作業を進めている『まえのひを再訪する』、印刷するにあたり、登場する人たちにはチェックをしてもらったほうがいい気がする。チェックしてもらうべき方々に、それぞれ文面を考えてメールを送信する。たったそれだけのことで夕方になってしまった。夜、買っていた『新潮』(6月号)を手に取る。

 福田和也「食うことと書くこと」を読み始めると、これはアパートで白湯を飲みながら読むのにはふさわしくないという気がしてきて、20時過ぎ、思い出横丁「T」に出かける。僕の好きなミュージシャンの女性がちょうど会計を済ませて出て行くところで、ほろ酔い加減のその方は「こんばんは」と笑顔で帰ってゆく。

 カウンター席に座り、ホッピーを飲みながら再び「食うことと書くこと」を読み始める。

 かつて、私の中には一つの循環ができていた。
 食って飲むことによる気分の高揚と、そこから得られるエネルギーが頭を回転させ、ことばを呼び寄せ、大量の原稿を生んでいた。
 原稿に向かっていると、これまでに読んだ本、人と交わした会話、あるいは子供の頃の記憶などから、言葉はどんどんやってきて、私は整理をつけるだけでよかった。
 今、その循環は完全に断たれている。
 言葉はどこからもやって来ず、私は言葉を探し、追いかけている。探しても見つからないときもあり、追いかけてもつかまらないときもあって、月に一〇〇枚の原稿も書いてはいない。

 その文章に打たれると同時に、これを依頼した編集者もすごいと唸らされる。この「食うことと書くこと」はSNSでも少なからぬ反響があり、「悲壮感」という言葉でもって感想を述べている人もいたけれど、僕は悲壮感というのは感じなかった。それは僕の感受性が鈍く、額面通りに言葉を受け取り過ぎているのかもしれないが、むしろヒカリが見えるような気持ちがした。具体的に言うとそれは、さきほどの引用箇所に続くこんな文章だ。

 ただ言葉をつかまえたときの手ごたえはある。
 この感触は言葉が向こうからやってきてくれていたときには、感じられなかったものだ。

 あるいは、酒に関するこうした記述。

 現在、食欲は著しく減退したけれど、酒への欲求は衰えていない。さすがに昔の酒量は呑めないけれど、飲み続けている。三十代、四十代のときよりもさらに深く、酒は私の中に浸透している。恐らくこれから死ぬまで飲み続けることになるだろう。

 福田さんは、師である江藤淳さんに「面白い座談会を成立させるのが仕事なのだから、無理に発言しなくてもいい」と教わったというが、対談連載でも福田さんより坪内さんのほうが語っている回がしばしばある。坪内さんの話ももちろん面白いのだけれども、ふとした瞬間に福田さんが語る一言もまた僕は好きで、それを構成するのが楽しみでもある。