朝8時に起きて、トーストとヨーグルトを食す。昼、フィルムを現像に出しにいく。月曜日の昼に神田川沿いを通ると、ホームレスの男性たちが拾い集めた空き缶を業者に買い取ってもらう列ができている。午後、入浴しながら読書していると、母から電話がかかってくる。今日、隣町にある書店――僕が生まれ育った小さな地域の中では昔から文化的な書店として評判だった店――に出かけてみたら、『文學界』が並んでいたので買ってきたのだと母が言う。

 買ってきてすぐ、拡大コピーをして祖母に読ませたらしかった。原稿の中で、祖母の短歌に触れているのだ。電話の相手が祖母に代わる。「もしもし。ばあちゃんよ」と祖母が言う。昔は自分のことを「ばあちゃん」とは言わなかった祖母だ。「あなたも忙しい中、いいものを作ってくれて、ありがとうねえ。まあ、一言じゃ言われんぐらい嬉しいんじゃけど、また早う帰ってきてねえ」。

 18時過ぎ、渋谷へ。昨日訪れるはずだった「Nidi gallery」に出かけ、植本一子写真展「オーマイドーター」観る。じっくり写真を眺めていくうちにふと気づく。そうだ、写真の中にいる子供たちは植本一子さんの子供なんだ。「オーマイドーター」というタイトルの写真展を観にきたはずなのに、なぜか他の家を撮っているかのように錯覚していた。どうしてそんなふうに感じてしまったのだろう。それは撮る人の目線によるものなのだろうか、それとも僕が馬鹿なだけなのか。

 展示を観たあと、ギャラリーまでの道に迷っているときに見かけた大衆立呑酒場「富士屋本店」へ。名前は昔から知っていたけれど、入店するのは初めてだ。瓶ビールを1本とハムカツを注文。スーツ姿の人もいれば、少しくたびれた格好をした人もいるし、若者もいる。外国のお客さんの姿もある。不思議な空間だ。あれこれ注文してみたかったけれど、かなり賑わっているし、常連らしきお客さんも多そうなので早めに店を出る。

 新宿に出て、思い出横丁「T」に入ろうとしたところで、マスターに「おお、やっと会えたね」と声をかけられる。何のことかわからなかったが、マスターが手をかざした方向に目をやると、そこにはIさんの姿があった。『書を捨てよ町へ出よう』に密着しているうちに、毎日のように思い出横丁に通うようになり、つくねのうまい「T」で――2015年の初め頃にF田さんにインタビューしたあとに二人で飲みに来た店でもある「T」で――頻繁に飲むようになった。最初のうちは黙って飲んで過ごしていたのだが、マスターと話をしてみると、いろんな方面の知り合いがこの「T」のお客さんであるということがわかった。その一人がIさんだった。

 他のお客さんが席を詰めてくれて、Iさんの隣に通される。「ちょっと嫌そうじゃん」とIさんが笑う。僕にとって先生と呼べる存在が坪内さんだとすれば、オジキと呼ぶべき存在がIさんで、兄貴のような存在がM山さんだ。最初に仕事の依頼をくれたのは、他でもないIさんである。お久しぶりですと乾杯をして、ホッピーを飲んだ。新宿をぶらついていて誰かに会うのは今年2度目だ。Iさんは熱燗を飲んでいた。しばらく近況を話していたのだが、ふと会話が途切れた。「だけど」とIさんが切り出す。「あなたは俺のことを後ろからぶった斬ったよね」。

 Iさんが何を指してそう切り出したのかはすぐにわかった。Iさんも登場した、『e』誌の座談会のことだ。それが「ぶった斬った」のではなく、あの座談会をあの座談会の質感のまま構成しようとするとああならざるを得ないということはあるし、僕にとって「ぶった斬った」つもりはなく、最大限のリスペクトとして構成した記事でもある。しかし、Iさんが言っているのはそういうことではないのだ。そのくらいのことは、僕にもわかる。言葉に詰まった僕は、とりあえずホッピーを飲み干した。