旅日記は、家に帰ってしまうと完璧に書くことができなくなってしまう。メモを残していれば別だが、今回は何のメモも残していないのだ。旅の途中で、書いておかなければならないことを思い出したこともある。日記よりもまず、それを書いておかなければならないという気がしている。だから、日記はなるべく断片的にだけ書く。

 この日の朝、知人と合流した。僕が歌をうたって歩いているものだから、「まだ酔っ払っちょん?」と知人が言う。観劇まで時間があるので、寺を見物することにする。建仁寺で龍の絵を見るか、清水寺かと提案すると、「清水寺のほうが派手やろ」と知人。「派手?」「うん。だって、行ったらわーってなるやろ」。

 清水寺へと続く坂はピンク色のジャンパーだらけだ。こんなに中国人観光客は押し寄せていたのか――というかどうしてピンクを選ぶのだろう。「何でそんな派手な服買うんだろう」とつぶやくと、「自虐が過ぎるよ」と知人。外国人観光客をすり抜けながら歩くだけで、すっかりくたびれてしまった。

 清水寺を見物するとたしかに「わーっ」となった。すごいなあ。一体何をどうすればこんな舞台を作ろうと思えるのだろう。出来たばかりの頃は「最近、京都にやべえ寺建てたやつがいるらしいぞ」と話題になったことだろう(しかし建築家の名前が残っていないのが不思議だ。

 清水寺を出て、昼ごはんを食べるつもりの店へと歩いていると六波羅蜜寺の前に出た。二日続けて空也上人像を見物する。ずっと眺めていられる像だ。しかし、何でこんな像が掘られたのだろう。きっと街中での空也の説法がよほどすごくて、「お前、空也さん知ってる?」「誰?」「お前、知らねえの? 空也さんのライブまじですげえから」「本当かよ」「いや、マジだって。こないだの説法なんか、口から仏が出てくるくらいの勢いだったからな」――そんな会話を空想する。「仏教って何だろうね」と僕。「エンタメっしょ」と知人がキッパリ言う。「ジャニーズとか、仏教そのものだよ」。

 昼は「大傳月軒」のつもりが満席、四条大橋のたもとにある「東華菜館」で食す。15時、ロームシアター京都でチェルフィッチュ「部屋に流れる時間の旅」観る。『新潮』の戯曲を読んで楽しみにしていたが……。ひたすら静かに舞台は進んでゆく。舞台にはいくつか装置が置かれていて、その音が小さく響いているのだが、枯山水を眺めているような気持ちになる。その風景を読み解けない自分の勉強不足もあるのだろうが、そこに役者がいて、台詞を発している場に居合わせる愉しみを感じられなかった。もちろん、すべての作品がいわゆるエンターテイメントである必要はないのだが、「これなら戯曲を読むだけでよいのではないか」という気持ちが最後まで消えなかった。

 この作品には一人の男と二人の女が登場する。男は部屋にいる。女の一人は「その部屋を今から訪れようとしている」ことが語られる。もう一人の女は、男の妻であるようだ。舞台が進むにつれて、女は震災後に死んでしまったことが明らかになる。彼女は、震災が起きた時、「最初、怖さと、悲しい気持ちと、不安と、あと、どうしていいのかわからない気持ち」にかき混ぜられたが、「でも、そのあとで、明るい気持ちが来たの」と語る。様々な時間について、記憶について、「ねえ、おぼえてるでしょ?」と夫であった彼に語りかけている。

 当日パンフレットで、岡田利規はこう記している。

震災と原発事故が起こった直後の数日間に、わたしに押しよせてきた感情のなかには、悲しみ・不安・恐怖だけでなく、希望も混じっていた。これだけの未曾有の出来事が起こってしまったことは、そうでなければ踏み出すことの難しい変化を実現させるためのとば口に、わたしたちの社会を立たせてくれたということになりはしないだろうか。そう思ったのだ。あのときは。
未来への希望を抱えた状態で死を迎えた幽霊と、生者との関係を描こうと持った。死者の生は円環を閉じ、安定している。生き続けているわたしたちはそれを羨望する。わたしたちは苦しめられ、そこから逃げたくなって、忘却をこころがける。


 幽霊になった帆香という女優を演じているのは青柳いづみで、生き残った夫・一樹(吉田庸)が新たに関わりを持とうとしている相手・ありさを演じるのが安藤真理だ。最初に戯曲を読んだとき、僕はそれとは反対の配役を想像していた。そのほうがしっくりくるだろう。しっくりと言うのは適切ではないかもしれないが、「地面と床」という作品ではその配役になっていた。その「しっくり」はあえて外されたのではないかという気がするが、青柳いづみという女優と「未来への希望を抱えている」という役柄は組み合わせがとても悪いように感じてしまった。どうしても「未来への希望を抱えている」ようには見えず、「円環を閉じ、安定している」ようにも見えなかった。満ち足りていると見え透いた嘘をついている人にしか見えなかった。知人は「世界の青柳だったね」と言っていた。一体どういうことかと確かめると、「ずっと『〜〜だったじゃない?』って繰り返してて、この言い方、どっかで聞いたことあるなと思ってたけど、『セカオザだ!』って途中で思い出した」と。

 記憶。「おぼえてるでしょう?」。忘却。

 昼食をとりながら話していたことの大半は仏教に関することだ。仏教というのは正確ではないか、あんなふうに仏像を彫り、それを信仰し、ずっと保存し続ける人間というのは一体何であるのかということ。寺にしたって、どうして改修に改修を重ねて保存し続けようとするのだろう。

 昼食を食べたあと、歩いてロームシアター京都に向かっているときのこと。昨晩、一人で飲んだ時のことを僕は話していた。京都を訪れるたびに木屋町サンボアを訪れているのだが、昨日はマスターの息子さんが店に立っていた。ちょうど一年前の春、“まえのひを再訪する旅”で京都を訪れたとき、ちょうど息子さんが働き始めた時期だったのではないかと思う。そこであれこれ話をしたのだが、それ以来一年ぶりに息子さんがいるタイミングで店を訪れることになった。きっと覚えていないだろうと思ったのだが、店に入った瞬間に「あ! お久しぶりです」と言ってくれた。

 その話を伝えていると、「前から思ってたんだけどさ」と知人が言う。「もふはさ、店の人とかが覚えてくれるとすごい嬉しそうに話すよね。私は絶対に覚えられたくないんだけど。覚えられたらもう行きたくないくらいなのに、すごい嬉しそうにするよね」。嬉しそうに話しているつもりはなかったけれど、「覚えられたくない」だなんて考えたこともなかった。別に常連ぶったやりとりがしたいわけでもない、店の人と会話がしたいわけでもない、ただ覚えていてくれるというだけのことが嬉しいと思っている。どうしてそれを嬉しいと感じるのだろう。店に限らず、一度会ったくらいの人が覚えていてくれるととても嬉しくなる。それは一体何なのだろう?

 夜、「赤垣屋」。しまあじの刺身、おでん(焼き豆腐、たこ、だいこん、たまご、いとこん)。なまこ、たいの刺身。「おかげさまで満席でございます」と電話に対応する店員さん。なまこを噛んでいると嬉しそうにこちらを見てくる知人。「何?」と尋ねると「飼いたくなるやろ」との返事。口の中に飼っておいて、ときどき噛んで味わいたい、と。カレイのから揚げ、万願寺青とう、燗酒3本。最後は今日も木屋町サンボア。