マーム・イン・京都(5)ふたりのこども

 青葉市子さんに話を聞いたのは、東京に戻ってきてからのことだ。

 市子さんの出演する『2』が千秋楽を迎えた翌日、少し話を聞かせてもらえないかと相談したのだけれども、「まだ作品のしっぽがくっついてしまっていて」と市子さんは言った。たしかに、公演が終わったあともまだ、市子さんにはしっぽがくっついているように見えた。それで、東京に帰ったあとの8月13日、池袋駅東口にある喫茶店で話を聞くことになったのである。

 少し早く着いてしまったので、僕はビールを注文して、3冊の絵本を眺めていた。その3冊というのは、『ヘンゼルとグレーテル』、『ラプンツェル』、それに『ねないこ だれだ』で、いずれも京都滞在中に買い求めたものだ。少し遅れてやってきた市子さんは、『ねないこ だれだ』に目を留めると、「これ、世の中で一番怖い本だと思います」と口にした。

 「私、この本のせいで夢を見るようになっちゃったんじゃないかと思うんです。もっとも怖い簡単な言葉の羅列じゃないですか。この『あれ あれ あれれ・・・』とかも、めっちゃ怖いですよね。これはもう、15歳以上とかにして、すべての親が自作の物語を聞かせてあげればいいのにって思います」

 ほどなくして飲み物が運ばれてきた。それでもいきなりインタビューを始める気にはなれなくて、しばらくポツポツと言葉を交わしていた。すると、市子さんは『ヘンゼルとグレーテル』を手に取り、「『ヘンゼルとグレーテル』を読んでいても、あんまり実感がわかないんですよね」と言った。「このお話のエッセンスが『2』に入っていたって実感がなくて、もっと全然違うことのほうが重要だった気がするんです」

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 夏の京都の記憶は、7月1日から始まっている。あの日、京都精華大学にあるギャラリーフロールで「Fashioning Identity」展が始まった。出展作家の中には、イナ・ジャン、森栄喜+工藤司、YANTORと並んでマームとジプシーの名前があり、青柳いづみによるオープニングパフォーマンスが行われた。そのオープニングパフォーマンスを観るべく、僕は京都を訪れていた。その時点では「この夏、京都を訪れるのはあと一度くらいだろう」と思っていた。

 これまでにも書いてきたように、今年の夏、マームとジプシーは京都に滞在し、いくつかの作品を発表した。それをまとめると以下のようになる。

7月1日@京都精華大学
「Fashioning Identity」展
オープニングパフォーマンス
出演:青柳いづみ

7月8日@京都精華大学
アセンブリーアワー講演会
「言い足りなさの中で、もがいている」
講師:藤田貴大 聞き手:蘆田裕史

7月15日@D&DEPERTMENT KYOTO
トークイベント
「“演劇”という場の作り方」
講師:藤田貴大 聞き手:松倉早星

7月23-24日@元・立誠小学校
マームとジプシー『0-1』
出演:吉田聡

7月26-31日@元・立誠小学校
マームとジプシー『0-1-2』
出演:吉田聡子/青葉市子 青柳いづみ

7月30-31日@京都造形芸術大学・春秋座
藤田貴大演出作品『A-S』

8月2-4日@元・立誠小学校
マームとジプシー『0123』
出演:青柳いづみ 青葉市子 川崎ゆり子 吉田聡

8月5日@京都精華大学
「Fashioning Identity」展
クロージングパフォーマンス
出演:青柳いづみ

 この夏の彼らの作品をすべて観るだけであれば、7月1日のパフォーマンスを観たあとは、7月31日に再び京都に出かければコンプリートできることになる。そのつもりで予定を組んでいたのだけれども、僕は4度も東京と京都を往復することになる。

 今振り返ってみると、7月1日に青柳いづみさんによるパフォーマンスを観た時点で、少し心は動いていたような気がする。そのパフォーマンスに、ひっかかりを覚えた。パフォーマンスが終わると、レセプションが始まったのだけれども、僕は中庭のような場所に座り、ひっかかりを反芻していた。しばらく経ったところで、ある女性声をかけられた。僕が東京から来たのだと告げると、その女性は「今度東京でイベントがあるのでぜひ」とフライヤーを差し出した。それは『すいめん vol.1』というイベントのフライヤーで、出演者には青葉市子さんの名前があった。

 7月11日、僕は渋谷・7thFLOORで開催された『すいめん vol.1』に足を運んだ。その日、最初にステージに立ったのは青葉市子さんだった。真っ黒な服を着た市子さんは、客席のあいだを通ってステージに上がり、何かしゃべることもなくギターをつま弾き始めた。1曲目に演奏されたのは、七尾旅人さんの「兵士Aくんの歌」だ。終演後、市子さんはツイッターにこう記している。

 自分が どこにいて それがいつの時代なのか わからなくなっていた あの時と同じ、cocoonの砂の上にいた時と同じ感覚だった

 客席で聴いていた僕も、同じような感覚にとらわれていた。彼女は今も「いつだかの夏」を走り続けているのだと思った。そうであるならば、今年の夏に京都で起こることをちゃんと見届けなければならない――そんな衝動に駆られて、16日間も京都に滞在することになったのである。

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 あの日、どうして市子さんは「兵士Aくんの歌」を歌ったのだろう。

 「決まった理由はないんですけど、サウンドチェックのとき、自分の曲を弾きたくないと思ったんです。それで、ずっと同じフレーズをまわしていて、これってなんだっけと思ってたら、『1人目の』って出たから、ああ、これ『兵士Aくんの歌』だと思って。ちゃんと歌詞を見たことはなかったんですけど、サウンドクラウドに旅人さんが上げているのを思い出して、本番までの20分くらいで歌詞を聴き取って、それで歌ったんです。自分ではそこまで意識してないとは思うんですけど、あの頃は選挙があったりとかで、世の中がざわざわしてたじゃないですか。そういう中でライブするって、スイッチを一個起こさないといけないっていうのがあったことも、無意識のうちで作用してたんじゃないかなとは思うんですけど」

 市子さんがツイートしていた「自分が どこにいて それがいつの時代なのか わからなくなっていた」という感覚は、聴衆である僕も感じていたことだ。あるいは、昨年の夏、『cocoon』を観ていて感じたことでもある。そのわからなさは、市子さんの中ではどんなものなのだろう?

 「今はたしかに夏だってことだけがわかっていて、大事な人がいたり、そばにいる人がいたりするんだけど、それは本当に私の大事な人なんだろうかっていう感覚になるんです。これは常に考えていることで、季節に限らずなんですけど。これは本当に自分が見ているものなのか、本当に自分が感じているものなのか、本当に自分に起こっていることなのか、いつも曖昧なんです。それでいうと、夏っていうことも曖昧で、京都は猛暑だったし、暑いっていうのはわかりますけど、今は絶対に夏で、その中を生きているんだっていうことはいつもわからないです。だんだん夏の日に溶けていくだけで」

 こうして話を聞いているのは窓際の席で、ゆらゆら人が歩いているのが見えた。夏になると、自分とまわりが溶けていくような感覚がある。街を歩く人も、他の季節に比べてのっそり動いているような気がする。そんなことを言うと、市子さんは「アスファルトをちゃんと歩けているかどうか、わからなくなります」と言った。「なめくじみたいに溶けてるんじゃないかと思って」。そういうと、ガチャガチャのカプセルを取り出した。「これにつまかっちゃって、遅れちゃったんです」――そういいながらカプセルを開けると、そこにはなめくじのフィギュアが入っていて、市子さんはそれを『ヘンゼルとグレーテル』の上に這わせた。

 2015年の『cocoon』を観てから、僕はちょこちょこ市子さんのライブに足を運ぶようになった。印象的だったのは、今年の4月10日、吉祥寺・キチムでタムくんと原田郁子さんと市子さんの3人で行われたライブだ。その日、郁子さんと市子さんは「青い闇」と「波間にて」を続けて歌った。その2つの曲は、2015年の『cocoon』でも使用された曲だ。その曲を聴いた瞬間、『cocoon』の舞台がフラッシュバックした。歌というのは記憶と結びついていて、その歌を聴いた瞬間に引き戻されてしまうところがある。歌っている市子さんに、歌はどう作用しているのだろう?

 「歌というものが曲という一つの形を持っているとしたら、それぞれが小さなタイムカプセルみたいになっているんですよね。『かみさまのたくらみ』を歌えば、その言葉と、そこについている音っていうのがあらかじめあるわけで、言ってみれば小さな演劇みたいなことですよね。そこで絶対にやってくる体感とか風みたいなものがあるんです。それはかかわる人や調子で毎回ちょっとずつ変わるけど、だいたい同じところに持って行かれるんですね。そのタイムカプセルが曲としていくつも自分の周りに存在しているって感じです」

 実は、4月10日のキチムでのライブのときにも、市子さんに同じようなことを質問したことがある。そのとき、市子さんは「ひどいやけどを負った感じ」と表現した。「かさぶたになっても、下からまた膿が出てくる」と。そうだとするならば、『cocoon』で経験したものは、タイムカプセルとも少し異なるものなのではないか。

 「そうですね。『cocoon』を経て、傷とか癌に近い感じで記憶が刻まれているんです。そこで“いつだかの”っていう感覚が備わっちゃったというか、たぶん一生付き合っていくんだろうなと思います。それは今まであまりなかった感覚かもしれなくて、こっちが望んでいないとしても、過去に起こったこととか体験したことって、どうしたって残っていくじゃないですか。『cocoon』で感じたことっていうのは、自分の中に植えつけられている感じなのかもしれないです。その傷みたいなものは、治らないと思っているし、治ってほしくないとも思ってるんですよね。だから、かさぶたになっても自分ではがしてしまう。忘れようと思えば、いとも簡単に忘れられてしまうと思うんです。でも、それをしたくないのは、同じ世界にまだ皆が確実に生きているからで。あの夏とまったく同じことは絶対にもうできないわけですよね。簡単に言うと、それを特別に思っているんだと思います」

 市子さんが最初にマームとジプシーの作品にかかわったのは、2014年秋の『小指の思い出』のときだ。そのときはミュージシャンとしての参加であり、ピアノのKan Sanoさん、ドラムの山本達久さんと一緒に舞台上で演奏を行っていた。しかし、2015年の『cocoon』は役者としての出演であり、しかもオーディションを受けての出演である。なぜ市子さんはオーディションを受けようと思ったのだろう?

 「後づけで意味を持たせることはできるけど、受けたときはあんまり考えてなかったんです。藤田君と会ううちに『オーディション受けてみなよ』っていう会話が2、3回あって、『じゃあ』っていうことで受けてみたんですよね。でも、『cocoon』っていうのは私にとって大きな作品で、2013年の初演を3回くらい観てるんです。あのときは稽古場にも行って、私が音楽を担当して、青柳さんが映像で出演した『5windows mountain mouth』という瀬田なつき監督の作品を皆と観たんですよね。そのとき私は桃を差し入れに持って行って、それを切って皆で食べたんですけど、それがマームとの最初の大きな接触だったんです。全部の出会いがそこに集結していて、だから『cocoon』という作品にはとても思い入れがあって。そこからマームとのかかわりが始まって、作品も観ていたから、マーム=『cocoon』ということに最初はなっているわけですよね。それはとてもとても強くて、そこからマームのことを理解したいっていう気持ちに変わっていったときに、役者としてここにかかわってみるとわかるのかもしれないと思ったんです」

 市子さんはオーディションに合格し、『cocoon』に出演することになった。しかもキャスティングされた役というのは、青柳いづみさん演じる主人公・サンの幼馴染、えっちゃんだ。そのキャスティングが、青柳さんと市子さんのその後を大きく規定したように思える。『cocoon』での二人の関係があるからこそ、藤田さんは今回『2』という作品に二人をキャスティングしたのだろう。

 前回の「マーム・イン・京都(4)」でも記したように、藤田さんは『2』という作品について、自分が演出を施したというよりも、「今回は市子と青柳さんの自然発生的な間合いでいいと思ったんです」と語っていた。元・立誠小学校に小屋入りしてから、二人はどんなふうに『2』という作品を作りあげたのだろう。

 「毎日、『たじふ(藤田)いねえな』とかって言って、『じゃあやるか』みたいな感じでした。どうしたって最後はものすごく苦しく、エモくなってしまうわけで、だから最初のうちの20分間くらいにどれだけふざけるかってことの相談をしていて、ちょっとコントを考えるのと近かったんです。藤田君の今回のテキストは、劇中で歌っている曲をそのまま会話や物語に書き換えたようなところがあって、アウトプットが違うだけでまったく同じことをやっていたと思っていて。そこに一滴、『ヘンゼルとグレーテル』が入ったぐらいだったので、彼の書いたテキストを間違えずに言うことが私の頑張ることで、どこも違和感がなかったですね。毎日ごはんを食べたりお風呂に入ったりするみたいに公演が続いていったので、すごく自然なことでした。今回、京都滞在中に藤田君と何度か話したときに、最終的には『自然現象的に』ってところに二人とも落ち着いていたんです。やりたいことっていうのは、自然現象としてそこにどれだけ入っていけるかっていうことで、無理やりねじ開けて入っていくよりは、自分がそこにいることも含めて自然現象になる。その中で作品ができていくと一番いいよねってことを、なんとなく話してました」

 たしかに、『2』という作品は、自然現象のように感じられた。だとすれば、市子さんが「作品のしっぽがくっついてしまってい」ると感じたものは一体何だったのだろう?

 「今は『2』を終えて、『2』のしっぽがくっついているわけですけど、それはつまり青柳さんとの時間というものがくっついてきているわけで。あれから彼女と全然一緒に過ごしてないんです。一回だけ飴屋さんの演劇を一緒に観に行きましたけど、それ以来連絡も取ってないし、どっちがメールを送ったのが最後だったかもおぼえてないぐらいで。でも、自分の肉体が動いて、自分の手が視界に入ってきたときに、その手がどっちの手なのか、ちょっとわからなくなるときがあるんです。手のここにホクロがないから、これは青柳さんの手じゃないよねってわかるんだけど、ちょっとバグが起こるんですよね」

 青柳さんと市子さんとの関係はどこか不思議だ。作品でかかわることでしっぽがくっついてしまうのだとすれば、そのしっぽを取ろうとするのではなく、むしろ巨大化させているようにも思える。『小指の思い出』、『cocoon』、『2』と作品上でかかわるだけでなく、二人は“みあん”という音楽ユニットを組んで活動もしている。そうした活動は、さきほどのかさぶたのたとえにあるように、その傷を治さずに増幅させているようにも見える。

 「そうかもしれない。彼女のことは彼女に聞かないとわからないけど、そういう状態が私も青柳さんも好きなんじゃないですかね。でも、意味とかをお互いそんなに考えてない気がするんですよね。一緒にいるときも、そこまで考えてなくて。というのは、誰かと一緒にいるっていう感覚がもはやないからだと思うんです。自分とまったく違う個体だと思ってなくて、半分透けてるのが重なっていて。それで言うと、『小指の思い出』のときも私が歌っている上で青柳さんはしゃべってるし、演出上でも最初から重なってますよね。今となっては驚かなくなったけど、会うと爪の色が一緒だったり、服が似ていたり、同じものを買ってたりとか、そういうことがあり過ぎて。それがもう当たり前になっているので、わざわざ特別な感じにとらえてないんだと思います」

 二人がどこか重なりつつあることは、はたから見ていてもわかっていた。だからこそ意外だったのは、8月2日に皆で飲みに出かけたとき、市子さんが青柳さんの近くに座ろうとしなかったことだ。話を聞いてみると、それには理由があったのだという。

 「京都にきてからはどこに行っても、打ち上げでも必ず一緒にいたんですよね。それが8月1日の休演日、青柳さんは『カタチノチガウ』の稽古をしてて、私はその日会場には行ってなかったんですけど、『食事においで』って古閑ちゃん(制作の古閑詩織さん)から誘われたんです。いつものように、当たり前に青柳さんのほうに歩いて行ったら、ちょっといつもと違ったんです。『あっち座れば』みたいな感じで、その日はほぼ目も合わなくて。同じように顔を出していても、隣にいる藤田君とか“ひび”の子のほうに向かってしゃべっていて、壁がある感じがして。これは何だろうなと不思議に思ったんですよね」

 『2』という作品のことを改めて思い出してみる。あの作品の中では、こんな台詞が語られる。

 「このまんまだと死んでしまう私たちは、自然と死んでゆくのだとして、一人じゃなくって二人なわけだから、そこには順番があるのだろう。つまり、どっちかが、どっちかを、みとることになるだろう。それはもしかすると、死ぬよりも、もっと残酷なことかもしれないのに、あの母親は、父親は、想像したのだろうか。まったく、勝手なやつらだ」

 どんなに重なっているように思えても、一人ではなく二人である。重なれば重なるほど、そのことを意識させられるし、台詞としてもそれを語る。近づけば近づくほど、離れようとする力も同様に働く。そういう感覚は、青柳さんの中だけにではなく、市子さんの中にも生まれているのではないだろうか?

 「そうなんですよね。すごく近づいてしまう面と、すごく遠ざけてしまう面があるんです。こんなふうに何日間も同じ土地で、朝から晩まで一緒ってことがなかったんですよね。しかも今回はふたりきりで。近づいて見てより明確になったことではあるんですけど、たとえばすごく小さなことで言うと、買い物にふたりで行くわけです。『サンリオショップ行くけど、行く?』みたいな話になって、お弁当箱を買おうってことになると、『私はこれにする』『じゃあ私はこっち』とかじゃなくて、ふたりで同じものを持とうとする。まあ趣味が一緒といえばそれまでなんですけど、そこで小さな束縛みたいなものが始まっていくんですよね。最後のほうになると、どこかでごはんを食べるとき、『私はこれにする』って言ったあと、青柳さんがこっちをふっと見て『市子もこれだよね?』って感じになってくるんです。それじゃなくてもいいんだけど、それも食べたいと思ってたから『じゃあそれにする』って答える。お互いにそういうことが起きていて、ちょっと血が濃くなっている感じがして、そこにおえってなってました」


2016年7月23日撮影


2015年夏、座間味島にてコロスケさん撮影

 青葉市子さんに話を聞いた5日後。

 青柳いづみさんと待ち合わせたのは、駅を挟んだ反対側にある東京芸術劇場の前だった。目の前に広がる西口公園では、大勢の人が立ち尽くしてポケモンGOに興じている。どこで話を聞こうか相談したとき、青柳さんが唯一指定した条件は「牡蠣の食べられる店」ということで、公演期間中に皆で訪れたことのあるイタリアンの店に入ることになった。

 「こないだの京都のとき、市子もものすごく牡蠣好きになってたんです」と青柳さんは言う。「去年のツアーのときは、私が牡蠣牡蠣言っててもそんなにって感じで、むしろ苦手ぐらいの感じだったのに、京都では市子のほうが牡蠣牡蠣言っていて、適当な店に入ったんです。そこはB'zが流れちゃうような店だったんですけど、そこの牡蠣がほんとにまずくて食べれなくて。その時点で私はもう、京都で牡蠣はやめようと思ってたんですけど、市子の執着心がすごくて、もう一回リベンジしたんですよね。そのとき市子はおいしそうに食べてました」

 牡蠣が苦手だった市子さんが牡蠣好きになったというのは、印象的なエピソードだ。それは、市子さんが「血が濃くなってくる」と言っていたことと近いことであるように感じられる。二人の距離が近づいて、重なっている部分が増えたことで、市子さんまで牡蛎が好きだと感じるようになってしまったのではないか。そう伝えると、「京都では市子が牡蛎牡蛎言ってたけど、それを言っていたのは私かもしれない」と青柳さんは言った。だとしたらそれは去年のツアーの影響です、と。そもそも、市子が牡蠣を食べられるようになったのも、去年ツアーで訪れた沖縄だったそうだ。

「京都にいたときも、市子は『おとぼけ観光だね』って言ってました」

 おとぼけ観光というのは、一部で“おとぼけ”と呼ばれる青柳さんがガイド役を務める旅だ。2013年、2015年に『cocoon』を上演するのに先立って、出演者の皆で沖縄を旅したことがあるのだが、その旅が“おとぼけ観光”と呼ばれていたのである。2015年に『cocoon』を上演したときは全国6都市を巡ったのだが、ツアーで沖縄を訪れた際にも“おとぼけ観光”が始まり、何人かで座間味島に出かけたのだという。

 「座間味に行ったとき、有無を言わさず自転車を借りて、皆でお参りに行ったんです。平和之塔があって、集団自決の碑があって、そこからもっと上にあがると下り坂になるんです。そこは一人で行ったことがあったんですけど、市子とコロスケさんに見せたいから、『坂だけどもうちょっとだけ頑張ってくれ』って言って、そこからピューッと坂を下ったんです。結局島を一周したから、二人はほんとに大変だったと思う。今回の京都でも暑いなか自転車移動だったから、市子は『おとぼけ観光だね』って言ったのかもしれないです」

 “おとぼけ観光”に限らず、公演期間中の青柳さんはモードが違っているように見える。本番が終わると、翌日も公演があったとしても、いつも皆で食事に行こうとする。それは少し病的に見えるほどだ。

 「私は“皆でどっかに行こう病”にかかってるんです。市子が私について話してたことのニュアンスは、それもあると思います。稽古のときは二人で行動してたんですけど、公演が始まると『皆でどっかに行こう』になっちゃうんですよね。それはよく藤田君にも怒られます。『まえのひ』ツアーのときも、沖縄あたりで『そろそろ皆でとか言うのはやめよう?』って言われました」

 青柳さんの“皆でどっかに行こう病”については、昔から不思議に感じていた。それと同様に不思議なのは、舞台を降りた瞬間から青柳さんはケロリとしていることだ。絞首台に立ってラストを迎える舞台を終えた直後でも、崖から飛び降りてラストを迎える舞台を終えた直後でも、青柳さんはケロッと雑談をしているのだ。

 「それも市子に言われたんです。終演後に話をしていたら、何でそんなにしゃべれるのかって。私はいろんなことをしゃべっちゃうし、しかもよく考えずにしゃべっちゃうから、市子は心配してくれてるんだと思う。でも、私は自分そのものには何の価値もないと思っているからこそ、私自身は何だっていいということ?」

 その話を聞いていて、音楽と演劇の違いということに思いを巡らせる。音楽のライブを観ていると、僕はそこで鳴らされている音に共鳴しているような心地になることがある。その場に響いている音を、その場にいる皆が共有する。音というものを媒介にして、音楽家と聴衆とが繋がっているような感覚になる。しかし、演劇の場合にそうした「共鳴」が起こることはなく、あくまで観客席にいる私は作品を見届けている。

 「そうですね。音楽によって共鳴し合うっていうことは、言葉としてもすごくつながると思うんですよ。でも、演劇をやっていると、共鳴なんてものはないんだと思ってしまう。演劇をやっている人間同士が共鳴することなんて、そもそもないだろうなって思うんです」――ここで青柳さんが「共鳴なんてものはないんだ」と語ったことに、この2年の時間の流れというものを感じていた。

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 マームとジプシーが元・立誠小学校で作品を発表するのは2年ぶりのことだ。2年経った今とでは、青柳いづみという女優は大きく変化している。そのきっかけとなったのは、2015年1月に初演を迎えた『カタチノチガウ』だ。原宿・VACANTでの公演中、青柳さんの声が出なくなり、公演が中止となってしまった。その1ヶ月後に話を聞いたとき、青柳さんはこんなふうに語っていた。

 「ほんとうに、自分の内側には何も通ってないと思ってたんです。肉も、骨も、血も、何もないものだと思ってたんでしょうね。声が出なくなったときに、私は今まで何にもないと思い過ぎてたんだと思いました。 前にも話した気がするけど、私は自分が筒みたいなイメージをすごく強く持っていたんです。『筒みたい』っていうのは朝吹真理子さんに言われた言葉なんですけど、公演が中止になった数日後に、朝吹さんからメールがきたんです。『チューブみたいだと思ってたおとぼけも、ちゃんと肉の詰まった人間なんだと思ってホッとした』って。そう言われて、『そうだ、私、人間だった』と気づいたんです。それまでは人間だと思ってなかったというか、舞台に出てないときの自分は存在してないも同然だし、舞台に立ってるときは『自分は筒だ』と思ってるから、人間だと思ってる時間がなかったですよね」

 自分は人間だと気づいたことが、舞台にどう影響するのか――それを考える好い例が『cocoon』である。『cocoon』は2013年と2015年にそれぞれ異なるメンバーで上演されているが、青柳さんはいずれも主人公のサンを演じている。ただ、2013年の『cocoon』における青柳いづみは筒であり、2015年の『cocoon』では人間であった。その違いについて、青柳さんは以前こう語っていた。

青柳 2年前の私は、舞台上にあるものすべて――他の役者も、舞台装置も、美術も、すべてが私みたいに思ってたんですよ。自分の実体がないから。

――自分ってものの境界がなくて溶け出してるから、舞台上のすべてと繋がってたわけですね?

青柳 そう思ってたから、全部が私で、客席も含めて全部私がコントロールできると思ってたんです。なんか、ヤバいやつだったんですよ。イカれたやつだったんです。共演者も全部自分だと思ってたから、その人個人に対する何か、みたいなことはなかったんです。でも、今年の『cocoon』では変わったと思ったんです。

――すごく変わりましたよね。人間でしたね。

青柳 そうなんです。人間として――それが最大の変化かもしれないですね。人間になった。

 「他の役者も、舞台装置も、美術も、すべてが私みたいに思ってた」頃の青柳さんならきっと、「共鳴なんてものはない」とは言わなかっただろうし、そもそも市子さんも自分の一部であると感じていたはずだ。

 「そうですね。行き過ぎるってこともできなかったってことですよね。それは、他者がいるからってことですね。自分がコントロールできない領域にいる存在があって、しかもそれが演劇以外の何かであるってことが今回は大きかったんだと思います」

 人間になった変化は、舞台を降りた時間にだけでなく、作品にも影響を与えている。だとすれば、だ。今回青柳さんの出演した『2』という作品について、藤田さんは「自然発生的」と語り、市子さんが「自然現象」と表現していた。人間になったことで、どこかアンバランスを抱えたまま自然発生的に作品を作るということは、とても消耗する作業だったのではないのだろうか?

 「でも、私は『2』という作品のことを自然現象だとは思ってないんですよね。あれは確実に藤田君が作って演出した作品だと思えている。『1』の初日があけた次の日とその次の日、その2日間のお昼時にようやく稽古をしたんです。その2日間も藤田君は『A-S』の稽古があるから短い時間でしたけど、本当にその時間で作ったんですよ。言葉と配置だけではやっぱりできない部分がある。そこは藤田君の存在が大きい。藤田君の目があって耳があって生まれた作品だから、だからあれは自然発生とは思えないです」

 もちろん、どんなに自然発生と言おうとも、『2』は藤田さんの作品である。そのことは確かだし、藤田さんがまったく不在であれば作品として成立しなかっただろう。しかし、それでも僕は、『2』という作品には自然発生的と呼びたくなる要素があったように感じられる。

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 『カタチノチガウ』という作品は、マームとジプシーの新境地と呼ぶべき作品だったように思う。

 藤田貴大という演劇作家が繰り返し描いてきたモチーフに「水」がある。彼が描く街には海があり、あるいは湖があり、あるいは川が流れていたけれど、『カタチノチガウ』で描かれるのは海も湖も川もない枯れきった世界であった。その世界に生きる、青柳さんが演じる長女もまた、いつか枯れてしまう身体について、やがて訪れる死について言及する。「私たちは、生きることが、果たして本来なのだろうか?」と。その作品で、青柳さんの声が出なくなってしまうというのは、出来過ぎた話であるようにも思えてくる。

 自分も人間だったという気づきから1年が経ち、「舞台上にあるものはすべて私」だと思えていたところから感覚が変わり、アンバランスな部分を抱えている。そうした現状の中で『2』という作品があり、そこで「二人一緒に死ねない」という台詞が登場する――この流れを見ていると、作品で描かれている世界と、青柳いづみという女優の現在とが、どこか影響し合っているように思えてくる。どちらが卵であり、どちらが鶏であるのか、わからなくなるときがある。そういう意味では、『2』という作品が生まれたのは、とても自然発生的であるように思える。

 「たしかに、いつもそうですね。いつも崖の上に立たされる。そういう意味では、自然発生というのか、お互いがお互いを崖に引っ張っていくみたいなところはあるのかもしれないです。他にそういう人がいないのが問題ですね。だから私が崖に立たされるんだって思いますけど。でも、他に崖に立たされる人がいたら終わります。この世に女優は一人でいいから、私はいらなくなる」

 その「お互いがお互いを崖に引っ張っていく」感覚は、ここ最近さらに増しているように感じる。これは以前から感じていたことでもあるけれど、特に今回の『2』という作品では、舞台上にいる青柳さん(らしき誰か)が殉教者のように見えるところがある。実際、作品の中ではこんな台詞も口にする。

 「神様がいるのだとしたら、やっぱりそれは、母親、父親、なのかもしれない。神様がすべて決める。この世界のすべて。私が殺さなくても、きっと彼女は死ぬだろう。私も、私もまもなく死ぬだろう。私たちは、二人の神様によって、消されようとしている、消されようとしているのだ」

 それに続けて、長女を演じる青柳いづみは「消されゆく私たちは、消されることにあらがってもいけない、消されゆくこの時間を、受け入れなくてはいけない」とも語る。真っ白な衣装や、髪につけた糸のような飾りも相まって、何か信仰を抱えた人の姿のように見えてくる――そんな話をすると、「あの糸は『1』で聡子もつけてたし、縛られている感じはするよね」と青柳さんは言った。お互いが崖に向かって引っ張りあって、先鋭化すれば先鋭化するほど、世俗の世界から遠ざかってしまうおそれがある。

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 ところで、「この世に女優は私一人でいい」というのはとても誤解されやすい言葉だ。ごく素朴に読めば傲慢な言葉であるように思えるし、とても我の強い女優を連想する。しかし、舞台上に存在している青柳いづみ(らしき誰か)を観ていて連想するのは、むしろその逆のイメージだ。

 たとえば、昨年末に上演された『書を捨てよ町へ出よう』という作品がある。この作品にも、「この世に女優は私一人でいい」というフレーズが登場する。青柳さんへの取材をもとにして、穂村弘さんが「この世に女優は私一人でいいんだよ」というフレーズを含む詩を書き、舞台のラストで青柳さんがそれを語るのである。その詩は、こんなふうに終わりを迎える。

  どれだけ空を見たら
  大空が見えるの
  どれだけきいたら
  つらいなげきがきこえるの
  どれだけひとが死んだら
  平和な日がくるの

  ニホンノミナサン サヨーナラ

  誰もわたしの名前を知らない

  神様、あたしを、終わらせて
  パチン

 
 この詩を語っているあいだ、青柳さんは涙を流していた。そうして「パチン」という呪文とともに舞台は暗転し、しばらく暗闇が続いたのち、舞台に再び灯りがともされる。印象的だったのは、暗転する直前と、再び灯りがついたあとではまったく別人のように見えたことだ。それは別に、「役になりきっていた」というようなことではなく、舞台上にいるのは“誰でもない誰か”であるように見えた。世界のどこかに存在するであろう――もしくは存在していたであろう――誰かであるように見えたのだ。青柳さんらしき誰かは、いつも“誰でもない誰か”として崖の上に立たされている。そうして先端に立たされながら、いつも生と死を見つめている。あるいは、『カタチノチガウ』のラストでは、青柳さんは「未来にのこされる、コドモたち。カタチノチガウ、コドモたち。わたしや、わたしたちが、見ることのできなかった、ヒカリを、ヒカリを、ヒカリを、ヒカリを。あなたたちは、あなたたちは」という台詞を語る。その台詞を語る青柳さんは預言者のようでもある。

 青柳さんに話を聞いていていつも考えさせられるのは、舞台に立つ役者とは一体何であるのかということだ。

 僕は昔、役者というのは演じる役になりきって、ある台詞を語る人だとしか思っていなかった。もちろんそれも役者である。しかし、青柳さんが「この世に女優は私一人でいい」というとき、その“女優”という言葉の意味するものは大きく異なっている。舞台上にいる青柳さんらしき誰かが、“誰でもない誰か”として存在しているということは、祈りのように見えることもがある。演じるということは日常生活からすると奇妙なことだけれども、どうしてそこまでエネルギーを注ぐのだろう?

 「私も思いますよ。普通の男の人と普通の女の人のあいだに生まれて、どうして演じるなんてことをやっているのか? でも、ずーっと昔から、演じることを勝手にやってた。ひとりでいるときは、観客なんていない状態で私はずっと演じてました。小学校のとき、私はもう、ずっと不幸な少女を演じてたんです。不幸な少女ってたぶん鍵っ子だと思って、そこらへんで買った鍵を紐にくくりつけてたんですよね。家の鍵は常に開いてたのに、家とは全然関係ない鍵を持って過ごしてました。あと、常に片足をびっこにして歩いたり、階段を見つけてはのぼってビルの屋上に行く。そうするとビルで働いている人が上がってきて止められるっていうことを繰り返してました。屋上は、ただ高いところに上りたかっただけなんだけど。それが私の遊びでした。みんなでいるときは、『明るくて元気で優しくて可愛い少女』になっていたのかな。あとはホームレスごっことか」

 ホームレスごっこという言葉を聞いたとき、農村に生まれ育った僕は「何て都会的なのだろう」と思った。田舎でホームレスというのは成立しづらいところがある。この文章を書いている今、僕は里帰りをしているところだけれど、ここでは多くの人が顔見知りだ。田舎であれば、村八分ということはあり得るかもしれないが、ホームレスというのは街に出るまで見たことがなかった。それを伝えると、「言っていることはわかります」と青柳さんは言った。「久しぶりに東京駅に降り立ったときに、市子と二人で話したんです。この誰でもない誰かみたいな感じが東京だよねって。それがすごく居心地がいいってことを、二人で話しました」

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 牡蠣を食べた10日後、僕は再び青柳さんに話を聞くことになった。「あのときに話したことの大半は、ただの性格の話だって気がする」と青柳さんが言うので、改めて話を聞くことになったのだ。過去に話を聞いたときも、青柳さんは言葉にするのが難しそうだったけれど、今回はいつにも増して難しそうに話していた。

 「こんなにもまとまらないのは、まだ終わってないからだと思うんです。それは別に、『私のなかではまだ作品が続いてる』とかって話ではなくて、何かが起きるまでの途中のものって感じがするんです。そういう気持ちが強いから、この夏京都で何があったのかって話をするときに、しょうもないことしか答えられないのかもしれないです」

改めて、京都で僕が目にしたことを思い出す。そこでふと思い出したのは、市子さんに言われた言葉だ。話を聞き終えたあとで市子さんは、「私が話したことよりも、橋本さんが観ていたことが本当だと思います」と言った。僕が観ていたことで、まだ話していないことがある。それは、7月1日、青柳いづみさんによるオープニングパフォーマンスを観たときに感じた“ひっかかり”のことだ。その日、青柳さんが行ったパフォーマンスというのは、川上未映子さんの「先端で、さすわ さされるわ そらええわ」と「冬の扉」、2篇の詩を青柳さんが上演するという内容だった。

「私が今考えていることも、未映子さんのこと。京都での打ち上げのときに『やぎは300歳まで生きて』って言われたんです。『私も頑張って100歳までは生きるから、300歳まで生きて、私たちに観続けさせて』って。35歳でさえ想像するだけでも無理かもしれないと思うんですけど、未映子さんが言うなら300歳まで生きたいと思いました。そうすると200年のあいだ、私は孤独に耐えなければいけないんですけどね」

 川上未映子さんの詩を、藤田貴大さんが演出し、青柳さんの一人芝居として上演する――『まえのひ』と名付けられたこのツアーが全国7都市を巡ったのは2014年春のことだ。約2年ぶりに上演された作品を観ていて、ぼくがひっかかりをおぼえたのは、2年という時の流れを感じさせられたからである。パフォーマンスに使用される音楽は録音物であり、2年前と同じ音を鳴らしているぶん、青柳さんが2年前とは違っているということが際立っていた。

 2014年の公演で印象的だったのは、その“叫び”である。ツアーに先立って収録された対談で、川上未映子さんはこう語っている。

彼の作品を観ていると、「過去・現在・未来」というものにものすごく拘泥しているんですよね。「時間が過ぎ去っていくことに対してまったく僕は了承しないし、当然だなんて思わない。徹底して抗います」という気持ちをすごく感じます。そこが私と彼に共通するところなのかなと思っているし、彼の作品を観たいのもそのせいだと思う。彼は、人生が1回しかなくて、すべてが過ぎ去っていくことが許せないんですよ。私も許せない。つまり、いつか全員が消えてしまって、この世のすべてが終わってしまうということが本当に理解できない。

 青柳さんがまくしたてるように言葉を発し、舞台に設置された蛍光灯は白いヒカリを放ち、音楽も大ボリュームでかき鳴らされる。それはまさに叫びのようなものだった。僕はその叫びに圧倒されたのをおぼえている。しかし、2年経った今、僕が凝視してしまうシーンはそこではなく、むしろ音楽がやみ、ヒカリが消えたあと、訥々とつぶやくように語るシーンだ。その背後にはどこか寂しさのようなものが漂っていた。

 2年前に『先端』という詩を読み上げている青柳さんは、まさしく筒であるように見えていた。筒である青柳さんと『先端』という詩は響き合っているように見えた。しかし、人間になった青柳さんは――舞台上に存在する“誰でもない誰か”は――新しい言葉を欲しているように見えた。

 「打ち上げで飲んでいるときに、『やぎ自身のことを書けるのは、私しかいないのかもしれない』ってことを未映子さんが言ってくれたんです。舞台上にいるのは誰でもない誰かであるんだけど、でも、やっぱりそこには一人のひとがいる。名前のある誰かが、そこに生きている。その姿が見えたから、その人のことを書きたいって言ってくれて。『まえのひ』をやったときから、また一緒に作品を作りたいって話をしてたんですけど、オープニングパフォーマンスを観て『やっぱり私が書く以外ないのかも』って言ってくれたんです」

 青柳さんは以前、「舞台に立っているときだけ生きていて、あとの時間は死んでいるも同然だ」と語っていた。しかし、人間になったことで、その舞台と日常との境目が揺らぎつつあるように見える(だからこそ、京都滞在中に市子さんとの距離感がアンバランスになったのではないか)。それと同時に、「このままだと普通になってしまうのではないか」「このままだとすごいものを観客に見せられなくなってしまうのではないか」という危惧を、ここ最近の青柳さんは抱いていた。

 「こないだ、郁子さんともその話をしたんです。フィッシュマンズのライブを観に行ったときに久しぶりに郁子さんに会ったんですけど、郁子さんが地面に立っている感じに見えたんです。『カタチノチガウ』で声が出なくなったとき、その声が出るようにしてくれた先生は郁子さんが紹介してくれた先生で、声のことについては郁子さんと一番話してるんですけど、そのライブのときに郁子さんの声が変わったように感じたんです。それを伝えたら、郁子さんも『自分でも最近変わったと思うんだよ』と言っていて。そこで、私がなんとなく疑問に思っていたことをぶつけたんです。そういうときに、このまま行くとつまらなくなるんじゃないかって思いませんかって。そのときに郁子さんが『おとぼけに読んでほしい漫画がある』と紹介されたのが『夏子の酒』って漫画だったんです」

 『夏子の酒』というのは、尾瀬あきらが1988年から1991年にかけて『モーニング』に連載した漫画だ。主人公の夏子は、東京の広告代理店でコピーライターとして働いていた。彼女の実家は酒蔵であり、兄の康男は幻の酒米「龍錦」を使った日本一の酒を造ろうと奮闘していたが、病に倒れ、帰らぬ人となる。夏子は会社を辞め、兄の遺志を継いで日本一の酒を造るべく奮闘する――そんな漫画だ。

 日本一の酒造りだけを見据えて奮闘するなかで、「あたしきっと松尾様につかえる巫女よ」とまで口にするようになる。松尾様というの酒の神だ。しかし、その一方で、巫女として奮闘すれば奮闘するほど、何かを犠牲にしてしまうことに夏子は気づかされる。そこで夏子は、酒造技術者である上田先生にこんな言葉を漏らす。

 「先生……あたしは兄の遺志を継いで龍錦を育て酒を造るために東京から戻ってきました/そのためにあたしは松尾様に身も心も捧げる巫女になろうと思いました/でも……/神に近づくということは……人間から離れていくことなんですね/人間らしい感情を捨てることなんですね/目的のためには人を傷つけることも……/愛を捨てることもできる人間になることなんですね」

 その数日後、夏子は改めて先生に問う。「先生はあたしを普通の娘だとおっしゃいました/あたしでは……人間から離れて松尾様の巫女になれませんか……?」と。その問いに対する答えこそが、郁子さんが思い出した言葉だろう。そこで先生が語るのはこんな言葉だ。

 「あんたは なぜそう分けて考える? それでは厳しさは味わえても造る喜びは味わえんぞ/がんばれ専務! 人間味あふれる巫女になれ!!」

 ところで、夏子が目指しているのは「日本一の酒」だ。酒造りに奮闘するなかで、夏子は、兄・康男が残してくれた吟醸酒吟醸N」の存在を知る。「吟醸N」は夏子に強烈な印象を残した。「それを口にして以来あたしの舌はいつものその酒の片鱗を求めその味を基準に味わうようになってしまいました」。そんなふうに夏子は語る。

 日本酒であれば、味というものが基準となる。女優の場合、基準となるものは一体何なのだろう。そういえば以前、青柳さんはこんなふうに語っていたことがある。

 「稽古のときに藤田君が『出口になる人はほんとに選ばれた人たちだし、その人たちに作ってもらったり、しゃべってもらえることはどんなに幸福なことか』って話してるのを聞いて、私の役割は、人の言葉を発語すること、それだけだと思ったんです。それだけだけど、それをしていい人としてはいけない人は明確に分かれている。俳優と呼ばれる人たちを観ても別に、彼らが選ばれているなんてことは思わないんですよ。でも、名久井さんの仕事を見ていると、ほんとに果てしないなと思うし、名久井さんはきちんと出口に立っている。私もこうでありたいと思ったんです」

 人の言葉を発語するときに、それをしていい人としてはいけない人が明確に分かれている。そうであるとするならば、それを隔てるものは一体何だろう?

 「たとえば天皇陛下を前にすると、絶対に敬語を使いますよね。私は会ったことがないからわからないけど、絶対に皆そうなると思うんです。それと同じように、誰が観てもこれはきれいだってこととか、誰がどう考えてもこれは悪いことだっていうことはあると思うんです」

 ここで青柳さんが天皇陛下に言及したのは、僕が先に天皇陛下の話を出していたからだ。僕がこの夏に京都に滞在しているあいだ、思いを巡らしていたことの一つは天皇陛下のことだった。それは、ここまで書いてきたことと無関係ではなく、僕の中ではつながっている。

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 小さい頃の記憶はいくつか残っているけれど、社会的な出来事として最初に記憶しているのは、昭和天皇崩御したときのことだ。といっても、昭和天皇に関する記憶はなく、テレビ番組の放送内容がいつもと違ったことなどはまったく記憶に残っておらず、おぼえているのは「平成」という元号が発表されたときのことだ。つまり、僕の記憶は今の天皇陛下が即位してから始まっているとも言える。

 だからといって別に、「俺は天皇陛下に心酔しているのだ!」などと言いたいわけでは当然ない。しかし、その天皇陛下生前退位の意向を周囲に伝え、“お気持ち”を表明すると知ったときは少し心がざわついた。そのビデオが放送される日は、昼頃から落ち着かない気持ちでそわそわ過ごしていた。そうしてビールを飲みながら放送を観た。「即位以来、私は国事行為を行うと共に、日本国憲法下で象徴と位置づけられた天皇の望ましい在り方を、日々模索しつつ過ごして来ました」。その語り出しに、途方もない重みを感じた。

 そのメッセージでも「憲法の下、天皇は国政に関する権能を有しません」と語られていたように、天皇には政治に関する発言ということは許されていない。その天皇陛下が語る“お気持ち”とは一体何であろうか。象徴とは一体何であろうか。天皇という存在によって象徴されているものは何であろうか。ビデオメッセージで、天皇陛下は「私が個人として、これまでに考えて来たことを話したいと思います」と語り出したけれど、天皇というのが象徴であるとすれば、それは特定の個人ではありえず、普遍的な存在で―― “誰でもない誰か”で――あるのではないか。

 「私が天皇の位についてから、ほぼ28年、この間私は、我が国における多くの喜びの時、また悲しみの時を、人々と共に過ごして来ました。私はこれまで天皇の務めとして、何よりもまず国民の安寧と幸せを祈ることを大切に考えて来ましたが、同時に事にあたっては、時として人々の傍らに立ち、その声に耳を傾け、思いに寄り添うことも大切なことと考えて来ました」

 天皇陛下は慰霊の旅を続けてきた。この世界から喪失されたものを追悼し続けてきた。そうして追悼することもまた、宮中祭祀と同様に神事であるように思われる。これは天皇陛下の祭祀や慰霊に限らず、神事というものは演劇的な側面を持つ(神事から演劇が生まれたと記したほうが正確なのかもしれないが)。神事に携わり、祈りを捧げる人の姿を、ときに私たちは目にする。その姿に、私たちは何を思えばいいのだろう。そんなことを、この夏を通じてぼんやり考えていた。

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 誰が観てもこれはきれいだってこととか、誰がどう考えてもこれは悪いことだっていうことはあると思う。青柳さんのその言葉を反芻する。誰が観ても。誰がどう考えても。それは、言い換えれば普遍的であるということだ。

 何度も書いてきたように、京都で上演された『0123』という作品が童話を取り込んでいる作品だった。童話というのはある種普遍的な物語だ。あるいは、今年の年末に藤田さんが演出し、青柳さんも出演する『ロミオとジュリエット』という戯曲もまた、誰もが知る物語だ。観たことがない人だって、それがどんな物語か知っているだろう。それらが普遍的な物語たりえるのは、そこには人間の持つさまざまな心理が描かれているからだ。

 「童話ってさ、『そういう人間の心理ってあるよね』ということが描かれているけど、『そんな人間の心理、ある?』って描写もあるじゃないですか。小さい頃はただただ恐ろしいものの象徴だった気がするんですよね。『ヘンゼルとグレーテル』だって、まず何でこどもを捨てるのって話だし、灰かぶりだって、ガラスの靴に足を入れるためにかかとを切り落とさせるわけですよね。『そんなこと、ある?』って思いません?」

 しかし、そんなことっていうのは起きてしまうのだ。『ヘンゼルとグレーテル』は、ドイツで大飢饉が起きたときに子を捨てて口減らしをする親が現れたことで生まれた物語である。今日本という国の中で繰り返されている事件だって、「どうしてそんなことになってしまうのか」という連続でもある。どうして、そんなことが起きるのかに思いを巡らせる――その意味においても童話というのは普遍的な物語であり、人間の本質が描かれている作品でもある。

 「そうですね。『0123』で童話を扱ったのは、人間の本質が描かれている何かについて考えるということだったんだと思います。それはきっと、このあとに『ロミオとジュリエット』があるからだろうと思いますし、『ロミオとジュリエット』をやることでこのあとの作品も大きく変わってくるんだと思います」

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 青柳さんに話を聞いた日は満月だった。神事というものは、新月の日と満月の日に執り行われるものが多かったのだと何かで読んだ。人は満月に何を祈ってきたのだろう。そんな漠然とした疑問を酔っ払った頭で考えながら、月を探した。でも、この日は曇っていて、どこにも満月を見つけることはできなかった。漠然とした疑問に答えを見つけられるはずもなく、坂を下っているうちに神田川に出た。しばらく川の流れを眺めた。京都で歩いた川とはずいぶん違っているけれど、ここにも川が流れていて、どこかにつながっている。その水面を眺めながら、今年の夏はもう終わったのだと思った。