9時頃起きて、トーストを食す。13時、早稲田の「YAMITUKI」でエビと卵のぷりふわカリーとハートランド。辛いものが苦手だから、ココナッツミルクの入ったここのカレーが大好きだ。既に食べ終えた女子大学生が「今日はどこで勉強する?」「そっか、本キャンはセンター試験で使ってるんだっけ」「じゃあカフェにしよっか」と言いながらずっとスマートフォンをすっすすっすやっている。カウンターだけの店なんだからさっさと出ればいいのに。別に待っている客がいるわけでもないのにムカムカしてしまって、一気にカレーを平らげて店を出た。どうしてこんな性格になってしまったのだろう。

 13時半、早稲田小劇場どらま館へ。開演まで時間があるので、一度外に出て散策する。劇場のすぐ裏手には早稲田高校のグラウンドがある。フェンスがあるので様子は見えないが、金属バットの乾いた音が聴こえている。「そうじゃなくて、もっと叩きつけるように打つんだって」と指導する声もする。開演時間が迫ったところで劇場に戻り、岡崎藝術座『イスラ!イスラ!イスラ!』観る。ギョサンだ、と思いながら観る。100分の上演時間のあいだ、すべての台詞を追えたわけではなく――その台詞を聞いていると、どうしても違う世界に想像が飛んでしまう――劇の全体をちゃんと理解したのかと言われるとそうではないが、すごいものを観たという感触が残る。岡崎藝術座の作品を観るといつもそうした気持ちになる。

 その人の作品を観ていると、上空数百メートルから世界を眺めているような気持ちにさせられる作家もいれば、この人は自分と同じ地面に立っているのだという気持ちにさせられる作家もいれば、過去のある地点から見つめられているような気持ちにさせられる作家もいる。でも、岡崎藝術座の作品を観ていると、なんだか地下数百メートルからぬるりと這い出してきた世界のように感じられる。他の時間には感じたことがない感触が残る。骨太だと思う。だが、その骨の形を理解できていない気がする。いつもそんな気持ちになる。どうすればもっと知ることができるだろう。

 終演後は新宿に出て、「らんぶる」でブレンドを飲んだ。休日の「らんぶる」は大盛況で、階段には行列ができる時間もある。聴こえてくる音の厚さが違うという感じがする。お客さんが多いと当然そこで繰り広げられる会話の数も増える。そうすると、音の厚さが違ってくる。店員の数も平日の倍近い。2時間強でブレンドを2杯飲みながら、ちびちび再読していた川端康成『雪国』を読み終えた。前に読んだときは「かつて存在した日本の風景」くらいの印象だったが、今回はまったく違って響いてくる。『雪国』の中にある透明な目は一体何事だろう。

帰りに伊勢丹に立ち寄り、日本酒売り場へ。『雪国』の中に雁木という言葉が出てくるのを読んで、日本酒の「雁木」を飲もうかと思ったのだが見当たらず、それならば新潟の酒をと思って鶴齢を購入する。明日は友人宅に出かけるので、そのときの手土産にしようと2本買った。

 19時、アパートに帰り、塩ちゃんこ鍋を作り始める。まもなく完成といったところで知人が帰宅し、正月にオンエアされたドラマ『坊ちゃん』を観ながら鍋をつつく。恥ずかしながら『坊ちゃん』を読んだことがなかったのだが、なるほど「通俗小説」だと批判されたのもわからないではないという気がする。それを「通俗小説」と批判した人たちと違って、僕の中に確固たる文学なんて存在しないのに、「わからないではない」なんて言ったところで意味がないのだけれども。