朝8時に起きる。知人はまだ具合が悪そうだ。昨日の焼き芋の残りが食べたいというのでレンジでチンして食べさせ、薬を飲ませてヨーグルトを食べさせ、昼に食べたいものはあるかと訊ねると「豚汁」というのでクックパッドを頼りに作っておき、洗い物をする。トイレに立った知人が「甲斐甲斐しいねえ」と言う。甲斐甲斐しいごっこをしている僕だ。

 午後、新宿のカメラ屋へ出かけ、中古のライカを購入する。昨年からずっと、フィルムカメラが欲しいと思っていた。それはきっと、昨年12月に観た舞台の観たせいだ。それを「観た」というレベルで片づけられるのか、わからない。本格的な稽古が始まる前から密着し、公演が始まってからも毎日劇場に通い、視線を注ぎ続けてきた。しかし、あれだけ様々な時間と労力とが注がれてきた作品も、最後の回を終えるとすぐにバラシが始まり、すべて消えてしまう。その風景を眺めているうちに、フィルムカメラが欲しいと思うようになった。舞台の打ち上げの行われる日にもライカを買ってしまいそうになっていたのだが、さすがに高価で、思いとどまっていた。

 正月に帰省したとき、父親が昔使っていたフィルムカメラを持ち帰ってきたのはそういう理由だ。そのカメラで撮ってみるのは面白かった。だが、使いながら違和感があった。「父親が愛用していたカメラを大事に使う」なんていうことは、柄にもないことだ。僕はそんなに家族思いな人間ではないし、ミーハーな人間だ。ライカのピントの合わせ方が独特(?)なのも興味を惹かれた。それは、像が一番はっきり見えるところに合わせる仕組みではなかった。ファインダーをのぞくと、その中央に枠があり、ピントが合っていない状態だと像が二重に見えている。その二重の像がかぴったり重なる位置に調節して、ピントを合わせるのだ。

 これもまた舞台の影響なのだけれど、いよいよ「見る」ということを考えるようになった。その舞台に関するドキュメントは、僕の現状では「これ以上は無理だ」というところまで出し切ったと思っている。ただ、もちろんそれがドキュメントの可能性として最善であるわけではない。より面白いものを書くためには、もっと「見る」ということを突き詰めて考えなければならないと思うようになった。僕の目には何が写っていて、それを僕の頭はどう見ているのか。そのツールとして、フィルムカメラを使ってみようと思ったのだ。

 ライカと言えば50ミリと呼ばれるレンズが一般的であるらしかった。父のカメラに装着されていたレンズも50ミリだ。そのレンズで仕上がった写真を見ると、実際に自分の目で見ている風景よりも被写体に寄った仕上がりになる。それはそれでハッとさせられるのだが、その写真に自分の距離感があらわれているようには感じられなかったので、結局35ミリのレンズを購入することにした。

 使い方を一通り教わって、ホクホクした気持ちで店を出る。しかし一方では不安な気持ちだ。懐の事情を考えればライカなど買っている場合ではないし、カードで分割払いを選択したので、未来の自分に借金を負わせた格好になる。高揚感と不安とが入り混じったまま「らんぶる」に入り、ブレンドを飲んだ。

 フィルムを装填してみると、高揚感のほうが勝ってくる。その気分に引っ張られるように銀座に出て、コリドー街「R」ヘ。「あけましておめでとうございます」と挨拶をされて少し申し訳ない気持ち。年が明けて20日も経ったというのに、この店にくるのは今日が1回目だ。この店を知ったきっかけは、坪内さんの『酒中日記』だ。当時は――いや今もか――銀座だなんて敷居が高くて、一人では入れなかったのを、坪内さんに連れてきてもらったのだ。そのとき坪内さんは「先にお金払っとくから、この青年がきたらホットドッグを食べさせてあげて」と言っていた。それは冗談だとしても、せっかく連れてきてもらったのだから足を運ばなければと思って、その後少しずつ通うようになった。ちなみに、ホットドッグの件は冗談ではなく、本当に食べさせてもらえた。

 しかし、銀座に出かける用事もなく、最近は少し足が遠のいてしまっていた。これまでは何も言わなくてもハイボールが出てきていたけれど、今日は初めて「ハイボールにします?」と聞かれてしまった。ちゃんと通わなければという気持ちになる。ハイボールを2杯、それに赤ポテサンド(赤というのは明太子だった)を食べて店を出る。外に出るともうすっかり夜だ。銀座線で渋谷に出て、ライブハウスへと向かう。

 この日観たライブには2組出演者がいたのだが、そのうちの1組を観ていると新鮮な気持ちになった。こんなに退屈だと思ったことがあるだろうか。学生の発表会にしか見えなかった。こんなことを書くのは、辛辣なことを書き綴りたいからではなく、「時には酷評することも批評には必要だし、ミュージシャンのためにもなるのだ」という使命感からでもない(だとすれば名前を伏せる必要はない)。ただ、そんな気持ちになったことが新鮮だったということと、そう感じたあとに考えたことを書き留めておくためだ。

 僕は「音楽であれ舞台であれ、ライブ表現というのは尊いものである」という立場には立っていない。いや、もちろんライブという表現には素晴らしいもがあると思っているし、だからこそ足を運んだりするわけだ。ただ、「音楽を聴いて時間を過ごす」ということには無限の可能性がある。東京だけでもいろんな場所でライブは行なわれているし、「CDを聴いて1時間過ごす」ということだってある。「音楽を聴いて時間を過ごす」という土俵に立っているということでは、僕が今観ているバンドも、こないだ亡くなったデヴィッド・ボウイもまったく同じ立場にある。過去のあらゆる名盤よりも、今鳴っているこの音のほうが素晴らしい――そう感じられるライブはあるし、それが感じたくて足を運んでいるわけだ。

 そんなことを考えていると、一つの考えに行き着く。行き着くというよりも、今年の正月に考えていたことを思い出す。活字になって誰かに読まれる以上、そのテキストは過去に書かれたあらゆるテキストと同じ土俵に立たなければならないということだ。それぐらい勝負をかけて原稿を書かなければという気持ちになったことを、あらためて思い出す。目当てのバンドは素晴らしかった。

 ライブが終わると新宿へと急いだ。藤田さんから「一杯だけ飲みませんか」と連絡をもらっていたのだ。思い出横丁にある「K」に入ると、藤田さんはひとりでサワーを飲んでいた。乾杯もそこそこに、「明日の朝発表になると思うんですけど、『蜷の綿』、延期することになったんです」と言う。蜷川さんの半生を藤田さんが戯曲として描いた『蜷の綿』は、「蜷川さん演出版」と「藤田さん演出版」とが同時上演されることになっていたのだが、蜷川さんが12月に体調を崩されたこともあり、公演を一旦キャンセルして延期されることになったのだという。

 「それは、でも、よかったですね」。少し迷ったけど、僕はそう返事をした。知人と暮らしていると、どうしても制作(マネジメント)という立場の人間のことに思いを巡らせてしまう。公演をキャンセルして延期するということがどれだけ大変なことかというのは、想像しただけでもクラクラする。でも、それは作り手が考えるべきこととは次元の違うことだ。彼らには「これが最良だ」と思えるものを完成させてもらいたいし、僕はそれを観たい。その意味では、延期はむしろ好ましいことだと思った。

 翌朝発表された声明で、蜷川さんは「早く回復して劇場に戻ります」と締めくくっているし、蜷川さんが「やはり現場に来て、自分が演出をしたい」と言ったことも伝えられている。蜷川さんが十全に関われない状態で上演することだって不可能ではなかったはず(というよりもそのほうが現実的だったはず)だが、それを選択しなかったというのは、とても前向きなことだ。

 延期になった公演のかわりに、マームとしては「夜」にまつわる3作を上演することになっていて、既に稽古が始まっているのだと藤田さんは言う。そのうち1作は『Kと真夜中のほとりで』だ。僕が初めてマームを観たのは2011年の春、『あ、ストレンジャー』という作品だ。それまでほとんど演劇を観たことがなかったけれど、その作品に何か引っかかるものを感じて、彼らの公演を観るようになった。いよいよ「これは」と打ちのめされたのが、その年の秋に上演された『Kと真夜中のほとりで』だった。

 「最近はずっと夜のことを考えている」と藤田さんは言う。夜というのは彼の作品の中でも重要なモチーフとして描かれてきたし、先月上演した寺山の作品の中でも重要なモチーフとして登場する(あるいは重要なモチーフであるがゆえに不在である)。この4年強のあいだにはいろんな時間が積み重なっていて、それにつれてイメージも時に変化し、時に深化してきた。2016年の今、どんなふうに「夜」を描くのか、今はただ楽しみだ。

 ところで、藤田さんがかかわる舞台が延期あるいは中止となるのは、今回で3度目だ。この3度というのは、あくまで僕が観るようになってからのことで、それ以前にもあったのかもしれないが、印象的なのはそれがこの1年に集中しているということだ。舞台というのは、生身の出演者と生身の観客を必要とする(アンドロイド演劇というのもあるけれど)。その脆さは人間そのものに備わっているものだし、だからこそ一回性の前提とする表現が――あるいは生が――かけがえのないものになる。その意味でも、この一年を経た今、『Kと真夜中のほとりで』という作品がどう描かれるのか、いよいよ楽しみになってくる。