都営新宿線西大島駅に到着したのは午後3時50分頃だった。目当ては贅沢貧乏の『みやけのFUSUMA』という作品を観ることだ。贅沢貧乏という演劇カンパニーは、2014年の春から“家プロジェクト”という試みを続けている。「生活するように演劇をする」ことを目標に掲げ、劇場で演劇を発表するのではなく、家を借り、そこで演劇を発表するのである。集合場所はアパートではなく、地下鉄の出口だ。観客が揃ったところでアパートに移動して、作品を観るのだ。

 西大島駅A4出口の階段を上がってゆく。「今年もツバメの季節になりました」「ツバメの落し物にご注意ください」と書かれた貼り紙を見て、少し懐かしい気持ちになる。前にこの階段を歩いたのは今から1ヶ月前のことだ。ただ、あのときはまだ巣にツバメがいたのに、今日はもうその姿を見かけることはなかった。集合場所に集まっている人も、前回は5人くらいだったが倍近い数だ(前回は演出の都合上、客席がかなり限られていた)。全員揃ったところで、アパートを目指して歩き始める。雨がぱらつく中を、列を作って進んでゆく。僕はまたしんがりを選んで歩く。雨は降ったりやんだりだが、傘をさすタイミングは人それぞれだ。

 アパートが近づいてきたところで、工事関係の車両が出入りするので少し足止めを食らう。「ご協力ありがとうございます」と頭を下げる警備員の前を通過すると、いつのまにか一人増えている。あ、と一瞬固まりそうになる。増えていた一人は、前作『ハワイユー』に登場した田井さん(役名)だ。一行がアパートの前にたどり着き、上演中の注意事項について説明を受けているあいだ、彼女は郵便受けをがさごそやってチラシを取り出し、アパートの中へと消えてゆく。注意事項もろくに聞かず、彼女の姿ばかり目で追ってしまう。

 『ハワイユー』という作品は衝撃的だった。この作品に登場するのは、江東区・北砂にある架空のスーパー銭湯「ハワイ湯」で働く二人の女性だ。そのうちの一人が田井さんであり、このアパートの201号室は彼女の部屋である。その部屋に、同僚の小泉さんが訊ねてくる。同じ職場で働いているが、二人の性格は対照的だ。ハワイ湯に勤めていながらもハワイに行ったこともなく――というよりも行こうとさえ思わず――木造の2Kのアパートに慎ましやかに暮らす田井さんと、今の状況をどうにか抜け出したいと考えている小泉さんである。

 観客である私たちは、二人のやりとりを同じ部屋の中で聞く。舞台の冒頭、田井さんがマリネ(だったか記憶が薄くなっているが)を作り出すと酢の匂いが漂ってくるし、銭湯から帰ってくるシーンではシャンプーの匂いが漂ってくる。本当にすぐ目の前に役者がいて、ふと腕の産毛を見つめてしまう。透明人間になったような心地だ。舞台が終わると、「すごいものを観た」と反芻しながら北砂の商店街をしばらくぶらついた。どこか気まずさもあった。「ここには本当に、こんな暮らしがあるのではないか」と思わせる圧倒的なリアリティがあるのだが、いやあるからこそ、それを盗み見た自分は彼らの姿を消費してしまっているのではないかとさえ思った。作った人たちがではなく、観ている私が、である。

 東京に何かを思い描いて上京する人が住むのは、東京の左半分であることのほうが多いと思う。僕もその一人だ。贅沢貧乏オフィシャルサイトに掲載された対談で、主催の山田由梨はこう語っている。

山田: お客さんって普段ここ来ないし、西大島って降りたこともない人が多いじゃないですか。
宮永: 俺も初めて降りたもん。
山田: 私もそうなんですよね。ここにいることが地方公演ぽい、みたいな。「西大島公演」みたいな。なので、こういう感覚で、地方とかでも作っていけたらと。

 贅沢貧乏の公演を観るまで、僕は西大島を訪れたことはなかった。その街の存在すら知らなかった。自分が今まで観ることの、観ようとすることのなかった世界がそこに描かれている。なかなか目を向けられることのない、平凡といってしまえば平凡な生活――それはこの7月に上演された『みやけのFUSUMA』という作品にも共通する。もう一つ共通するのは、登場する二人の人物の対比だ。今回の主要な登場人物は、アパートの202号室に暮らす弟と、そのアパートに転がり込んでくる姉である。姉は一発逆転してこの生活を抜け出すことを夢見ているが、弟は未来に過剰な期待することを避け、日々アルバイトをして暮している。

 ただ、この『みやけのFUSUMA』には少し違和感をおぼえる。前作は本当に、そこに暮している人を目撃してしまったかのような圧倒的なリアリティがあった(気まずさをおぼえるほどに)。でも、今回は「演劇を観ている」という感覚だ。もちろん、どちらも演劇ではある。『ハワイユー』だって、アパートの中に観客が居座っているのに、それは存在しないものとして進行する。それは一つの「嘘」なのだから、つまりフィクションだ。何度か窓を開け閉めする動作があるのだが、そのとき役者は観客を避けて動く。でも、それでも前作には圧倒的なリアリティを感じたのだ。役者を観ているということを忘れて、その人自身を観ているような感覚に陥ったのだ。

 反対にいえば、今回の『みやけのFUSUMA』はとても演劇的だった。それはいろんなシーンで感じたのだが、たとえば第一幕(?)のラストのあたり――と話し始める前に、この作品がどうやって始まるのかについて触れておく必要がある。案内されてアパートの中に入ると、(あとで弟だとわかる)役者はすでに横たわっている。舞台が始まると、弟は首吊り自殺に失敗して、そこに倒れていたのだということが判明する。弟が自殺しようとしていたことを知った姉は、その心配をする。ふすまを挟んで姉弟が座り、どうして死のうとしたのかと話を聞く場面が、第一幕(?)のラストあたりに登場する。

 弟がぽつぽつしゃべっている途中で、姉のケータイにメールが届く。表情がほころぶ。それはどうやら彼氏からの誘いのメールであるようだ。姉は慣れた手つきで棚から鏡を取り出し、メイクを始める。その場面で、弟に励ましの言葉をかけるのだが、あまりにもしっかりした語り口なのである。自殺を試みた弟よりも、誘いのメールのほうに心が動いてしまったキャラクターが、あんなにしっかりと会話をするものだろうか。環境がアパートの一室という日常的な――と書くが、もちろんそれは作り上げられたものであり、僕にとっては見知らぬ場所なのだから非日常的な空間であるのだが、それを言い出すと話がこんがらがるので仮に「日常的」とする――空間であるぶん、余計にその言葉が台詞っぽいことが気になってしまう。そういうことを、何度か感じてしまった。

 もちろん、さっきも書いた通り『ハワイユー』だって演劇でありフィクショナルだった。それに、『みやけのFUSUMA』は、「圧倒的なリアリティ」とは違うものを目指していたようにも感じる。この作品は、弟は自殺に失敗して倒れているところから始まると書いた。部屋に横たわる弟の隣には、同じ格好をした何かが横たわっている。舞台が始まると、それは人形だとわかる。自殺に失敗した弟が意識を取り戻すと、どういうわけだか自分の隣に同じ格好をした人形が横たわっていたのだ。舞台の冒頭からして、リアリティとは少し違った方向に向かっているとも言える。ただ、実在のアパートという空間がもたらす印象とフィクションとが、僕の中ではうまく一致しなかった。

 僕の想像力が足りないのだろうか。ぐるぐる考えてしまう。そういえば、弟はやや神経質そうに見えるのに、アパートが少し散らかっていることも気になった。でも、そんなふうに考えてしまう僕のほうがリアリティがないのかもしれない。「几帳面そうなキャラクター」としてしか弟を見ていなかったのかもしれない。もう一つ、観終わってからしばらく考えてしまったのは、『ハワイユー』の小泉さんはハワイ湯のお偉いさん(どういう役職だか忘れてしまった)と交際することで現状を抜け出す糸口を見出そうとしているような印象を受けるし、『みやけのFUSUMA』のお姉さんも彼氏に現状打破の糸口を見出そうとしていることだ。それは、たしかに一つのリアリティだろう。リアリティであるからこそ、ぐるぐる考えてしまう。