じる法的権限もありません。

 読んでいると、イスラーム国が領土という概念と違う規模で活動している理由もよくわかる。それに、イスラームに惹かれる人の気持ちもなんとなくわかる。だが、いろんなことに目くじらをたててしまうせせこましい人間(つまり僕)は、共産主義であれ、ラブアンドピースな世界であれ、おだやかなユートピアになじむことができないだろう。ところで、僕は中田考という人はもっと年上かと思っていたが、1960年生まれだという。そして東京大学文学部宗教学科出身だ。中沢新一島田裕巳、『SPA!』を創刊した渡邊直樹もこの学科の出身だったはずだけど、なんだか濃い学科だ。

 本の中で、二つの異なる立場が説明されている。僕はどちらも知らなかったが、1つが(しばしばジハード主義とも結びつく)サラフィー主義であり、もう1つがフーフィズムだ。

 サラフィー主義は、すでに述べたように『クルアーン』と「ハディース」という原典をできるかぎり字義どおりに解釈し、それを絶対の真理として受けとめ、世界観や行動の規範にするというものです。しかし、それはたんなる伝統回帰ではありません。むしろ、もっときちんと本を読もう、『クルアーン』と「ハディース」はだれにでもわかるように描かれているので、一人ひとりが、しっかりとテキストを読めばそこにすべての答えがあると彼らは考えます。その意味では知的な文献学的な運動といえます。
 これに対して、スーフィズムの特徴は、それが師(シェイク)を頂点とした権威的なヒエラルキーである点です。テキストに依拠して各自が考えるのでははなく、解釈も師の権威に従う。

 こうした例え方をする時点でイスラームに対して無理解だと怒られるかもしれないが、キリスト教におけるカトリックスーフィズムで、プロテスタントサラフィー主義だと考えるとしっくりくる。スーフィズムは、日本では「イスラム神秘主義」とも訳される。

スーフィズムはしばしば聖者崇拝と結びつきます。スーフィーの中には、奇跡を行ったり、病気を直したり、神の言葉を伝えたりする者もいます。そうしたスーフィーは聖者として尊崇を集め、死んでからもその墓には特別な力があると信じられ、人びとが願掛けにやってくるようになるのです。


 スーフィズムは、あくまで「原典が第一」であるとするサラフィー主義から批判される。イスラームは「聖者」の存在自体は否定しないが、聖者を僭称し、現世利益のための願掛けを行うことは正しいイスラームのあり方ではないというのだ(そもそも現世利益という考えがイスラーム的ではないと言える)。サラフィー主義者たちはしばしばジハード主義とも結びつくが、外国勢力をジハードの対象とするのは多数派ではなく、彼らの多くは黒魔術と聖者崇拝を敵とするのだと中田考は語る。

 サラフィーの中でも反イスラーム的な為政者を倒そうとするサラフィー・ジハード主義者は政治意識が強いものの、ほとんどのサラフィー主義者にとっては、そのもっとも大きな関心はイスラームを冒涜する黒魔術を使う者たちを滅ぼすことにあります。これは外国メディアではほとんどニュースにならないので、そんなバカなと思われるかもしれませんが、イスラーム世界全体に見られる現象です。とくにシリアは黒魔術の盛んな国です。サラフィー主義者たちは、ムスリム世界の「脱黒魔術化」のために黒魔術師たちと戦っているのです。

 ところで、さきほども記したように、本の中ではイスラームのゆるさが何度か語られる。イスラームでは飲酒は禁じられているが、酒を飲んだところで「酒を飲むムスリム」になるだけだし、豚を食べたところで「豚を食べるムスリム」になるだけだという。もちろん、イスラームの教えに背くことが法律で禁じられているような国家であれば、法的に裁かれてしまう可能性があるが、それはイスラーム的ではないのだと指摘されている。

 人間は唯一アッラーだけに隷属する存在であり、ほかのいかなる権威にも隷属しない。それはいいかえれば、神以外のあらゆる権威から自由であるということです。この認識を政治、法律、経済から日常生活にいたる人間の営みのすべてについて貫こうとするのがイスラームです。

 つまり、人を裁くことができるのはアッラーのみである。善悪を判断するのはアッラーのみだ。その手がかりとして『クルアーン』と「ハディーズ」が存在し、これをもとに「ある行為がイスラーム法にかなっているかどうか」を誰かが言及することはできるけれども、裁くのは神だけだということである。誰も他人の内面には干渉できず、あくまで「唯一神アッラー」と「私」の関係があるだけだ。酒を飲んでも「酒を飲むムスリム」になるだけというのは、そういう意味である。

 そう考えると、案外ゆるいのかもねという気持ちにもなる。でも、この「人間は唯一アッラーだけに隷属する存在である」という考え方をつきつめると恐ろしくなる。それはやはり食のことだ。生きていればお腹が減る。お腹が減れば、食欲を満たすために食事をする――その行為は、欲に溺れるということとどう違うのか。食べるということが、どうして認められるのだろう。まあそれは、「食事をしないと存在できないもの」として神が人間を作ったのだから、空腹を満たすことはアッラーに隷属することだと言えるのだろう。

 では、カップ麺を食べるとき、規定の線より少し低い位置までしかお湯を注がないのはどうだろう。それは神の意志ではなく、「濃いもんが食べたい」という僕の欲だ。それは自分の欲に隷属することで、神以外に隷属してしまうことになるのだろうか。神がいかに万能だろうと、カップ麺のお湯の位置まで気にしてられないかもしれないし、それをオーケーだとする理屈も導きだせるのだろう。でも、イスラームは「神」と「私」の関係なのだとすれば、誰に「そんなことくらい大丈夫」だと言われたところで、それは神のことばではないのだ。だとすれば、どう気持ちを落ち着ければいいのか。

 これは別に、茶化すためにこんなことを書いているわけではない。湯につかりながらそんなことを考えると、おそろしくなったのだ。唯一神という考え方(というよりも「神」と「私」だけの世界という考え方)は、考えれば考えるほどおそろしくなってくる。