旅日記2016(2日目)

 朝5時に目が覚めてしまう。3時間しか眠ってないのにもう起きてしまった。完全な時差ボケだ。日が昇るまでボンヤリ過ごして、メトロに乗ってソルフェリーノ駅まで移動する。9時30分、目的地に向かう前に「パリ・オルセー」と看板の出ているカフェに入る。そうだ、クロック・ムッシュを食べてみよう。ネットでパリ名物を調べたときにパリ生まれのメニューとして紹介されていたけれど、僕はクロック・ムッシュという食べ物を知らなかった。知人には「クロック・ムッシュも知らないのにパリに行こうとしてるの?」と笑われてしまったけれど、あれだけ『ヒルナンデス!!』や『王様のブランチ』をつけて過ごしているはずなのに、どうして何も知らないのだろう。

 「croque-monsieur」という文字は前菜の欄にあった。前菜なのに10ユーロ以上するのか。一体どんな料理なのだろう。カフェはガラス張りになっていて、オルセー美術館へと急ぐ観光客の姿が見える。店内には常連とおぼしき客がしずかに新聞をめくっている。扉が開いて、また別のお客さんがやってくる。客は店員と握手を交わして席に着く。旅に出ると、こうして違う日常に触れられるのが楽しいところだ。ほどなくしてクロック・ムッシュが運ばれてきた。なるほど、ハムとチーズをはさんだトーストか。一緒に運ばれてきたナイフとフォークで切り分けて食べる。パンの切れるサクサクという音からしてうまそうだ。

 10時、オルセー美術館へ。昨日のルーヴル美術館が楽しかったのでワクワクする。ルーヴル美術館よりもスムーズに入場し、順番に展示を観てゆく。最初に足が止まったのは象徴主義と書かれた部屋だ。アレクサンダー・ハリソン「孤独」、ヘンリー・オサワ・タナー「Le Christ et ses disciples sur la route de Béthanie」、ジュセッペ・ペリッツァ・ダ・ヴォルペード「亡くなった子供」といった絵画は、一瞬の風景を描いているのだけれど、なにか物語が始まりそうな予感がある。また、別の部屋にあるエドゥアール・ヴュイヤール「La Grand Teddy」やピエール・ボナール「Joueur de banjo」も、喧騒が聴こえてくるようでハッとする。さらに進むとアブサンを飲む女の絵がある。その目つきにハッとして足を止めるとピカソの絵だ。初めて観たピカソがこれだった。



アレクサンダー・ハリソン「孤独」


ヘンリー・オサワ・タナー「Le Christ et ses disciples sur la route de Béthanie」


ジュセッペ・ペリッツァ・ダ・ヴォルペード「亡くなった子供」


エドゥアール・ヴュイヤール「La Grand Teddy」


ピエール・ボナール「Joueur de banjo」


パブロ・ピカソ「La Buveuse d'absinthe」

 グランドフロアの展示を観終えて2階に上がる。いくつも印象的な絵画があった。その一つはゴーギャンで、不思議な力強さがある。「paysannes bretonnes」や「Le Repas」を観ていると、行ったこともないアフリカの大地を思わせる。もう一つ印象的だったのはポール・シニャックの「La bouée rouge」やマクシミリアン・リュス「The Quai Saint-Michel and Notre-Dame」のタッチだ。どうやって光の粒子を絵画として捉えるかと苦心したのだろう。残念だったのは、2階は部分的に閉鎖されていて、自然主義象徴主義アール・ヌーボーの作品を見学できなかったこと。半分くらいのエリアが封鎖されていたので、2階の展示はあっという間に観終えてしまった。


ゴーギャン「paysannes bretonnes」


ポール・シニャック「La bouée rouge」


マクシミリアン・リュス「The Quai Saint-Michel and Notre-Dame」

 次はいよいよ5階だ。ガイドブックを読むと、「オルセー美術館印象派のコレクションで知られる」と書かれているが、印象派のこてクションが展示されているのはこの5階だ。ここまでは比較的空いていたけれど、5階はかなり混み合っている。「印象派」と一口に言っても、当然様々な作品がある。ルノワールの絵画は僕には退屈だ。マネの絵画はどこか奇妙だ。モネの「Grosse mer à Etretat」は印象的だったけれど、「七面鳥」や「Lilas, día grís o el reposo bajo las lilas」など、光の粒子が強調されたモネの絵画を続けて観ているうちに気持ち悪くなってくる。生命っぽさが過剰に感じられて本当にくらくらするので、途中でテラスに出てセーヌ川を眺め、気分を落ち着かせた。


モネ「Grosse mer à Etretat」


モネ「七面鳥


モネ「「Lilas, día grís o el reposo bajo las lilas」

 印象派のフロアで目を引いたのはドガの絵画だ。「舞台のバレエ稽古」や「ダンス教室」はいつまでも観ていたいという気持ちになった。モネの絵はやたらと活き活きして見える。その過剰な生命感は、被写体が絵画の中で永遠に――まるで剥製のように――存在し続けているように感じさせる。それに比べるとドガの絵は、バレエの稽古という一瞬のきらめきを切り取ってはいるけれど、描かれた対象がやがて滅びるものであることが描き込まれているように感じる。孤独だという感じがする。オルセー美術館で印象的だった絵を3つあげるとすれば、そのうち一つはドガの絵になる。


「舞台のバレエ稽古」


「ダンス教室」

 あとの二つはと言うと、一つはシスレーの「マルリー・ル・ロワの雪」である。印象派の絵画は苦手だなと思いながら5階の展示を観ていたのだけれども、シスレーの絵画はどれも好ましかった。色合いも穏やかで、かつ儚さがある。もう一つ印象的だったのは2階に展示されていたゴッホの「星降る夜」で、オルセー美術館で観たものの中でこの絵が一番好きだ。この絵だけはフィルムで写真に収めて、美術館をあとにする。


シスレー「マルリー・ル・ロワの雪」


シスレー「Sous la neige: cour de ferme à Marly-le-Roi」


シスレー「La Seine à Suresnes」


ゴッホ「星降る夜」

 スタンドでコカ・コーラを買って、それを飲みながらバック通りを歩く。時刻はもう正午過ぎだ。カフェ、ブティック、インテリアショップ、画廊、宝飾品店……。様々な店が軒を連ねるこの通りを歩いてゆくと、見覚えのある店があらわれる。「デロール」という名前のこの店は、1階はごく普通のガーデニング洋品店だが、2階に上がると剥製たちが待ち構えている。鳥、馬、熊、水牛など、無数の剥製が所狭しと並べられているのだ。2年前にパリを訪れたときに連れてきてもらって、軽いショックを受けた店だ。

 こうして剥製が販売されているということは、剥製を買い求める人がいるということだ。狩猟が趣味の人たちが、自分が仕留めた動物を剥製にして保存する――これはまだ理解できる。でも、剥製専門店で剥製を購入して自宅に飾るという感覚はまったくわからなかった。眺めていれば可愛らしく思えてくるかと思ったが、どの動物とも目が合わず、ただ混乱するばかりだった。そのせいで2年前は剥製の話ばかりしていた。今回はひとりでの訪問で、他に客もおらず貸切だが、前回とは違った印象を受ける。剥製になっているのは動物だけでなく、チョウなんかの標本もある。こうして収集し解剖し比較し分類することで科学は発展してきたのだなと思う。もちろん、そうした探究心と剥製を愛でる感性は別物だけれども。

 われわれは歩きつづけた。
「剥製屋がある」とビルが言った。「何か買おうか。いい剥製の犬でも」
「行こう」
「剥製の犬一匹でいいんだ。持ってもいいし、おいて行ってもいい。おれのいうことを聞けよ、ジェイク。剥製の犬一匹だけだ」
「行こうよ」
「あれを買ってさえしまえば、あとは世の中のこと、なんでもきみの御意にしたがうよ。単なる価値の交換さ。きみは店に金を払う。店は、きみに剥製の犬をくれる」ヘミングウェイ日はまた昇る』)

 小さな剥製であれば買えない値段ではないので、しばらく物色してみる。剥製というのは、こうして保管されている限りにおいて永遠にこの状態で留まり続けている。でも、僕が買ってしまえばいつでもゴミになりうる。そういうことに関わるのはおそろしいことだと昔から思ってきた。数年前に、全国各地で御神木が枯れる被害が相次いだというニュースがあった。枯れた御神木の根元にはドリルで空けたような穴があり、そこから薬品が注入されたことで枯れたのではないかという話であった。この被害に共通するのは、神社が気づく前に「そちらの御神木は枯れているので、木材として購入させて欲しい」と電話があったということだ。そのニュースを聞いたとき、僕はとにかくおそろしかった。自分の生命をはるかに超えて存在しうるもの、あるいは自分の生命を賭したものを持つということはおそろしいことだ。それが無残に崩れ去ったあとで、昨日までと同じように生きていける自信がない。

 何も買わずに「デロール」を出て、角を曲がってサンジェルマン通りを歩く。葉巻をふかして犬を散歩させている人に思わずカメラを向ける。大通りというのは歩いていて気持ちがいいし、大通りを行く人を眺めるのもまた楽しいものだ。ちょうど昼休みの時間らしく、通りに溢れたビジネススクールの学生の群れを交わしてゆくと、「カフェ・ド・フロール」が見えてくる。テラスに座ってビールを注文すると、ビールと一緒にポテトチップスも持ってきてくれた。ビールを飲み終えるとコーヒーを追加注文し、オルセー美術館で買ったゴッホの「星降る夜」の絵葉書で知人宛に手紙を書いた。

 これを書いているのは9月27日、パリに着いて3日目のお昼です。昨日はルーヴル美術館に行って、今日はオルセー美術館に行きました。今はサンジェルマンのカフェでエスプレッソを飲みながら手紙を書いています。詩人や哲学者のサロンだった店ですが、詩的な言葉が浮かんできたり、むずかしいことが考えられるようにもなりません。この絵は、オルセーで観た絵の中で一番良いと思った絵です。ゴッホという人の絵だそうです。そのうち有名になるかもしれません。パリの過剰さは楽しいけど、2年前より移民が格段に増えています。今日はこれから『部屋に流れる時間の旅』を観ます。あまりビールを飲みすぎないように。では。

 店員にWi-Fiはあるかと尋ねると、店のマッチを渡してくれた。そこにパスワードも書かれているのだ。アイフォーンをネットに接続して、地図を眺めてここからの動きを考える。マッチをもらったことだし、まずはタバコ屋を探す。2年前の記憶を頼りに歩いて同じタバコ屋にたどり着き、ゴロワーズを1箱購入する。あの日は買い物の日で、この界隈にある服屋や靴屋をいくつも巡っていた。青柳さんと聡子さんがレペットで靴を物色しているあいだ、僕はカフェのテラス席に座り、タバコ屋で買ってきたゴロワーズをふかしていたのだ。そうだ。去年はふたりの買い物に同行して歩くだけだったけれど、今年は僕が服を買おう。そう思い立って街を歩く。1時間ほど歩き回ったけれど、結局店に入ることもできないままサンジェルマン・デ・プレに戻ってくる。そこには地区の名前を冠したサンジェルマン・デ・プレ教会があるので、ちょっと入ってみる。ベンチにはまばらに人が座っており、静かに祈りを捧げている。そんな教会で、小さな男の子と女の子が声をあげないようにしてはしゃいでいた。

 このあたりには「レ・ドゥー・マゴ」もあるけれど、結局また「フロール」に入る。今度はサンジェルマン通りが見渡せる席を選んで座った。おすすめのワインはと尋ねると、どんなワインがいいのかといくつかキーワードを挙げてくれる。その中にある「ストロング」という言葉を選んで注文する。運ばれてきたワインは、すっきりした味だがたしかにうまかった。そういえばまだお昼ごはんを食べておらず空腹だ。睨むようにメニューを見て、テリーヌというのを注文する。テリヤキみたいなものかと思っていたら、パテみたいなのが運ばれてきた。朝のクロック・ムッシュといい、テリーヌといい、知らないことが多過ぎる。

 いろんな人がサンジェルマン通りを歩いてゆく。バッチリ決めたファッションで、くわえタバコで歩く男。キックボードで行き交う子供たち。アジア人観光客。紙袋に入ったパニーニをかじりながら歩く男。スカーフで頭を覆った女性。犬、犬、犬。いろんな生き方があるけれど、問題は何を選ぶかだ。さっき入ったときは気づかなかったが、「フロール」の隣のビルはルイ・ヴィトンだ。僕は服に十数万払う人生を選んでいない。ふいに「君はどう生きるのか」と聞かれたような気持ちになる。こんなにも無鉄砲にパリに来てどうするのだろう。


 ワインはもう3杯目だ。テリーヌを食べ終えてからはアポリネールの詩集を読んでいた。1887年創業の「フロール」は、1950年代にサルトルが2階を自分の書斎のように利用していたことでも知られているけれど、さらに歴史を遡れば、1910年代にこの店の常連だったのはアポリネールアンドレ・サルモンだ。アポリネールはフロールの1階を編集部のように利用して、『ソワレ・ド・パリ』を発行したという。また、この店のテラスではシュルレアリスム創始者であるブルトンたちと議論を交わすアポリネールがよく見られたそうだ。ボーヴォワールはこう記している。

 フロールには特有の風俗とイデオロギーがあった。毎日そこに集まる常連の小さな集団には、完全にボヘミヤンに属してもいなければ、まったくのブルジョワでもなかった。大部分の者は映画や演劇の世界に何らかの関係があり、不確実な収入と、やりくりと算段と、希望とで生きていた。

「フロール」でゴロワーズを吸いながらアポリネール詩集を読んで考え事をするなんて、なんとミーハーな人間だろう。ぼんやり読みふけっていると目の前に物乞いが立っている。テラスの客たちに小銭をねだっていたのだが、テーブルにゴロワーズがあるのを目に留めると「シガレット?」と僕に尋ねた。どうせ全部吸い切れるわけでもないのだからと、4、5本取り出してくれてやると、「メルシー」と言って彼は去って行った。テラスに座っていると、店員と客が「メルシー」「オ・ルヴォワール」と挨拶するのが何度も聞こえてくる。そのたびに僕は口の中で繰り返して真似をしてみる。2年前は何も知らずにパリにやってきた。あの時は本当に何も調べずにパリに来たけれど、帰る頃には「お会計をお願いします」と「これはいくらですか?」というフレーズをおぼえていた。知らないことばかりだけれど、一つずつおぼえればいいのだ。

 5杯目のワインを飲み終えたところで会計をお願いする。ギャルソンが持ってきたレシートに「150」という文字が書かれている。値段も聞かずに勧められたワインを注文してしまったけれど、それは最高級のワインで1杯23ユーロのワインだった。お、おう。少し動揺するけれど、僕の「おすすめは?」という質問に対して彼は忠実に答えてくれたのだし、値段を確認しなかったのは僕なのだから、別にぼったくられたというわけでもないのだ。何よりテラスで楽しい午後を過ごせたので、どこか清々しい気持ちで会計を済ませて店を出た。

 開演時刻が迫っているので、地下鉄で劇場へと急ぐ。郊外にあるT2Gという劇場に到着すると、ロビーには大勢の人がごった返している。飲み物と軽食が販売されており、多くの人が開演前の時間を楽しんでいる。海外の劇場にくると、観劇前にこうして酒を飲んでいる人たちが大勢いるので、とても親しみをおぼえる(しかし途中でトイレに行きたくならないのだろうか?)。さて、どこで受付をすればいいのだろうかと戸惑っていると、制作のOさんが「もふさん、こっちです」と声をかけてくれる。フェスティバルのウェブサイトからチケットを購入するつもりだったのだが、何度トライしても「電話でお問い合わせください」と出てしまうので、知人を通じて予約しておいてもらえるようにお願いしておいたのだ。もちろんお金を払うつもりでいたのだけれど、招待にしてもらってしまっていて恐縮する。

 客席は満員だった。10分ほど押して、『部屋に流れる時間の旅』の幕が上がる。今年の春に京都で上演された初演を観ているが、印象が違っていて驚く。京都で観るか、パリで観るか。物理的な距離はどうしたって差を生む。これだけの距離を移動してこの作品を観ると、改めて日本のことを、あの地震のことを考える。周りにいる観客たちはあの揺れを知らない。その観客に向けて作品は上演されていて、その中に自分が混じっている――こうした感覚というのは、京都で観ていたのでは味わえないものだ。

 ただ、作品の印象が異なっているというのは、そういったことが理由ではないように思える。京都で上演された『部屋に流れる時間の旅』だって、あの災害と、あの災害が日本人にどんな感覚をもたらしたのかということを感じさせるものだった。でも、ここパリで観たそれは、もっと普遍的なテーマに触れているように感じられた。岡田利規の作品にはいつもそうした普遍性を感じさせられるけれど、でも、今回は特にそれを感じる。京都公演の当日パンフレットにはこう記されている。

 未来への希望を抱えた状態で死を迎えた幽霊と、生者との関係を描こうと持った。死者の生は円環を閉じ、安定している。生き続けているわたしたちはそれを羨望する。わたしたちは苦しめられ、そこから逃げたくなって、忘却をこころがける。 

 ここに書かれている「幽霊」(帆香)を演じたのは青柳いづみだ。彼女が死んだあとも生き続ける夫(一樹)は、新しい女性(ありさ)と出会い、その女性を部屋に招く。そのあいだ、亡くなった妻は夫に「ねえ、おぼえてる?」と何度も語りかける。彼女の存在はおそろしかった。特にそれを感じたのは、舞台の終盤に登場する台詞だ。

 部屋に到着したありさに、一樹は「僕の恋人になってください」と語りかける。「僕はあなたと、現在のことを話していたいです。そのときそのときの現在のことを。現在のことだけ」と。手を触れ合うふたりの会話が終わると、同じ空間に存在している帆香が語り出す。「ねえ。いくら目をつむったとしても、わたしのことは見えなくならなくて、あなたには、わたしのことが見えていない振りしかできない」「だってあなたはわたしのことを目で見ているわけではないから」――しばらく続く彼女の台詞は、こうして結ばれる。

 ねえ、そうやって想像したら、わからない? わたしたちにはこのしあわせな気持ちをずうっと持ったままこの先の旅をしていくことが、できるはずだって。
 わたしたちのこの、しあわせな気持ちから、あなたは逃れようとしなくていいの。どんなにそれが苦しくっても。
 それはわかってるでしょ? わかってるから、あなたはきっと、そうするでしょ?

 この台詞を語ると彼女は舞台から姿を消し、ほどなくして舞台にも幕が下りる。京都公演ではその姿にギョッとしたのをおぼえている。それはまるで呪いをかけているかのようにも見えたけれど、今日の公演ではおそろしさを感じることはなかった。

 僕は京都の初演が少し不満だった。それは、当日パンフレットでは「円環を閉じ、安定している」と書かれている死者が、円環を閉じているようにも安定しているようにも見えなかったからだ。でも、今日の舞台では円環を閉じ、安定しているように見えた。それが印象的だった。もっと言えば、“円環を閉じ、安定している者”と“円環を閉じておらず、不安定な者”は、必ずしも“死者”と“生者”ということではなく、円環を閉じた生者だった存在するだろう。それは決定的な瞬間を迎えてしまって、永遠にその一瞬に留まり続ける者だ。今日の公演を普遍的だと感じたのは、そうしたことを想起させられたからだ。公演を観ているあいだ、僕は昼に観た印象派の絵画や剥製のことを思い出していた。

 「終演後はロビーで飲める」と聞いていたので、真っ先に客席を飛び出して赤ワインをボトルで注文する。きっと皆、ロビーで感想を言い合って過ごすのだろう――そう思ってボトルで注文したのだが、お客さんのほとんどはまっすぐ出口に向かっていった。ロビーで飲んで談笑するのは開演前のことで、終演後は酒場に出かけて語らうのだろう。半分ほど飲んだところで劇場を出た。ホテルまで5キロほどの道程を、ワインを飲みながら歩く。まだ22時半だが人影は少なかった。

 夜のセーヌ川に見とれながら歩いているうちに酒がまわり、腹が減ってくる。日本であればラーメンを啜るところだが、ラーメン屋は当然見当たらなかった。せめてスープだけでも啜ることができればいいのだけれど、それも難しいので、あきらめてケバブを購入する。ふらつきながら宿に向かっていると家族連れと目が合った。その家族連れというのは、いつもバルベス・ロシュシュアール駅からほど近い場所に佇んでいる家族連れだ。

 僕が泊まっているのは2年前と同じホテルだ。モンマルトルのはずれにあるのだが、この一帯は黒人が多いエリアだということは2年前から知っていた。しかし、久しぶりでパリを訪れ、パリ北駅からモンマルトル方面を目指して歩いていくと、2年前に比べて格段に黒人の数が増えているように感じられる。バルベス通りを歩くと、スーパーマーケットのカートや段ボールなどを活用した“露店”がいくつも並んでいて、焼きトウモロコシや落花生を販売する黒人がずらりと並んでいるのだ。パリから1万キロ近く離れた場所からやってきたフランス語もしゃべれない僕は、別に黒人が増えたからどうだと言いたいわけでは当然なく、なぜ増えたのだろうかと背景が気になるばかりだ。

この界隈の変化でもう一つ印象的だったのは、難民とおぼしき人が目につくようになったことだ。僕がバルベス・ロシュシュアール駅近くで見かける家族連れというのもおそらく難民で、いつも路上にマットレスを敷き、家族全員でそこに佇んでいる。フランスは難民に厳しく、手続きに異常に時間がかかるために路上生活を強いられる者も多く、難民には不人気な国だという記事を読んだことを思い出す。父親はマクドナルドの紙カップを手にして、お金を乞うている。僕はパリに着いた日も、そして昨日もその父親に「ムシュー」と声をかけられていたけれど、そちらを見ないようにして通り過ぎていた。でも今、こうして目が合ってしまった。父親がこちらに向かって何か語りかけているが、英語ではないので僕は内容がわからなかった。僕がケバブの入った袋を掲げると、こどもたちの表情がほころんだように見えた。

 酔っ払った勢いでケバブを買ってしまったけれど、この時間にケバブなんて食べると確実に太ってしまう。そんな罪悪感に駆られて食べるよりも、この子たちに食べてもらったほうがケバブも嬉しいだろう。そう思い立った僕は、「ちょっと待っていてくれ」とジェスチャーで示してケバブ屋に戻り、ケバブを追加で購入し、その家族に手渡した。こどもたちも、両親も喜んでくれた。いくつか英語で質問してみようかと思ったけれど、言語が通じず、会話は成立しなかった。唯一わかったのは、彼らが発した「シリア」という単語だけだ。僕は1枚だけ写真を撮らせてもらってホテルに帰った。