9時半に起きて、「食彩の王国」(テレ朝)観る。今日の食材は白菜だ。最後に取り上げられたのは白菜の中でも一際大きい山東菜という品種である。一緒に眺めていた知人は「大型犬みたいだねえ」と嬉しそうだ。山東菜は漬物に向いているそうで、農家の方は山東菜の漬物をごはんに巻いて食べていた。農作業の合間に手軽に食べられるように、そうして料理するのだという。

 ご馳走ではなく、日常的に食べている食事というのは、妙に気になる。NHKでここ数年放送されている、サラリーマンやOLの食事を紹介するだけの番組「サラメシ」もそうしたコンセプトの番組だ。あるいは、ANAの機内誌『翼の王国』で連載されている「おべんとうの時間」。ANAの飛行機に乗るといつも連載をチェックするが、これは好評なのか単行本が3冊も出ている。うちは代々農家だけれど、曾祖父母の頃はお昼に何を食べていたのだろう。農家の普段の昼メシを訪ねて日本全国を旅することを夢想する。

 昼は知人と一緒にコットンクラブに出かけた。ビールを1杯飲んで、赤ワインをボトルで注文する。パスタをツマミにしてゆったり過ごす。知人も飲んだのですぐにボトルが空いてしまって、デキャンタを追加した。いつもならビール1杯で止めるところだが、今日こんなに飲んだのには理由がある。16時からライブがあるのだが、飲み物などの販売はなく、それならばと開演前に酔っ払っておくことにしたのである。

 15時、コンビニでワンカップを購入し、レンチンしてもらう。店員は慣れた手つきで蓋をはがし、チンしてくれた。昨日はぬる燗ぐらいの温度だったが、今日は熱燗に仕上がっていて、一口飲もうとしたときにむせ返してしまった。酒をこぼさないようにそろそろと早稲田のスコットホールに向かうと、入り口に25人ほどの行列ができていた。ワンカップをちびちびやりつつ、開場時刻を待つ。

 15時半に会場となる。並んでいた客は皆1階席へと流れ込んだが、僕は2階席に上がる。200人ほどのこじんまりしたホールははヴォーリズ建築である。数年前、『en-taxi』で岡林信康さんに話を伺ったとき(聞き手は坪内さん)、ヴォーリズ建築の話題が入り口となった。「関西に多いと思われているけれど、山の上ホテルをはじめとして東京にもいくつかある」と聞いてはいたけれど、こんな近所にあったのかと驚く。

 入り口が小さいこともあり、開演時間は押していた。胸ポケットに入れた物を時々取り出したりして、開演を待つ。正面には十字架がかかっている。木製の椅子が並んでいて、真ん中が細い通路になっている。ホールというより教会といったほうがしっくりくる造りだ。椅子はすっかり埋まっていた。

 ふと、赤い服を着た女性が通路を歩いてきて、辺りを見渡す。手には荷物を提げている。上から見ていると、誰もいない教会に、旅する女性がふらりと訪れたように見えた。そこには満員の観客がいるはずなのに、その女性の他には誰も存在していないように見えた。その女性がい青葉市子さんで、すっとステージに上がると、演奏が始まる。

 昨日と今日の2日間、ここスコットホールでは市子さんによるコンサート「ユキノコロニヰ」が開催されている。ゲストには青柳さんや飴屋さん、それにくんちゃんも登場する。市子さんと青柳さんによるユニット「みあん」のライブは昨年11月に観たことがあるのだが、それとは(当たり前かもしれないけれど)まったく雰囲気が違っていて驚く。さきほど記したように、彼らはふらりと現れて歌い始めて、2時間の演奏を終えるとまたふらりと去っていく。コンサート、つまり観客に向けて歌を届けるというよりも、なにかこう、場所に音を響かせて去っていったように見える。

 会場を出ると、さっきまで舞台の上にいた4人は身を寄せ合うように佇んでいて、そこでまだ歌い続けていた。その姿に、どこかギョッとさせられる。それと同時に、最近読んでいた本のことを思い出す。その本というのは、上原善広『日本の路地を旅する』(文春文庫)だ。そのテーマは、僕の中では原爆と近い位置にある。小さい頃から何度となく学校で教えられてきたせいか、考える余地がないというか、考えることすら避ける対象になっていた。

 それが、しばらく前にある役者と話しているときに、最近そのテーマが気になっているのだという話になった。その人は東日本出身で、どういう経緯で興味を抱いたのかはわからないけれど、僕は「役者を生業とする人が“路地”に興味を抱いている」ということに興味がわいた。

 この「穢多」というのは、幕府が定めた全国共通の行政用語のようなもので、関西地方で多い「かわた」と、関東に多い「長吏」という呼び名を総称した身分の名称である。身分制度を維持するため、「穢れが多い」と、ことさら選民意識をより持たせた漢字を当てられた。この「穢多」という字は現在でも差別語として一般的に忌避されているが、元々が身分制度を維持するためにつくられた造語だから、タブー視されるのもそれなりに のことである。現在は「同和」がそうした行政用語に当たるが、これは「同胞融和」という言葉からきている。エタ非人のルーツは諸説あり、中世から続く皮なめしの職人集団や乞食、芸能の民などが、近代に入ってから最下層身分として位置づけられたものと考えられている。(文庫版p.p.38-39)

 僕が昔から不思議だったのは、どうして死んでしまった牛馬の処理や「皮なめし」に携わる者が差別されることになったのかということだ。この著作を読むと、皮をなめす際にはかなりの臭気がたちこめるのだと書かれているから、そういった理由はあるのだろう。では、牛馬の処理はどうか。なぜ牛や馬を処理することを穢れと見なすのか。

 これは路地が、当時の役人でさえも混乱するくらいの曖昧な存在であったということでもある。やはりエタ系路地は、牛皮を扱ってこそ路地となるのだ。路地という「身分階級的思想」が、牛を特別視しているインド、ネパールを発祥とするといわれるのも道理である。牛は生きていると神聖視されるが、死ぬと一転して穢れたものとなり、唯一、不可触民たちによって解体処理される。そう考えると牛というのは、特にアジア人にとって非常に重要な意味をもつ家畜だったのだろう。(文庫版p.286)

 この「神聖さ」と「穢れ」と転換というのはとても興味深いものだ。動物の皮をなめす仕事は「穢れ」と見なされたのかもしれないが、それは「ハレ」の日(つまり祭りの際)に使用される太鼓や三味線に活用されるものだ。あるいはうちは農家だが、昔は祝い事のあったときに鶏を絞めて食べていたと聞く。先に引いたように「牛というのは(略)重要な意味をもつ家畜」だということがあるにせよ、ハレの日に動物を絞めることは特に忌避されず、牛馬の処理は「穢れ」と見做されるのはなぜだろう?

 そのことを考える上で参考になるのが、沖縄における「京太郎」という存在だ。

 京太郎が念仏者を兼ねているのは不思議なことではない。人形回しや舞などの門付け芸は家々の悪念を追い払い、代わりに福をもたらす行為だとされている。一方で念仏者は死者を弔い、残された家族を慰めるために念仏を唱える。よくよく考えてみれば、その行為にさほど差異があるわけではない。賎なる者ゆえに人々にとりつく悪霊や死穢を引き受け、また聖なる者ゆえに人々に福をもたらすということを体現していたからだ。聖と賎が表裏一体であるからこそ、京太郎は畏れと蔑みをもって家々の軒先や辻々へと迎えられ、そして時には心臓をえぐられるような罵声を浴びせかけられた。その存在はあたかも、インドやネパールで信じられているヒンドゥー教における牛とそれに関わる民のようでもある。(文庫版p.324)

 めでたい日にせよ不幸のあった日にせよ、それは日常とは異なる時間だ。死者を弔うことも、祭り祝うことも、あくまで日常生活とは違う時間軸にある行為であり、だからこそ私たちは存分に悲しみ、祝うことができる。それが終わると、生活を成り立たせるためにまた日常に戻ってゆく。その日常に戻ったときに、振り返ってみると、ずっと「ハレ」の時間を過ごしている者がいる。その姿はどこか異様なものに写り、遠ざけられるようになったのではないか――。そこまで考えてみると、あらためて、門付け芸を行う人や芸能の民もまた差別を受けていたということに思いを巡らさずにはいられなくなってくる。

 当たり前だが、こうしたことを書き記しているのは、何かを差別したいからではない。私(たち)は何に畏れを抱くのかということが、最近気になっているからだ。演劇を観たときの感想として「役が憑依している」という言葉が使われることがあるし、「憑依系」と評される役者もいる。僕はあまり安易に「憑依」という言葉を使いたくはないけども、「憑依」というのか、舞台に立っているのは「役者」ではなく「他の何か」であることがある(それは「役と本人は別物だ」とかいったレベルの話ではなく)。その「他の何か」という謎が――あるいは「他の何か」と対話し続けることを生業とする人たちのことが――最近気になっている。

日本の路地を旅する (文春文庫)

日本の路地を旅する (文春文庫)