マーム・イン・京都(4)くりかえされる

 
 『カタチノチガウ』という作品は、2014年秋のボスニア・イタリアツアー中に書かれ始めた作品で、2015年1月、原宿・VACANTで初演を迎えた。その翌月に横浜美術館、そして再びVACANTで上演されたのち、2015年9月には北京でも上演された。2016年4月にはLUMINE0のこけら落としとして上演されており、今回は3ヶ月ぶりの上演ということになる。

 元・立誠小学校で上演された『カタチノチガウ』は、4月の上演からテキストは一字一句変更されていない。しかし、その印象はずいぶん違っていた。これは『カタチノチガウ』が変化したというよりも、『A-S』と『0-1-2』という作品を観たあとに『カタチノチガウ』を観たから印象が変わったのだろう。

 『A-S』と『0-1-2』は、これまでのマームとジプシーの作品に比べて少し異質な作品だと思う。マームとジプシーは記憶というモチーフを繰り返し描いてきたけれど、『A-S』や『0-1-2』における記憶の描写はこれまでとは微妙に違っている。「マーム・イン・京都(1)」でも指摘したように、これまでのマームであれば「昨日の晩」と言っていたであろう台詞は、「いつだかの晩」に書き換えられている。藤田さんの中で、記憶というものの描き方が変わってきているのではないだろうか?

 「過去とか現在とか未来っていうものを、昔はもうちょっと分けてたと思うんですよね」。僕の質問に、藤田さんはそう答えてくれた。「記憶っていうのはあたかも過去なんだけど、その記憶っていうものがもしかしたら未来の話なのかもしれないっていう曖昧さを持ってきたなっていうのはあるんです。僕自身、記憶だったはずのことが今起こっているような感じがしたり、未来に起こることかもしれないって感覚になることが生きていてあるんですよ。

 たとえば『cocoon』をやっていたときは記憶=過去=戦争っていうことになってたんだけど、記憶ってほんとに記憶なのか、過去ってほんとに過去なのかってことがグチャグチャになってきてて。『1』を書いているときは記憶っていうSFを書いているような感覚があったり、『A-S』に出てくる街も、これはいつの街なのかわからないなって感覚があったりしたんです。『A-S』ではいなくなった人の話をしてるんだけど、その人がいついなくなったのかはわからなくて、あたかも過去っぽくはあるんだけどこれからの話にも見えるような仕掛けを言葉の中でやっていきたいんだと思います」

 記憶や過去というモチーフについて、『A-S』の中に印象的なシーンがある。それは陶芸教室の先生と生徒が言葉を交わすシーンだ。

 「先生、言ってたじゃないですか。焼き物はかつて土だったって」
 「土?」
 「そう、土。だからそれでいうと、壊れた焼き物は、ただ土に返っていくだけなんじゃないですか?」
 「それは違うよ、いっちゃん。それじゃあ、縄文土器は何で発掘されるの。一度焼いた土は、土じゃなくなっちゃうの。土には返らないの」

 これまでマームとジプシーの作品で記憶や過去というモチーフが扱われるとき、何かしらのエモーショナルさを伴っていたように思う。この先生の答えもなかなかにエモーショナルではあるのだが、そのエモさはどこか新しく感じる。

 「あの佐藤先生ってキャラクターは僕もかなりお気に入りで。焼き物とか陶芸とかっていうのは、何千年みたいなところと向き合わなきゃいけないってことが面白いなと思うんですよね。ZAZEN BOYSの曲に『破裂音の朝』って曲の中に『それは10年前の それは100年前の/1万年前の 俺たち』って歌詞がありますよね。そこで『1万年前』ってとこまで行くのは、最初に聴いたときはちょっと嘘くさいなと思ったんだけど、何回か聴いているうちに『そういえば陶芸とか土器とかってレベルでは「何万年前」みたいな話を聞かされてたな』と思ったんです。うちの地元に貝塚があったから、そう思うのかもしれないですけど。土を焼いて器を作るってことは、未来に発掘されるかもしれないってことがあるけど、その一方で僕がやってる芸術の残らなさみたいなものがある。その対比みたいなことは今回偶然描けたんだけど、マームでも掘り下げられる内容だと思ってるんです」

 そうした時間感覚の変化は、他のモチーフにも影響を与えている。マームとジプシーの作品では、死ということも繰り返し描かれてきた。自ら命を絶ってしまった誰かや、この街からいなくなってしまった誰かは繰り返し描かれてきた。

 『A-S』という作品にも、そうした誰かは登場する。劇中ではあやか(A)とさやか(S)という二人の女の子のことが語られるのだが、あやかという女の子は14歳のときに行方不明になってしまった。駐車場の防犯カメラに映った姿を最後に、彼女は姿を消した。あやかと同級生のある女性は、今でも夏になるとビラを配って彼女を探しているが、街のほとんどの人の記憶からあやかの記憶は消えつつある。もう一人、さやかという女の子は、ある日自ら命を経ってしまう。街の人はまだ、さやかのことをおぼえているのだけれど、彼女が存在していたという痕跡はどこにもない。

 いなくなってしまった誰かの存在に、生きている私たちは引きずられてしまう――そうした構図は、マーム作品で繰り返し描かれてきたものだ。しかし、今回の『A-S』では、もう少し違った形の喪失も描かれている。『A-S』の出演者の中には、81歳の中田貞代さんという女性がいる。現在24歳の川崎ゆり子さんと中田貞代さんは、こんな会話を交わす。

「なあ、ずっといつまでも、いい友達でいよな」
「ずっと、いつまでも?」
「ずっといつまでも、いい友達でいよな」
「そんなことって、ありえるのだろうか。ずっととか、いつまでもとか、そんなことってありえるのだろうか。私は、彼女? 彼女は、私?」

 人間の命というのは有限であり、やがて死が訪れる。そうである以上、「ずっととか、いつまでもとか」ということはありえず、皆いずれ死を迎えてしまう。その意味において、ここで川崎ゆり子さんが「私は、彼女? 彼女は、私?」と重ね合わせているのは印象的だ。あるいは、『0123』の『2』――『ずっとまえの家』というタイトルがつけられている――は、童話『ヘンゼルとグレーテル』を取り込んだ作品なのだが、親に捨てられてしまったふたりのこどもはこんなことを口にする。

 「このまんまだと死んでしまう私たちは、自然と死んでゆくのだとして、でも、一人じゃなくって二人なわけだから、そこには順番があるのだろう。つまり、どっちかが、どっちかを、みとることになるだろう。それはもしかすると、死ぬよりも、もっと残酷なことかもしれないのに、そのことを、あの母親は、父親は、想像したのだろうか。まったく、勝手なやつらだ」

 この二つの作品においては、自ら選ぶ死ということ以上に、やがて訪れる死ということにフォーカスが合わせられているように感じる。滅んでゆく身体というイメージが『A-S』にも『2』にも登場する。これは、マームとジプシーとしても新境地であるように思える。

 「前は死ぬってことが悲しかったし、今ももちろん悲しいんだけど、『でも、ほんとに死ぬよね』みたいなことに進んじゃったのかもしれないです」と藤田さんは言う。「当たり前の話ですけど、人間は死を待つしかないわけですよね。どんな生き物も死を待っているわけなんだけど、大きなことを動かしている人たちによって“死を待っている時間”ってことが軽んじられている気がするんです。たとえば『ヘンゼルとグレーテル』を改めて読み返してみると、”親”のことを”神様”と形容したくなったんですよ。”親”が”神様”なんだとして、その神様たちはふたりのこどもを一気に捨てるわけだけど、神様たちはどれぐらい細かく考えてるのかなって思うんですよね。二人同時に死ぬなんてことがあるわけないのに、二人同時に死ぬかのように焚き火のところに捨てていくわけだから。

 あと、僕が納得いかなかったのは、最後には『お父さんとまた一緒に暮らしました』ってことになるけど、捨てたやつと暮らせるの?っていう疑問はある。そこに対しては怒りに近い感情があるから、『2』は古い家を燃やすって話にしたんです。これは『cocoon』のときも話したかもしれないけど、人って人のことを俯瞰し始めると、ひとりひとりにフォーカスを当てなくなっていきますよね。1万人が死んだら『1万人が死んだ』ってことだけで片付けて、その中に細かいことがあるってことを考えなくなる。政治の細かいことはわからないけど、数字っていう相対化されたもので動かしているから変なことになっちゃうとしか思えなくて、すごく生きづらいなって思ってるんですよね。その感覚はこの1年でもだいぶ変わった気がします」

 『cocoon』と『A-S』、二つの作品を比較したときに印象的なことがある。『cocoon』は20人が出演する舞台であり、『A-S』は19人が出演する舞台だ。いずれの作品でも、作品世界に登場する大勢のキャラクターたちがどんな人物なのか、ひとりずつ描かれていく。『cocoon』であればまず、“戦争”が激しくなる前の楽しい教室の風景が描かれ、登場人物ひとりひとりがどんな人だったのかが観客に提示される。その「ひとりひとりがどんな人だったのか」を知らされるがゆえに、舞台の後半で“戦争”が激しくなり、ひとり、またひとりと死んでいく姿に観客は胸をつまらせることになる。

 『A-S』も基本的にはひとりひとりのキャラクターが提示されていくのだが、謎の人物がひとり登場する。それは「高田君」というキャラクターだ。高田君だけ、他のキャラクターとは存在する位相が違っているように見える。その高田君について、ある二人がこんな言葉を交わす。

 「高田って知ってる? 鉛筆の芯よく食ってたあの高田なんだけど」
 「ああ、あの、皆よく知ってる高田やろ?」
 「そうそう。あいつ不思議だよね。皆の同級生みたいで」
 「ああ、わかる。高田みたいなやつって、どこにでもいそうやんね。いや、もしくは、どこにでもいそうで、いなさそう」

 『A-S』という作品の中で、高田君はまさしく「皆の同級生」みたいな存在として登場し、「どこにでもいそう」でありながらも「どこにもいなさそう」なキャラクターとして漂っている。つまり、「ひとりひとり」という存在として描かれるというよりも、どこか普遍的な存在として舞台に立っている。その存在感はなかなかに異質だ。

 「そこは『演劇的に理屈が通ってない』ってことである方面から怒られるかもしれないけど、その言葉で言うならば、高田に関しては理屈を通さなくていいって思っちゃってるのかもしれないです。たしかに、高田だけ理屈が通ってないんですよね。それ以外のキャラクターの人物相関図はできてるんだけど、高田だけは今ティーンであろう子にも『高田』って呼ばれてたり、今30代ぐらいの人も高田に鉛筆の芯をあげてたり、皆が時系列をまったく無視して高田君に接してるのが僕は結構好きなんですよね」

 『A-S』という作品に、「皆の同級生」として普遍的に存在する高田君というキャラクターが登場することは、『0123』が童話をモチーフとして取り込んでいることと通底しているように思える。『3』の『カタチノチガウ』はシンデレラが、『2』にはヘンゼルとグレーテルが、『1』には赤ずきんが取り入れられている(『0』には湖の水を飲んで鹿に変身するエピソードが登場するが、それは兄と妹という童話だろうか。それから、廊下の壁にはラプンツェルに登場する言葉が書かれてもいる)。

 童話というのは普遍的な物語だ。たとえば『ヘンゼルとグレーテル』であれば、ドイツで大飢饉が続いたとき、こどもを捨てて口減しをしたという歴史が元になったとされている。しかし、童話として描かれるのは個別の物語ではなく、普遍的な物語として描かれる。今回、『0123』という作品に普遍的な物語を――童話を――取り入れようと思ったきっかけは何だったのだろうか?

 「『カタチノチガウ』でシンデレラをやったっていうことがあって、そこから着想を得た企画だったっていうのはあるんだけど、『カタチノチガウ』って作品をこの2年繰り返し上演してきたわけじゃないですか。今回、自分の作品を眺めながら思ったのは、聡子が出演する『1』の中でも話してることだけど、童話ってやっぱ教訓なんですよね。『女の子は夜道を歩いちゃダメだよ』とか、日本の昔話だと『お腹を出して寝ると、カミナリさまにおへそを持って行かれるよ』とか。別におへそを持って行かれてもどうってことないのに、大人たちはそういうことでこどもに教訓を伝えるわけじゃないですか。聡子の台詞として『そんな教訓めいたことなんて』ってことを言うわけだけど、誰もがわかってる童話って物語を投入して、そこに対して疑っていくっていう作業をしたかったんだと思います。

 今までは、漠然としたところを疑ってたと思うんです。たとえば『てんとてん』って作品とかだと、僕がパーソナルに持っているフィールドや、僕の記憶の物語がベースだったんだけど、皆は僕が生まれた伊達って街のことを知らないわけですよね。今回の『0123』の中では、『赤ずきん』って言葉も『ヘンゼルとグレーテル』って言葉も出さないけど、まあそれはお客さんにも伝わりますよね。そういう誰もが知っている作り物を投入したときに、その作り物を僕なりに解釈するとすれば、どういうふうに疑えるのか。そういう作業をすることで、『カタチノチガウ』に良い影響を与えられるなって思ったんです。再演をやるってことに対してはあいかわらず疑いがあるんだけど、その一方でひと作品では語れないことも結構あると思っていて、そのひと作品で語れないことをどう強化するのかって作業を、童話を通じてやりたかったっていうのが『0123』だったんだと思う」

 ところで、童話というものは親に与えられるものだ。読み聞かせられるにせよ、絵本を買い与えられるにせよ、そこには親が介在する。

 親(主に母親)というテーマも、藤田さんにとって大きなテーマの一つだと言える。また、昨年12月に藤田さんの演出で上演された『書を捨てよ町へ出よう』の原作者である寺山修司にとっても、母というのは大きなテーマだ。映画『書を捨てよ、町へ出よう』に登場する家族には、母だけが不在だ(その不在は、かえって母という存在の大きさを際立たせている)。また、この映画には夜という時間はわずか3分しか登場しないのだが、それは母の不在とリンクしている。なぜなら、寺山にとって夜は母の支配する時間だからだ。

 立ちのぼる味噌汁の湯気、一日の疲れを癒すための会話、そうしたものが「家庭」を一段と強化し、幸福の擬似性を演出していたことは言うまでもない。
 少なくとも、外食をきらい、「わが家の食卓」のなかにだけ安らぎをおぼえていた私たちと同時代の子どもは、おふくろ専制の、家族帝国主義を信奉していたのである。
 夕焼けのころになると、おふくろの、
 「ごはんですよ
 という声が魔女のサイレーンのように、子どもたちを呼びよせる。
 戸外で遊んでいた子どもたちは、あっという間にその声に吸いよせられたように、いなくなる。
(「おふくろの味を踏みこえて」『寺山修司の状況論集 時代のキーワード』所収)

 『ヘンゼルとグレーテル』のこどもたちも、『2』に登場するこどもたちも、親に支配されている。母が「この子たちを捨てるんだ」と言い出したことで、ヘンゼルとグレーテルは森の深いところに置き去りにされる。あるいは、『2』に登場するこどもは、「神様がいるのだとしたら、やっぱりそれは、母親、父親、なのかもしれない。神様がすべて決める」「私たちは、二人の神様によって、そう、消されようとしている、消されようとしているのだ」と口にする。親に支配されていること以外にもう一つ共通するのは、彼らが夜の暗闇に置かれていることだ。最初に『0-1-2』の夜公演を観たときには教室の暗さにゾッとしたし、京都で買い求めた絵本『ヘンゼルとグレーテル』も、森のなかが真っ暗に描写されていてゾッとした(お菓子の家が出てくることしか覚えてなくて、親に捨てられる話だということは全然記憶していなかった)。

 「何だろうね、これは。夜を描きたいなと思いながら、夜のテイストも変わってきてる感じがあるんですよね。『ヘンゼルとグレーテル』について言うと、実はすごく美しい話だなと思っていて。自分が帰るために撒いた小石が光ってるだとか、その明るさを希望的に描いている反面、真っ暗闇に置き去りにされるわけですよね。その明るさと暗さのバランスは美しいなって思って。

 ちょっと話はずれるけど、『A-S』は結構一生懸命稽古をして、朝の10時から夜の10時まで稽古してたんです。朝早くに稽古場に入って、気づけば夜で、夜は飲むわけじゃないですか。今回は結構夜の街を歩いたんだけど、その中でできた作品でありたかったんです。夜って何かを見出す時間だと思うんだけど、それは家で本を読む時間でもいいし、酒を飲む時間でもいいんだけど、暗闇の光の関係図を再確認できた感じがする。

 あと、この元・立誠小学校も学校だった場所だけど、『A-S』の稽古をしてた京都芸術センターってとこも学校だった場所なんです。北海道にはセミがいないから、セミの声が響く感覚って北海道出身としては正直わからないんです。でも、セミの鳴き声がいつのタイミングですごい音量になるのかとかも稽古場にいながらにして定点観測できて、街が夜になっていく感じは東京にいるときよりも感じたんです」

 公演が始まってからも、藤田さんはよく皆と一緒に鴨川を歩いていた。あれはたしか7月31日、『A-S』が千秋楽を迎えた日だったと思う。出町柳のそば、二つの流れが合流するデルタ地帯で飲んでいたとき、藤田さんはある音楽を流した。それはbloodthirsty butchersの「7月/July」だ。

 「2010年のフジロックに行ったとき、ブッチャーズを観たのも7月31日だったんだけど、そのときに『7月も終わるね』って言って始めたのが『7月』で。それをすごい思い出したんですよね。そういえばあの曲は川の話だったなって」

 『7月/July』の歌詞には、こんな一節がある。

照りつける陽の下で
流れる水につかり君をわすれ 暑さをしのんでいる
かげろうがじゃまする ぼくの視界をじゃまする
去年は君と泳いでいたのに 暑い夏の陽よどうしてのりきれば
このままではすべて流れて行きそうで
ぼくを呼んだ様な気がして セミの声はひびく

 『A-S』という作品の終盤で、川崎ゆり子さんはこんな台詞を口にする。「世界の、ありとあらゆる喪失を。暗闇の中。私は。私たちは」――その作品が千秋楽を迎えたあとの時間に、鴨川沿いに佇んで「7月/July」を聴くというのは、少し似合い過ぎているくらいだ。

 それにしても、この7月というのはくらくらするような1ヶ月だった。7月1日、バングラデシュで立てこもり事件が起こり、22人が殺された。7月3日、バクダッドでトラックが爆発し、このテロで200人以上が亡くなった。アメリカでは警官が黒人男性を射殺する事件が相次ぎ、デモを警備していた警察官5人が射殺される事件も起きた。参議院選挙があった。フランスで花火を見物していた人々の列にトラックがつっこむ事件があり、80人以上が殺された。トルコでクーデターが起きた。ドイツでアフガニスタン難民の少年が「神は偉大なり」と斧を振り回す事件があった。ドイツで銃撃事件が起こり、9人が殺された。相模原の障害者施設に男が押入り、19人もの人が殺された。ほんとうに、何という1ヶ月だろう。

 中でも印象的だった事件がいくつかある。バングラデシュの事件で殺害された中には7人の日本人が含まれていた。「日本人だって無関係ではないのだ」と頭ではわかっていたけれど、いよいよ他人事ではなくなってしまった。相模原の事件は、その事件自体にも衝撃を受けたけれど、その第一報にも衝撃を受けた。あの日、僕は4時過ぎに目が覚めてしまって、早朝のニュース番組を眺めながらまどろんでいた。そこに速報が入り、相模原の障害者施設で10名以上が死傷とテロップが出て、一気に目が覚めた。あるいは、トルコのクーデター。その日、僕は京都のホテルに泊まっていたのだが、朝起きてテレビをつけるとクーデターが起きたと報じられていた。

 朝目を覚ますとクーデターが起きている世界を、わたしたちは生きている。当たり前だったはずのことが、足り前ではなくなりつつある世界を生きている。マームとジプシーの作品は、ひとつひとつの記憶に、ありとあらゆる喪失に思いを馳せているけれど、当たり前だったはずのことが当たり前ではなくなりつつある時代にそれを表現することには困難がつきまとうのではないか?

 「やっぱり、書いたことがどんどん当てはまっていっちゃうことが自分の作品の怖さだと思うんです。たとえば、『cocoon』だとか、『あ、ストレンジャー』だとかって作品も、書いたことが何かに当てはまってしまうところがあるんだけど、それは意図してなかったんです。でも、最近の僕の作品は意図的になってきたというか、どの時間を描いているのかってことを曖昧にしているぶん、どの時間のことも言えるようになってきてしまっていて。今年の7月を過ごしてみたときに、芸術をやるって結構しんどいことだなと思いました。

 マームの作品は、現実じゃないことをやっているようで、現実につながりやすいことをやっていると思うんです。いろんなことに対して、他人事じゃないなって思っていて。他人事であるからこそ他人事じゃないと思いたいし、一方では他人事であるっていう距離は相変わらずどうにも埋まらないなってことも含めて、年がら年中手を伸ばそうとしてるんです。だからこそ(作家として)止まってしまったら辛くなりそうだなって思ったし、作ってなくちゃ辛い1ヶ月だったなってことはすごくありましたね」

 『カタチノチガウ』、『2』、そして『A-S』という作品には共通することがある。それは、「戦争」という言葉がごろりと登場することだ。マームとジプシーあるいは藤田さんは、直接的に政治的な意見を表明することはないし、政治的な意見や立場を表明するために作品を作っているのではない(と思う)。しかし彼らは、今の時代をどう生きるかということを、作品を通じて描いているように感じる。

 「これは年取ったからとかでは絶対ないと思うんだけど、戦争って言葉が不思議と言いやすくなってるんです。戦争って言葉と、現実的に日本に暮らしている僕らってもっとかけ離れてたと思うんです。2011年のときだって、震災って言葉とか原発って言葉はあったにしても、戦争って言葉はやっぱりほど遠かったと思うんだけど、今は違和感がないんですよね。こんなに戦争の報道がされてる時代のことは想像してなかったんだけど、こういうふうに言葉が通ってきちゃうんだなって思うんです。それをすんなり書いている自分がいて、役者との手続きも簡単になってきてる感じがある。

 役者さんに台詞を言ってもらうっていうのは、僕が演出を施すみたいな偉そうなことじゃなくて、手続きだと思うんです。その手続きの段階で、昔はもっと話し合ってた気がするんですよね。橋本さんが書いてくれた『まえのひを再訪する』を読んでも、『まえのひ』ツアーのときに僕らは丁寧に“まえのひ”って言葉と向き合ったし、それぞれの土地で“まえのひ”って言葉がどういう響きになるかってことを拾ってツアーをしてたと思うんです。でも今、“戦争”って言葉を出すときは、それは別にぶっきらぼうになったとかではなく、『普通に戦争って言葉を言うよね?』って感じがある」

 以前のマームとジプシーであれば、その言葉がどういうイメージを含んでいるのかというところまで、藤田さんが“演出”を加えていたように思う。逆にいえば、その言葉のイメージを役者の中だけで膨らまされることに対してポジティブではなかった。でも、特に『0123』の『2』を観たときに、その作品に出演する青葉市子さんと青柳いづみさんの二人にかなり委ねている印象を受けた。もちろんテキストを書いたのは藤田さんであり、演出も施してはいるのだろうけれど、青葉市子さんと青柳いづみさんがこれまで培ってきた世界が基礎にあるように見えた。役者に委ねるということがアリになってきたのは、ここ最近のことなのだろうか?

 「不安さがなくなってきたというのはあるんです。自分が書いたものをどうやって言うのかってことに対して昔は不安があったんだけど、『2』はちょっと不思議で、出来上がったときに不安がなかったんですよね。これはとても必然的にできたと思ったんです。“みあん”(青葉市子さんと青柳いづみさんによる音楽ユニット)としてのことはまったく知らないけど、『cocoon』のときに二人は“サン”と“えっちゃん”っていう幼馴染の役だったわけですよね。それで、市子には『cocoon』でツアーしている最中にオファーしたんですけど、そのときに思い描いていたことが現実になってくれてすごく嬉しかったんです。童話で校舎を埋めたいっていうコンセプトにもすごく合ってたし、無意識のうちに戦争って時代に突入されて、それに巻き込まれるんだけど、それでも生きていくしかないから『生きなくちゃ』ってことをラストで言う――それがとても自然な流れでできた気がするんです。だから、出来上がってからはほんとに何も言ってないですね」

 『2』という作品には、『ヘンゼルとグレーテル』がモチーフとして取り込まれていると書いた。『2』の冒頭で、姉妹の姉(青柳いづみ)は「私は、私の家をもう忘れてしまった」と語りだす。ずっと前に、姉と妹は、湖のほとりで焚き火をしてきたのだ、と。このシチュエーションは『ヘンゼルとグレーテル』からもたらされたものだろう。しかし、物語の展開は大きく異なる。『ヘンゼルとグレーテル』は、両親の暮らす家に戻ろうとするのだけれど、この姉妹はこんな言葉を交わす。

 「あかりをたよりに、わたしたち、おうちをみつけにいかなくちゃ!」
 「あかりをたよりに?」
 「そう。あかりをたよりに、あたらしいおうちをみつけなくちゃ!」

 そうしてあたらしいおうちを探して森の中をさすらっているうちに、見覚えがある風景にたどり着く。遠くに見えるあかりは、ずっとまえのおうちのあかりかもしれない――そこで姉はギョッとする言葉を発する。「わたしたちが探しているのは、あたらしいおうち。ずっとまえのおうちじゃなくて。だから、だから、火を放とう、ずっとまえのおうちに」。こうして二人はいよいよ帰る場所を喪失して、あたらしいおうちを探して歩き続けることになる。

 白い衣装も相まって、二人の姿は信徒のようでもある。その姿を見て浮かんできたのは、ディアスポラという言葉だ。帰るべき場所を失って離散して、1000年、2000年というレベルで“あたらしいおうち”を探して歩いている人たちがいる。もちろんディアスポラほど大きな例を持ち出さなくたって、帰るべき場所を失って、ヒカリを探して歩き続けている人たちは大勢いる。そんなことを、二人の姿から連想した。

 「それでいうと、今回の京都滞在で一生懸命読んでたのは『漂流教室』と『14歳』で、こどもたちが宇宙空間みたいなところを彷徨っちゃうんですよね。『カタチノチガウ』の中でも、『未来にのこされるこどもたち』ってことを言うわけだけど、『0-1-2』があることでその響きが全然変わったと思うんです。ただ、『カタチノチガウ』をやった1日目はすごく感動したんだけど、昨日は気持ち悪くなっちゃって。っていうのも、昨日はお昼に『カタチノチガウ』をやって、そのあと夜に『0-1-2』って順番だったけど、これは絶望しかないなって思ったんです。

 『カタチノチガウ』のラストで、青柳さんが『未来にのこされる、こどもたち。カタチノチガウ、こどもたち。わたしや、わたしたちが見ることのできなかったヒカリを、ヒカリを、ヒカリを、ヒカリを、あなたたちは、あなたたちは』ってことを言って、そのあとで飛び降りるところで終わるわけですよね。それで終わっていいはずなのに、そのあとに『0-1-2』を観ていると、のこされたこどもたちの顛末を見せられているような気がしていて。そのこどもたちは、目が見えなくなっているわ、取り残されて変な商売をさせられてるわ、しかも市子っていうこどもとゆりりってこどもは実はアウトしちゃってるわけじゃないですか。そこは絶望しかないなと思ったんだけど、あのしつこさは新しいなと思った。

 それこそ『破裂音の朝』じゃないですけど、何万年のことをやっているような感じがしたんです。青柳さんから生まれたこどもが大きくなって、その時代は戦争で、そこで捨てられたり、商売させられたりしていたこどもが大人になって、またこどもを産む――そういうすごい長い時間を見せられてる感じがあったんです。曼荼羅じゃないけど、すごく大きな設計図がボンと置かれている感じがアツかった。これはまたどこかに到達するための途中段階なんだろうなってことは、すごい考えてますけど」

 藤田さんから曼荼羅という言葉が出てきたのは少し意外にも感じたし、必然であるようにも感じた。大きな時間を想定しつつ、人が生きて死んでゆくということのイメージを膨らませれば膨らませるほど、それはどこか宗教に近づいてくる。宗教と言って言葉が悪ければ、死生観や倫理には立ち入らざるをえなくなる。実際、『カタチノチガウ』という作品が初演されたとき、藤田さんは「作品を作るってことは、ある意味では、僕の考えっていう意味での宗教だ」ということと、「そこで倫理観みたいなところに踏み込むにはバランスが必要だと思う」ということを口にしていた。そのバランスについては、今どう考えているのだろう?

 「それがなんかね、自分自身まだわかってないんだけど、うまくなってきてるんですよね。それが怖いんだけど、昔はもうちょっと衝突がありながらある言葉を捻出してたと思うんです。でも今は、その場で思い浮かんだ言葉とかじゃなくて、ずっと考えてきた言葉を書いてたりもするんです。自分が考えてきた言葉が反映されてるから、疑いがなくなってるのかもしれなくて。ただ、さっきも言ったように、『これはこうだから』っていうことを説明することで、自分の言葉を言ってもらう人たちに洗脳をしたくなくなってきてはいるんです。ただ、僕のオファーを断ってないってことはたぶんそうだろうって思うことはあるんですよ。たとえば青柳さんが政治に対してどう思っているのかわからないけど、でも『この台詞をいうんだったら、自民党には入れてないだろう』とか、そういうことはある。そういう意味では、昔ほど言葉で確認しなくていいゾーンが増えてきたっていうこともあるんですよね。

 これは寺山さんや野田秀樹さんのテキストを上演したり、川上未映子さんのテキストで上演をしたってことが大きいと思うんだけど、気持ちのいい演劇が何かってことを考えると、僕のことをすごいと思わせないことだと思うんですよね。今、僕は僕自身を消したくて、たしかに僕の作品ではあるんだけど、作品を作った人ってことで偉くなりたくないんです。僕は作品の一部でしかなくて、これを作った人が男子なのか女子なのかわからないまま帰っていく人がいてもいいと思ってるし、どんどん裏方にまわっていきたいなって気持ちがあるんです。数年前の僕だったら、たとえば市子の音楽のBPMを上げるように演出を施したり、僕の小気味いい感じを入れようとしてたかもしれないんだけど、今回は市子と青柳さんの自然発生的な間合いでいいと思ったんです」

 話を聞いていたところに「スイカ割り、やります」と声がかかり、そこでインタビューを切り上げることになった。講堂と校舎のあいだの場所に、スイカが置かれている。目隠しをしてスイカを割ることになったのは、『A-S』という作品に出演していた今井菜江さんだ。なんて夏らしい風景なのだろう。今井さんに「もうちょっと右!」「もっと前!」と支持を出している皆の姿を眺めながら、さきほどの藤田さんの「どんどん裏方にまわっていきたい」という言葉を思い出していた。この中に、まだ話を聞けていない人が二人いる。その二人というのは、青葉市子さんと青柳いづみさんだ。