8月6日

 8時、京都のホテルで目を覚ます。いそいそとテレビをつけるが、このホテルのテレビはなぜか2局くらいしか映らず、広島の式典の中継を観ることはできなかった。代わりにオリンピックの開会式を眺めていると、日本からの移民をあらわす人々が登場する。アナウンサーが「広島に原爆が投下された時刻に合わせた演出だ」という旨を語っている。しばらくぼんやり眺めていた。ホテルをチェックアウトする前に、聡子さんからメールが届く。チェックしてもらっていた原稿が返ってきたので、さっそくアップする。「マーム・イン・京都(1)」には、少しだけ原爆の話を書いた。日付なんて日付でしかないけれど、それをアップした今日は8月6日だ。11時にチェックアウトして、新幹線で東京に戻る。この夏は何度も京都を訪れたけれど、これでしばらく打ち止めだろう。7月はいつも押し寿司を買っていたけれど、今日はもう気分が変わっているので、近江牛弁当を食べた。


8月7日

 夏だというのに知人は風邪を引いている。昼、僕はマルちゃん生麺(醤油)のニラのせを、知人にはうどんを作って食べさせる。午後、川崎ゆり子さんに少しだけ話を聞いたテープを文字に起こして、原稿にまとめ、チェックしてもらうようにメールで送信する。それが終わると、藤田さんに話を聞いたテープの文字起こしに取りかかる。いつのまにか日が暮れていた。


8月8日

 こういう日は何を食べたものだろう。しばらく迷ったけれど、うなぎを食べることに決めた。スーパーでうなぎの蒲焼きを買ってきて、ごはんにのっけて食べる。奮発して国産にしようかとも思ったけれど、あえて中国産を選んだ。なんだかそわそわして、ずっとテレビの前に座っていた。15時、天皇が「お気持ち」を表明するビデオが一斉に放送される。甲子園中継のETV以外は全局が報じていた。「日本国憲法下で象徴と位置づけられた天皇の望ましい在り方を、日々模索しつつ過ごして来ました」という言葉の重みを、どう受け止めればいいのだろう。その存在が象徴であるとして、国民のひとりである私の、何を象徴しているのだろう。

 夕方、銀座へ。17時半、おでんの「やす幸」にて『S!』誌収録。ゲストの方のお話は刺激的だ。1時間半ほどで収録が終わり、河岸を変えることになる。僕もご一緒したかったけれど、用事があるのでそこで別れる。時間がないのでタクシーを拾って、江東区の北砂へ。今日は贅沢貧乏という劇団による公開会議「劇場外で作品をつくること/滞在制作について」が行なわれている。5分遅れで到着して、アパートの1室に入る。贅沢貧乏は「家プロジェクト」と題し、一軒家やアパートを借りて、そこで半分生活しながら作品を発表するという試みを続けてきた。今日のアパートも、つい最近まで作品が発表されていた部屋だ。そうした活動を振り返る公開会議であり、ゲストは藤原ちからさんだ。

 2時間ほどの会議が終わると、駅前の焼きとん屋で打ち上げが行われた。観客は僕だけだったので、すごすごついてきてよかったのだろうかという気持ちにもなったが、いまさら悩んでも仕方ないのでホッピーを呷るように飲んだ。しばらく経ったところで感想を求められたので、今日の公開会議を聞いていて思ったことを率直に話す。公開会議においては、劇場と家とが対極にあるものとして語られていた。アパートの一室でやっていると、お客さんが座る場所によっても違ってくるし、外の天気によっても違ってくるし、毎回違うものになる、と。一方で、たとえば商業演劇だとただ繰り返すことになるという話も出ていたけれど、実際にはそんなことはないはずだ。たしかに劇場の観客は「観客」というひとかたまりに見えるけれど、それだってひとりひとりである。それに、観客は劇場まで街を移動してやってくるわけだから、その日の天気だって影響しているはずだし、その日のニュースにだって影響されることはある。

 あるいは、こんな話も出た。劇場で演劇を観るときは、隣に座っているのはまったく知らない誰かだということが前提としてあるけれど、贅沢貧乏の場合はまず駅に集合し、スタッフに先導されて皆で歩いて“家”まで移動することになる。そうやって歩くことで、「まったく知らない誰か」とは違う距離感を観客同士が持つのではないか、と。そこで先導役のスタッフが振り返る回数によっても距離感が違ってくるのだという話もあった。あるいは、こんな話も出た。普通に客席がある設計ではないぶん、贅沢貧乏の公演を観たことのある“プロ観客”のような人がいるかどうかで、お客さん全体の雰囲気が違ってくる、と。これらはポジティブなこととして語られていたけれど、この点に関して言えば、僕は劇場で芝居を観ること以上にコードを強いられているように感じられた。先導役のスタッフが振り返れば振り返るほど、僕はどこか息苦しい気持ちになった。この点に関しては、ひとりひとりでいられる劇場の公演のほうが僕は気楽だ。

 こうした話を伝えたのは、別に彼らの「家プロジェクト」という試みを否定したいからでは当然ない。彼らの作品を僕は2つしか知らないけれど、それはたしかにあの町で生まれた作品だと思うし、アパートの1室で作品を観るというのは印象深いものであった。しかし、彼らが家という空間で見出した公演の一回性のようなものは、解像度を上げていけば、劇場という空間でも実は起きていることだ(作品があるところに到達してしまったあとに、公演を繰り返すモチベーションはどこにあるのかという話もあったけれど、その話もここにつながると思う)。そこで思い出したのは、『ユリイカ』(2015年3月号)で飴屋さんと郁子さんに話を聞かせてもらったときのことだ。あのとき、飴屋さんはこんな話をしていた。

飴屋 ライブハウスというのは、音楽をやるために計算された場所だという前提がありますよね。楽器というものも、音を出すのに都合がいいように作られているという前提がある。そういったことに対抗する考えとしては、たとえば楽器を使わずにノイズ・ミュージックをやるということがあるし、定型のメロディを使わずに、即興でやることによってもう少し音を自由にしていくという考え方があると思うんですよ。でも、普通にメロディのある音楽であっても、その場所とどう関わるかということで音の響き方は変わってくる。その作業をすごく丁寧にやると、すごくやりがいがあるというか……。それは別に、ノイズのほうが自由であるとか、即興のほうが幅があるということでは全然ないと思うんだよね。

 もう一つ、場所ということで言うと、僕は稽古場に行ったり劇場に入ったりしたときに、いつも最初に音を鳴らすんですよ。音を鳴らして、普段の僕の言い方で言うと“場所と仲良くなる”というか、その場所とやりとりができるようになるために、ひたすら大きい音を流してるんですね。それは別に、自分が持っているCDをかけるだけなんだけど、その作業には結構時間がかかる。端から見るときっと、音を鳴らし始めたときも三十分後も一時間後も、その曲を流してるだけにしか見えないと思うんだけど、この場所と付き合えるようになってきたなっていう感触が訪れるんですよ。

 あるいは、僕が「繰り返す」ということについて質問したときのこと。演劇も、2時間なら2時間の作品を繰り返すし、音楽のライブでも同じ歌をいろんな土地で繰り返し歌う。その「繰り返す」ということは、お二人の中でどういう作業ですかと質問すると、二人はこう答えたのだった。

原田 うーん、でも、同じことを繰り返すとは思っていない気がします。たとえば、「はなれ ばなれ」って曲を二日続けてやったとしても、それを同じと思ってないかも。飴屋さんは、繰り返すっていう感覚はありますか。

飴屋 たぶん、ないほうだとは思うけどね。ただ、一方では、人間が日々やっていることは繰り返しじゃないですか。その中でわかりやすく自分が気にしていることは――朝起きて、初めて会って「おはよう」と挨拶をする、その瞬間のことで。毎日同じ言葉で同じ人に向かって言っているんだけど、でも、同じじゃないわけですよ。そこで自分はどういうふうに「おはよう」と言えるかみたいなことは考えるかな。下手をすると簡単に麻痺してしまったり、雑になったりすると思うんですよ。当たり前だよね、雑にやれてしまうことでもあるんだから。でも、それを雑にやらないというのは自分の問題だし、その難しさということでは、普段の生活だろうと演劇だろうと変わらない気がする。

繰り返しになるけれど、彼らの「家プロジェクト」は意義あるものだったと思う。だからこそ、次に彼らが作品を発表する場所が劇場であるということは大きな意味を持つのではないか。よく目を凝らしてみると、繰り返すことも、観客との関係も、「家プロジェクト」で得たものを活かしながら作品を発表できるはずだ(と僕が書かなくたってそうなるだろう)。


8月9日

 昼、久しぶりで新宿Y社に出かける。今日は『CB』誌の取材である。新宿駅を出て歩いていると、あまりの暑さにふらつくほどだ。13時、Sのお二人に取材。先日ライブを観ていたこともあり(だから依頼があったのだが)、スムーズに話を聞けた。取材が終わったあとで、編集者のM田さんが「あれ? 橋本君と取材するの初めてだっけ?」と言う。初めてですよと答える。もう10年近い知り合いだが、こうして仕事をするのは初めてだ。「そっかそっか。っていうか取材、めちゃくちゃうまいね」と言われて、すっかり気を良くする。

 昔、「インタビューが下手だ」と編集者に言われたことがある。それ以来、ずっと苦手意識がある。でも、もし多少なりともうまくなったのだとすれば、マームのおかげだろう。僕はときどき、マームの誰かに話を聞く。でも、それは定点観測のように話を聞いているわけではなく、ここぞというタイミングをつかまえて聞いているつもりだ。そうでなければ、わざわざ時間を割いてもらう意味がないだろう。しかも、時間を割いてもらっておきながら、核心をつかない質問をしていれば「この程度か」と思われて終わってしまう。そうやって緊張感を持って接しているおかげで、鍛えられたものはある。

 「らんぶる」でさっそくテープ起こしをしたのち、原宿「VACANT」へ。飴屋法水,本谷有希子,Sebastian Breu,くるみの4名によるタイトルのない作品が上演されていて、今日はその千秋楽だ。とても引っかかったシーンがある。それは飴屋法水本谷有希子を追い詰めていくシーンだ。この日記を書いているのは8月下旬なので、細かい台詞は忘れてしまったが、「こどもを産んで、初めてこの世界に自分以外の誰かが存在した」というようなことを本谷有希子が語るシーンがある。

 それから少し経って、飴屋法水本谷有希子はマイクを手に向かい合って、飴屋法水本谷有希子を追い詰め始める。「もとやさーん! もとやさーん! 僕もセバもくるみも、ここにいる人たちも、ずーっと存在してましたよー!」「そんなことに、僕とか! セバとか! くるみを! つきあわせないでください!」と(この台詞も、ぼんやりした記憶で再現しているので不正確)。そう追い詰められているあいだ、本谷有希子はさめざめ泣いていた。涙を流しているということは、その言葉は何も響いていないのではないかという気持ちになった。当日パンフレットには、テキストは本谷有希子のものだとある。どういう経緯であのシーンが生まれたのかはわからないけれど、セラピーを見学したような気持ちで「VACANT」をあとにする。


8月10日

 昼は昨日インタビューした『CB』誌の構成をしていた。夜、ふらりと渋谷に出て、LOFT9にて「磯部涼九龍ジョーの難局酒場(仮)」というトークイベントを聞く。3時間半の長丁場でつい飲み過ぎてしまい、会計にギョッとする。トークの中では「ダメでいいんだ」という話が何度か出た。「音楽を守れ」というとき、多くの人は「素晴らしい音楽だから守るべきだ」と思っているけれど、評価とは関係なく守られるべきだ、と。これは生存する権利とも結びついてくる話だ。しかし、それとはまったく別の問題として、二人の話を聞いていると「自分はライターとしてまだまだダメだな」と思ってしまう。コンビニでスーパードライのロング缶を買って、渋谷駅まで歩く。なぜか人で溢れかえっている。一体どうしたことかと思っていたが、そういえば明日は祝日なのだった。


8月11日

 朝からテープ起こしに取り掛かる。今月4日に開催された「緊急ミーティング 政治、いや芸術の話をしよう(関東編)」というトークイベント(?)だ。興味はあったものの、参加できそうになかったので、「よかったら構成しましょうか・・?」と願い出ることでその内容を知ろうという魂胆で、モデレーターのひとりである藤原ちからさんに申し出ていたのだ。起こし終えると、さっそく構成にとりかかる。

 夕方、缶ビールを飲みつつ高円寺へ。今日はU.F.O CLUBで前野健太と青葉市子によるツーマンが開催されるのだ。予約受付が始まってすぐに電話をかけ、5番という整理番号をゲットしていたのだが、整理番号順の入場ではなく先着順での入場であった。それでもバーカウンターのそばに数席だけ置かれた椅子に座ることができた。青葉市子、前野健太、そしてラストに二人で一緒に歌っていた。一番後ろのほうには赤ん坊を連れた人がいたのだけれども、最後の最後にその子が泣き始める。そうすると、最前列のほうにいた観客が「外に連れ出せよ」と怒鳴った。市子さんはその瞬間に自分も泣き声を出していたけれど、こういう軋轢を目にする機会が増えたような気がする。

 僕はライブのあいだ何杯もおかわりをしたこともあり、ライブが終わる頃にはすっかり出来上がっていた。よろよろと階段を上がり、駅に向かって歩いていると、電話が鳴る。しかし、今日はもうへろへろなので電話には出ず、よろよろ歩き続ける。3度目に電話が鳴ったとき、後ろから肩をつかまれ、「ダメだよ、電話に出なきゃ」と言われてしまう。誘ってもらって、打ち上げに混じる。ここで飲み食いしたものはおぼえていないけれど、前野さんとタクシーに乗ってもう1軒ハシゴしたことはおぼえている。前野さんがギターを積もうとトランクを開けてもらうと、トランク中に新グロモントが積まれていたのはおぼえている。それから、新宿のバーでスイカのカクテルを作ってもらって、それがとても美味しかったこともおぼえている。


8月12日

 昨日に引き続き、「緊急ミーティング」の構成を進める。完成したところで、藤原ちからさんに送信。夜は石神井公園「クラクラ」に出かけ、王舟と井手健介によるツーマンを。ワンドリンク制のところを、無理を言ってボトルで注文させてもらったのだが、ライブが終わる前には空になっていた。