朝9時に起きて、ざるそばを食す。11時、アイフォーンの修理をするべく池袋へ。あちこちまわってみたが、結局どうにもならなかった。しかし、皆スマートフォンを手にして歩いているけれど、あらためてすごいことだ。8万もする電子機器を、道行く人の大半が手にしている。景気が悪いと言ったって日本は豊かだ。どんよりした気持ちを晴らすように「ジュンク堂書店」(池袋本店)に入り、散財。

 昼はマルちゃん正麺(醤油)を食す。午後、真造圭伍『トーキョーエイリアンブラザーズ(1)』を読んだ。好きな漫画家の一人だ。宇宙人兄弟がトーキョーを探訪し、人間の生態を探るストーリーである。宇宙人の二人は、トーキョーに暮らしながら、人間の持つ習性や感情に出会ってゆく。こうした物語はホロリとさせる話になりがちだが、『トーキョーエイリアンブラザーズ』はドライに突き放す瞬間がある。「やっぱり不可解だなぁ、人間は」という言葉が印象的だ。

 1巻の中だけでも、東京の様々な街が登場する。新宿、浅草、上野、渋谷……。兄弟が暮らすアパートの近くの風景は、「赤丸ベーカリー」が描かれていて気づいたのだが、特に明記されていないが雑司が谷であるようだ。何度か花見をした公園も登場する。2016年の今、東京という舞台がどれだけ物語に影響するのか、これからの展開が楽しみだ。あと犬が死ぬほど可愛かった。とにかく犬が可愛かった。

 昼の情報番組が始まる時間になると、気になっているニュースの続報がないか、テレビをつける。気になっているニュースというのは、埼玉県上里町のアパートで現金50万円の入ったバッグを女性から強奪し、追ってきた男性をナイフで刺した上で逃走した事件だ。気になったのは、犯人も被害者もベトナム人で、大勢で飲み会を開いていたところで事件が起こったという。さらに、逃走中の犯人のひとりと出くわした長野県阿智村の老人のコメントも印象的だった。犯人は老人に土下座し、「仕事がないんです」「働かせてください」と辿々しい日本語で語ったというのである。

 すぐに思い浮かんだのは、昨年熊谷で起こったペルー人男性による連続殺人事件だ。彼は日本でビジネスを立ち上げることを夢見て来日し、派遣会社に登録して働いていたものの、その夢を叶えることはできなかった。日本語もカタコトで、最初に駆けつけた警察官もうまくコミュニケーションを取ることができず、逃走し殺人事件が起こるに至ってしまった。今回の事件の背景には、一体何があるのだろう――?

 テレビでは続報を見かけなかったが、過去の記事を調べてみると、今年の2月に「外国人住民3年連続増加 ベトナム技能実習生目立つ」というのが出てきた。これは群馬県の話だが、外国人居住者の中でも中国人が減少し、ベトナム人が急増しているのだという。一方で、「外国人摘発、2年連続増=ベトナム人激増」という2015年4月の記事もある。あるいは、2015年上半期における来日外国人犯罪の検挙状況として、強盗と窃盗ではベトナム人が最多だというデータも出てくる。

 ベトナム人が日本にたくさん住んでいるという印象はなかったのだが、一体なぜこんなことになっているのか――それを調べてみると、やはり政治的な問題が絡んでいた。ベトナム社会主義国であったが、1986年に「ドイモイ政策」が採用され、市場経済が導入されることになった。それ以降、ベトナムは経済成長を続けている。その3年前の1983年、中曽根内閣は「留学生10万人計画」を打ち出した。その計画が達成されたのは2003年である。その5年後、福田内閣は「留学生30万人計画」を掲げ、留学ビザの発給基準は緩和されることになった。

 経済成長を続けるベトナムでは、個人所得が増加するにともなって教育熱が高まっている。また、市場開放によって、現在では1000を超える日系企業ベトナムに進出し、待遇のいい日系企業への就職を希望する若者も増えている。そこで、日本語と日本の文化を理解するためにも、日本への留学を希望する若者が急増しているというのだ。

 日本政府による指針のもと、アジア各地では日本留学フェアが開催されている。大学や日本語学校教育機関が、日本への留学の魅力を伝えているという。政府の奨励と現地の需要があるなかで、良心的な機関だけでなく、様々な留学斡旋会社が活動を活発化させている。「日本に留学すればアルバイトで月20万稼げる」など、甘い謳い文句で勧誘し、日本に留学させる。留学費用はかなりの高額だが、「月20万稼げるなら返済できるだろう」と借金をして金を工面し、日本を訪れる若者が多いのだという。

 日本で待っているのは厳しい現実だ。月に20万も稼ぐのは簡単なことではない。借金を返済しなければならないが、学費も払わなければならない。結局、勉強する時間を確保する暇もなく、アルバイトに明け暮れることになる。少し前に「外国人技能実習生」がごく低賃金で、しかも劣悪な環境で働かされているということが問題になった。しかし、実習生は雇用数など様々な制限があるのに対して、留学生にはそうした制限はない。「週28時間まで」という規則はあるが、アルバイトの掛け持ちをすることでその上限を交わす留学生が多いという。その結果、実習生よりも過酷な環境に置かれてしまっているというのだ。

 単純作業のアルバイトに明け暮れる日々が続く。しかも、留学を斡旋する際に、同じアパートにベトナム人を固めて住まわせることも多いそうで、そうすると日本語もさほど上達しなくなってしまう。そうした現状を踏まえて、あらためて今回の事件を確認すると、犯人の一人は留学生であった。彼が何のために金を強奪し、どんな気持ちで日本での日々を過ごしていたのか。そのことを考えると、言葉がなくなる。

 調べているうちに15時になっていて、慌ててアパートを出る。近所の美容室を予約していたのを忘れていた。最近は同じ美容師さんに切ってもらっている。仕上がりにこれといって不満がなかったのと、切ってもらっているあいだに読書する僕を放っておいてくれるからだ。今日は小山健『死ぬ前に1回やっとこう』(一迅社)を読んだ。ウェブでよく見かける漫画家で、少し前に出た単行本を見かけたので購入したものだ。

 この漫画は名前の通りの内容で、「バーに行っとこう」、「サバゲーをやっとこう」、「ナンパをしとこう」といった話が登場する。その中に、「ハロウィンで仮装しとこう」という回がある。著者は“右手に寄生する人”の仮装をするのだが、そのページには実際に仮装した写真が登場する。そのページを開いた途端、いつも放っておいてくれる美容師さんが「ちょっと、今見えちゃったんですけど、それ何の漫画なんです?」と話しかけてくる。「何でしょうね……」とうまく説明することができなかった。

 夜、下北沢へ。駅前劇場にて、野鳩の公演『野鳩』観る。野鳩の公演を観るのは今日が初めてだけれども、今回の公演が解散公演だ。客席に入ってみると、客席の4割近くに「関係者席」の文字があり、あらためて「解散公演であるのだな」と感じる。野鳩の作品は、藤子不二雄的な意味での「SF」=「すこしふしぎ」という言葉で語られるそうだ。その質感は、この解散公演の稽古場レポート(http://spice.eplus.jp/articles/40334)にもよくあらわれている。

 しかし、このとぼけた感じ、素っ頓狂さは何だろう。昼に読んだ小山健の漫画にも、それに近いものを感じる。あるいは、質感は違うのだけれども、劇団子供鉅人にもそれに近しい何かを感じる。観劇後に調べてみると、野鳩大阪芸大出身者が中心となって旗揚げされた劇団だと知り、妙に納得してしまった。小山健は奈良県出身であり、劇団子供鉅人も関西を中心に活動してきた団体である。

 もちろん、「関西人だからこういう表現をする」なんてことはないだろうし、そう語るほどの類似性があるわけではないのだが、どこかあっけらかんとして乾いている。「面白い」ということに賭ける意識が、何か違っている。「私」がどうであるかといった重力や湿っぽさを感じさせず、軽やかである。そういうものに出会うたび、かなわないなという気持ちになる。

 観劇を終えると、知人と一緒に一番街に出た。少し歩いてバルのような店を見つけ、ビールで乾杯。 どうしてそんな話題に至ったのかは思い出せないが、めずらしく出版業界の話になった。今月に入ってから、芳林堂書店が大変なことになっているのだということを知人に伝える。ある日、芳林堂書店をのぞいてみると、「倉庫トラブルのため、雑誌の入荷はありません」と貼り紙があった。倉庫トラブルって何だろうなと思いながら書籍を買って帰ったのだが、それが取次ぎをめぐる問題だと知ったのは数日後のことだ。

 雑誌や書籍の売り上げが減少し、ここ数年は出版業界の危機が語られている。それはやはり、市場規模が大きくなり過ぎたのだろう。それは出版に限らず、ほとんどすべての業界に通じることだ。成長を続けているうちは幸せだが、ピークを迎えたあとが問題だ。規模を収縮するというのは大変なことだ。誰だって今の生活を維持したいと思う。誰かがワリを食わなければならないとしても、それが自分になるのは避けたいと思う。

 発展すれば発展するほど、社会は透明になってゆく。何か不当な扱いを受けたとき、すぐに発信し共有することができる。どこで何が行われているのか、すぐに知ることができる。誰かが持っている権利というのは、確固たるものとして保証されるようになる。線引きはどんどん明確になる。たとえば浅草のホッピー通りは、グレーな形で――グレーと言って言い方が悪ければ、「軒先数メートルにテーブルを出すくらいは大目に見よう」と許容される形で――営業してきたが、それを許容するだけの余白は、どんどん減っていく。余白がなければないほど、社会が縮小に向かった時の軋みは大きくなる。考えているうちに、すべての文明は「滅びる」という結末があらかじめ設定されているのではないかと思えてくる。

 ふと、昨日オンエアされた『アメトーーク』のことが思い浮かぶ。昨日は「桃太郎電鉄芸人」だったのだが、桃鉄には「徳政令カード」というアイテムがある。徳政令というのは、よく考えるとユニークな発想だ。「ちょっと、色々立ち行かなくなってきちゃったから、一回チャラってことで」と借金をチャラにする。この「チャラにする」という発想は、日本人(だけかはわからないが)に内蔵されている考え方なのではないかという気がする。「外国は古い建物を保存するのに、日本はぼこぼこ建て替える」ということがしばしば語られる。そこには耐震強度の問題もあるが、「一回フラットに=チャラにする」という精神性があるのではないか。でも、近代社会では「チャラにする」ことは不可能だ。チャラにされたほうは異議申し立てを行うし、その権利は保証されている。今の時代、リセットボタンとなるのは自然災害と戦争くらいだ。

 帰宅後、録画しておいた『ちかえもん』観る。楽しみにしていたドラマだが、来週で最終回になってしまった。『出世景清』でブレイクして以降、スランプに陥ってしまった近松門左衛門が『曽根崎心中』を完成させるまでを描いたドラマだ。ドラマなのでもちろんフィクションだが、これが面白いのは、『出世景清』では忠義を描いていた近松が、純愛を描く『曽根崎心中』の世界に転化する過程を描いているというところだ。そこで重要になるのが「徳兵衛」という存在だ。

 『曽根崎心中』は、現世ではどうしても一緒になることができなかった徳兵衛とお初が、来世で結ばれることを願って心中する――しかし、ただそれを描くだけではケータイ小説になってしまう。男女の純愛は、現代的な感受性ではどこか陳腐なものになりかねない。そこで、この『ちかえもん』では、徳兵衛を徹底的に「あほぼん」として描いている。

 このドラマには遊女として登場するお初は、徳兵衛に一目惚れをする。しかし、それは一目惚れをしたフリをしているだけで、本当の狙いは徳兵衛の父であり、大阪一の豪商・忠右衛門だった。忠右衛門のせいで父を亡くした――のちに誤解だったとわかるのだが――お初は、父の仇を討つべく、まずはその息子である徳兵衛に接近したのである。だが、そんなこととはつゆ知らず、「この女の過去に何があったかは知らん。けど、この先はきっと、私が守る。何があっても離さん。生涯尽くし続ける」と徳兵衛は語り、彼女を身請けし結婚しようとする。

 目を輝かせてそう語る徳兵衛(小池徹平)に、近松門左衛門松尾スズキ)は困惑する。「あ、あかん。何ぼ何でも可哀想過ぎる。アホなぶんだけハートはピュアや。何があっても、この御人にだけは知られたらあかん。お初が仇討ちのだめに自分を騙してたやなんて」と。ここまで、徳兵衛のアホっぷりは徹底してコミカルに描かれていた。それがコミカルであればあるほど、際立つものがある。

 先週オンエアされた第6話では、ついにお初が忠右衛門に詰め寄るシーンを迎える。父に詫びてくれと語るお初に、忠右衛門は銀貨を差し出し、「これを持って大阪から出て行け」と告げる。お初はその金を受け取らず、立ち上がって刃物を向ける。その緊迫した場面に、徳兵衛がやってきてしまう。ついにお初が徳兵衛を騙していたことがバレる――と思いきや、ここでも徳兵衛はあほぼんぶりを発揮する。

 「どういうことや、お初」。お初は答えない。座敷には大量の銀貨がある。そこから想像を巡た徳兵衛は、「何で親父が、何で親父がお初を身請けすんのや!」と声を荒らげる。その勘違いに、一同唖然とする。「こういう魂胆か。こないな大金積んで……汚い! 大人は汚い!」。その言葉に、近松門左衛門は「ピュア通りこして、天然のアホや」と心の中で思う。

 結局、徳兵衛はすべての真相を知ってしまう。呆然とする徳兵衛。「……嘘やろ? こんなん、嘘やろ、お初。親父がお前の父親の仇で、仇討ちのために私に近づいたやなんて」。お初は顔を背けて、黙ってしまった。「……そうか。そうやったんか。親父に仇討ちしとうて……(頷く徳兵衛)。そうか。そうか。すまんかったな。知らなんだんや。私は何も知らなんだんや。お前と一緒になって、生涯守ってやるなんて、とんだ見込み違いやった。私はほんまにあほぼんや。お初。こんな私がお前にしてやてるのは、こないなことぐらいや」。そこまで語ると、徳兵衛はお初が持っていた小刀を奪い、自害しようとする。その図抜けたピュアさに、お初は心を打たれてしまう。

 誰かのピュアさを、どのようにして描くことができるのか――。それはとても難しい問題だ。さっきも書いたように、ただごろんと純情を描いただけではチープな物語だ。ここでは、純情を描く前段階としてコミカルなシーンが置かれている。そのコミカルがあるがゆえに、彼のピュアが際立ってくる。振り返ってみると、今日観た野鳩の公演にもそれに近いものを感じた。野鳩の解散公演は、ゾンビのいる世界が描かれている。ただ、ゾンビがいるといっても「人類滅亡の危機」などといった緊迫した世界観が提示されるわけではなく、どこまでも“すこしふしぎ”な世界だ。そこではコミカルな動きやシーンが繰り返される。そうしたシーンがあるからこそ、最後に「自分のことを噛んでくれ」と首を差し出す場面に、胸が熱くなる。