旅日記2016(7日目)

 昨晩は何度も目が覚めた。2時になっても、3時になっても、4時になっても通りからは賑わいが聴こえていた。でも、5時にセットしたアラームで目を覚ましてみると、嘘のように静まり返っている。窓を開けて通りの様子を確かめてみても、通りにはひとっこひとりいなかった。狐につままれたような気持ちだ。シャワーを浴びてホテルを出ると、清掃車が街を洗い流し、収集人が瓶を片付けながら歩いている。大通りまで出るとまだ昨日を生きている人たちがいた。若者たちはふらふらと歩き、恋人たちは急に立ち止まってキスをしている。

 駅にたどり着く。バスのりばでおろおろしていると「ミスター・ハシモト?」と声をかけられ、係員の男性が案内してくれた。朝7時、高速バスが走り出す。しばらく経っても、車とすれ違うことはなかった。今日は日曜日で、まだ日の出前なのだから当たり前かもしれない。群青色の空が綺麗だ。少しずつ明るくなる空をぼんやり眺める。ところどころに明かりが見える。目をこらすと、ふるぼけた小さな集落が見える。こんな丘を馬で駆けたらさぞ楽しかろう。

 1時間ほどでハイウェイを降りると、現代的なビルが見えてくる。ここはパンプローナという街だ。もっと古めかしい街だと思っていたので意外だ。昨日、ホテルの人にパンプローナに行くつもりだと伝えると、「フェスタ以外の季節にパンプローナを訪れて何をするんだ?」と言われたことを思い出す。ここは毎年ニュース番組で映像を目にする牛追い祭りが開催されている街だ。バスを降りて歩いていると、カーネルサンダースのマークのついたマシンがぽつんと設置されているのが見えた。1ユーロ99セントと大きく書かれたマシンには、チキンとポテトが一緒に盛られた箱がプリントされている。すごい、ケンタッキーフライドチキン自動販売機があるのか。すっかり感心して、わざわざフィルムカメラまで持ち出して写真を撮ったけれど、近づいてみると電話ボックスにケンタッキーフライドチキンの広告が出ているだけだ。

 ビル街を少し歩くと広場が見えてくる。広場を囲むのは歴史を感じさせる建築だ。この広場に巨大なカフェがあり、テラス席を覆うオーニングに「IRUÑA」と書かれている。ここがパンプローナでの唯一の目的地だ。入り口に立ってみると、店員さんが何かスペイン語で言っている。雰囲気から察するに、まだ営業していないのだろう。店員さんはオープンする時間を指で示してくれる。左手の指を4本、右手の指を5本立てているのだけれど、それが何時を意味しているのか、しばらくわからなかった。さっきのケンタッキーフライドチキンといい、すっかりバカになってしまった。

 カフェがオープンするまで、広場のベンチに佇んで待つ。テラス席にはタバコの吸い殻とプラカップが大量に落ちており、清掃員がそれを片づけているところだ。この街でも、昨晩のサン・セバスティアンのような賑わいがあったのだろう。今はその残骸だけが転がっている。パンプローナを訪れるには、カフェ・イルーニャを訪れるにはぴったりの状況だという感じがする。ヘミングウェイの『日はまた昇る』は、前半の舞台となるのはパリだが、後半はパンプローナが主な舞台となる。主人公のジェイクたちは、フェスタを観るべくこの街を訪れ、何度となくカフェ・イルーニャに出かけている。印象的なシーンの一つは、物語の終盤に登場する場面だ。

翌朝は、もうすっかりすんでしまった。フェイスタは終わった。私は九時ごろに起き、ふろをつかい、服を着て、階下へおりた。広場はがらんとして、通りにも人影がない。四、五人の子供たちが、広場で火箭の燃え殻を拾っていた。カフェは、どこも、やっと店をあけたところで、給仕たちがすわり心地のよい籐椅子をアーケードの日陰に運びだし、真中に大理石のテーブルをおいて、支度をととのえていた。給仕たちは街路を掃き、ホースで水をまいていた。
 私はその籐椅子の一つに腰をおろし、いい気持ちで、うしろによりかかった。雄牛の乗り込みを知らせる白い貼り紙や、臨時列車の大きな時刻表が、まだアーケードの柱に貼ったままになっている。青いエプロンをかけた給仕が、水を入れたバケツと布片とを持って出てきて、それらの貼り紙をびりびり引はがし、石に貼りついているのをこすり落としにかかった。フェイスタは終わったのだ。

昨日の賑わいを思い出しているうちに時刻は9時になっていた。カフェ・イルーニャに入ってみると、想像していた以上に歴史を感じさせる重厚な内装で驚く。このあたりの名物はトゥルーチャ(鱒)なので、鱒を使った料理はないかとダメもとで尋ねてみたのだけれども、うまく言葉が伝わらなかった。まごまごしていると、近くにいた別のお客さんが「ドゥー・ユー・スピーク・イングリッシュ?」と声をかけてくれる。なんとか彼に鱒が食べたいのだと伝え、店員さんに聞いてみてもらったけれど、やはり朝だと難しいという。仕方なく、ショーケースの中に陳列されていたトルティージャ(スペイン風オムレツ)、それにカフェ・アメリカーノを注文する。

 カウンターでそれを頬張っていると、さきほどの男性が「観光できたのか、それともビジネスできたのか」と話しかけてくれる。日本から旅行に来ていて、昨日はサン・セバスティアンにいて、バスでパンプローナに着いたところだと答えると、「もしかして朝7時に出たバスか?」と男性は言う。彼は恋人に会うためにサン・セバスティアンに出かけていて、僕と同じバスに乗ってパンプローナまで帰ってきたところなのだという。そんな話をしていると、よれよれの服をきたおじさんが入ってきて、彼と話し始める。どうやら知り合いだったようで、彼は僕に「よい一日を」と言ってテーブル席に移動してゆく。彼が食べていたのはトーストの上に赤いジャムのようなものをたっぷり塗ったトーストで、そのメニューのことが気になっていた。あれはパンプローナでは一般的なメニューなのか、聞きそびれてしまった。

 1888年に創業した歴史あるカフェであり、また『日はまた昇る』の舞台となったカフェでもあるせいか、中国人観光客の一団とアメリカ人観光客の一団がそれぞれ入ってくる。しかし観光客ばかりがやってくるというわけでなく、地元客とおぼしきふがふがしたおじさんが入ってきて、コーヒーをこぼしながら飲んでいたりする。あるいは地元の老人たちと年配の店員とがテーブルを囲み、度数の高そうな酒を飲んでいたりする。こういう店は良い店だ。店員さんたちは(酒を飲んでいる人をのぞいて)忙しそうに働いているので、観光客をつかまえて記念写真を撮ってもらう。

 少し時間に余裕があるので、街を散策する。カフェ・イルーニャから先は旧市街地になっており、石畳が続く。商店のシャッターにはフェスタのときの写真や牛のイラストが描かれている。この街並みを牛が走り抜けるのだろう。少し歩くとカテドラルがあったので、中をのぞいてみる。明るい教会だ。大きなステンドグラスがあり、ステンドグラスの模様が壁に映し出されている。そうして光の差し込む場所で、ミサが開催されているところだ。小さなこどもたちは少し退屈なのかうずうずしている。ミサに参加している人もいれば、十字を切りながら入ってきてミサとは関係なく椅子に座り、祈りを捧げている人もいる。カテドラルの近くには サン・サトゥルニーノという教会もあった。カテドラルに比べると、こちらはずいぶん暗く、黒っぽい教会だ。同じ教会でも、惹かれる教会とそうでない教会とがある。日本に帰ったら教会の様式について調べなければと思う。

 旧市街地から駅までは3キロほど離れているらしかった。石畳の街でキャリーバッグを引きずりながら歩くのはくたびれるけれど、時間もあることだし、節約をかねて歩くことにする。古い街並みが残っているエリアは狭く、そこを抜けるといかにも郊外といった風景になる。途中で街を見渡せる高台に出た。公園には栗が落ちている。石を探して歩いているときに栗を見つけて、皆で栗を拾ったのはたしかサラエボだ。あれは2014年の出来事だから、もう2年も経ったのか。栗は拾わなかった。

 40分ほど歩いて駅にたどり着く。発車まで10分ほど時間があるので、僕はカフェに入ってビールを注文する。ここではビールが2ユーロだ。どんどん物価が安くなってきている。出発時刻が近づいているか、カフェには他に客がおらず、食器だけがカウンターやテーブルに残っている。紙ナプキンなんかのゴミが床に散乱しており、山賊にでも襲われたみたいに見える。ホームでは皆、ものすごく情熱的に見送りをしている。今生の別れかと思うほどにしっかりと抱擁を交わし、相手が電車に乗り込んでからもずっと手を振っていた。

 パンプローナから次の目的地までは3時間かかる。本でも読んで過ごすかと文庫本をトートバッグに忍ばせておいたのだけれども、車窓に次々とすごい景色があらわれる。乾いていて広大だ。結局本を開くこともなく、「はあー」とか「へえー」とか言いながらずっと景色を眺めていた。かつてナポレオンは「ピレネーを越すとアフリカだ」と語ったという話がある。その発言の是非はさておき、ここまでとは風景が違っている。乾いていて広大だ。ところどころにボコッと起伏がある。途中で食堂車があることを思い出して、そこでセルベッサ(ビール)を注文し、飲みながら風景を眺め続ける。

14時40分、列車はマドリード駅に到着した。これから3日間はマドリードに滞在することになる。まずはホテルにチェックインを済ませると、急いでメトロを乗り継ぎ、サンティアゴ・ベルナベウを目指す。今日はこれからレアル・マドリード対エイバルの試合を観戦するのだ。半月前からずっとチケットビズというサイトでチケットを探していて、直前になって良い席のチケットが出品されたのを見て落札しておいたのだ。落札後はこまめに連絡する必要はあったけれど、チケットの配送に関するやりとりはチケットビズのスタッフを経由しており(しかも半分以上は日本語で連絡があった)、宿泊先のホテルまで届けてくれるのでとても便利だ。

 サンティアゴ・ベルナベウ駅のあるメトロ10番線は、レアル・マドリードのユニフォームを身にまとったファンで一杯だった。改札を抜けて階段を上がると、ちょっとしたお祭りのような賑わいである。道路は歩行者天国になっており、いくつも屋台が出ている。大きくすると二つの屋台があり、一つはレアル・マドリードのグッズを販売する屋台で、もう一つはスナックを販売する屋台だ。面白いのは、地元のお菓子メーカーの袋菓子だけでなく、落花生やミックスナッツ、ヒマワリの種の量り売りをやっている店もあるということ。僕はコイケヤのスコーンみたいなスナック菓子を購入して、スタジアムの中へと急ぐ。ビールを飲むつもりでいたけれど、酔っ払って暴れる人を出さないためなのだろう、アルコールは販売されていなかったことだけが残念だ。

 僕が落札したチケットは15列目くらいで、びっくりするほど良い席だ。グラウンドにまだ選手の姿はなく、芝の手入れが行われている。とても綺麗なスタジアムだ。僕が初めてサッカーを観たのは1993年のことだ。Jリーグが開幕すると、多くの小学生がそうであったように僕もまたサッカー少年になり、父親に連れられてスタジアムに出かけた。最初に足を運んだのはたしか広島にあるビッグアーチで、次は万博記念競技場だったはずだ。僕はガンバ大阪ファンで、わざわざ大阪まで連れて行ってもらったのである(身内に関西出身者はいないのに、どうして野球は阪神タイガースを、サッカーはガンバ大阪を応援するようになったのかは謎だ)。当時、目の前で試合が行われていることには興奮したけれど、遠くてよく見えなかった思い出がある。ビッグアーチも万博記念競技場も陸上のトラックがあり、選手は小さくしか見えなかった。

 Jリーグでも次第にサッカー専用のスタジアムが建設されたのだろうけれど、僕も次第にサッカーを観なくなってしまって、そうしたスタジアムに足を運んだことはなかった。それが急にサッカー専用スタジアムを――しかもレアル・マドリードのホームグラウンドを――目の当たりにしてしまって、一気に気分が高揚する。12年前のことを思い出す。当時、高校時代の同級生が早稲田大学でサークルの幹事長をやっていた。そのサークルは人数が少なく、近所に住んでいた僕に「遊びに来ないか」と誘いがあって、関わるようになった。当時僕はロベルト・カルロスのユニフォームを着ていて、一見すると外国の血が入っているように見えることもあり、その友人は僕を「ロベルトさん」として紹介していた。いい加減なものだから、僕も「実はクォーターなんです」と答えていたのだけれども、そのサークルで知り合った人が数年後、僕を別の誰かに紹介するときに「彼はクォーターで……」と説明するのを聞いて、悪いことをしたと反省したこともある。

 話がそれてしまった。とにかく僕は、レアル・マドリードの3番のユニフォームを着て過ごしていた。あの頃の僕はまだ(高校の修学旅行をのぞけば)海外旅行に出かけたことがなく、出かけたいと思ったこともなかった。海外サッカーの試合の様子をときどき眺めることはあっても、そこに自分が足を運ぶなんてことは想像すらしなかった。今振り返ってみると、当時の自分は「自分がそこにいる」ということを何一つ想像しなかった。今と違って、ライブハウスにもほとんど足を運ばなかったし、演劇に関しては観たこともなかったし、自分が情報として知っている世界と自分の世界とを別物だと思っていたような気がする。でも、行こうと思えばどこにだって行けて、こんなふうにポンとサンティアゴ・ベルナベウに来ることだってできるのだ。

ひとりで感傷にひたっていると拍手が起こった。選手が入場してきたのだ。肉眼でも誰だか見分けがつく距離だ。テレビ中継を観ていると、サッカー選手はすらりとしたイメージしかなかったけれど、思っていた以上にごつい身体だ。試合が始まるとますますその印象は強まる。サッカー選手に大事なのは足だとばかり思っていたが、全身のバネを使っている。グラウンドを縦横無尽に駆け回り、切り返し、ゴールを目指す。そのためであれば手以外は何でも使う競技だ。何より印象的だったのはトラップするときで、強く弾いてドリブルにつなげるときもあれば、ボールの勢いを全身で吸収して足元に落とすときもある。ボールを蹴るぼすっという音が聴こえて興奮する。

 しばらく観戦していると、周りのお客さんの反応が気になってくる。エイバルの選手がファウルをすると、手をかざして立ち上がり抗議をする観客が大勢いる。レアル•マドリードが先制点を許してしまうと、次第に小鳥がさえずるような音が聴こえ始める。何の音だろうと不思議に思っていると、指笛を鳴らしているファンが大勢いる。ブーイングというと「ブー!」と声に出すものだとばかり思っていたけれど、指笛ってブーイングだったのか。その一方で、どんなに枠を外れていたとしても、とりあえずシュートの形にまで至ると拍手が起こる。こうして観ていると、サッカーが戦争の代替として語られることに納得が行く。戦争にまだ騎士道精神が宿っていた頃は、こんなふうに戦況を眺めていたのかもしれないなという気がする。かつてスペインには小さな王国が乱立していたことを考えると、地域ごとにサッカーチームがあるということもその名残であるように思える。

 僕の近くの席に座っている老人は、葉巻をふかしていた。タバコだとあっという間に吸い終わってしまってせわしないけれど、サッカーの試合を眺めるにはゆったり吸える葉巻がふさわしいという感じがする。もう一つ、僕はスナック菓子を選んでしまったけれど、僕の周りにはヒマワリの種を食べている人がたくさんいて後悔する。僕もヒマワリの種にすればよかった。実を食べると、殻はそのまま足元に捨てている。肝心の試合はというと、レアル•マドリードは何とか同点に追いついたものの、逆転は難しそうな気配だ。クリスティアーノ・ロナウドはと言うと、アシストは決めたがもう一つ精彩を欠いていた。サポーターもどこか手厳しい反応を見せている。世界で一番高給取りのサッカー選手だからだろうか。彼がこうしてフィールドを駆けていることに何十億という金が支払われているのだなあ。その価値というのは、彼が選手として旬の時期にあるがゆえに払われているもので、少しでも身体のバランスが乱れると崩れ去ってしまうものだ。そう考えると、自分が今見ている光景は儚く、かけがえのないものであるように思えてくる。

 レアル•マドリードの逆転を見ることは難しそうだったので、混雑する前にと試合終了5分前にスタジアムを出た。ホテルでしばらく休んで、20時になる頃になって再び出かける。外はまだ明るかった。ホテルのすぐそばには有名なマヨール広場があり、あちこちに“画家”がいる。犬にばかり目がいく。

 広場をつっきって、ガイドブックにも載っている「メゾン・デル・チャンピニョン」(meson del champinon)というバルに入った。入ってすぐの場所にはカウンター席があり、奥にテーブル席があるのだが、ひとりでもテーブル席に案内される。こじんまりとした店は洞穴みたいだ。

表には日本語で「マッツュルーム」と書かれていることからもわかるように、この店の看板メニューはマッシュルーム(スペイン語でチャンピニョン)だ。マッシュルームを1皿とセルベッサを注文する。食べ物のメニューは写真つきだし、飲み物は日本語メニューがあるので便利だ。日本語にかぎらずいろんな言語のメニューがあるのだろう、店内の半分以上がアジア人観光客である。レアル・マドリードのユニフォームを着ている人や、持ち込んだコカコーラを飲んでいる人もいる。英語で注文を入れている白人観光客が、やれやれといった表情で店内を見渡しているように感じるのは被害妄想だろうか。

 ほどなくしてマッシュルームが運ばれてくる。ガーリックとオリーブオイルが効いていて、ビールの進む味だ。店内には音楽が流れている。CDをかけているのではなく、シンセサイザーで演奏している男性がいるのだ。アジア人観光客が多いからか、「次はジャパニーズ・ソングだ」と言って鍵盤を弾き始める。その曲はまさかの「ファーストラブ」だ。ビールを飲み終えると、今度はリオハワインをグラスで注文した。こうしてワインを飲みながら宇多田ヒカルを聴いていると、自分が今どこにいるんだかわからなくなってくる。

 ワインを2杯飲んだところで店を出た。「メゾン・デル・チャンピニョン」のあるカヴァ・デ・サン・ミゲル通りには同じような店が数軒並んでいるので、近場でハシゴすることにする。事前に調べておいた店はガラガラだったのでやめにして、テラス席が地元客で賑わっている店を選んで入った。今度はリオハをハーフボトルで注文する。リオハ産のワインは高価なのかと思っていたが、グラスだと2ユーロ程度で、ボトルでも10ユーロ強と激安だ。飲み物が安いぶん、食べ物はそこそこの値段なので(さきほどの店もそうだった)、ここでは飲み物だけをチビチビやることにする。小さいオムレツでも10ユーロ近い値段だから、フードで儲ける価格設定なのだろう。せこくて申し訳ないけれど、パリで散財してしまったのでなるべくケチに過ごす必要がある。

この「リンコン・デ・ラ・カヴァ」(Rincon De La Cava)というお店は煉瓦造りの古ぼけた空間で、ちょっとアジトみたいでもある。このお店でも音楽が演奏されている。ただ、こちらの店は演奏だけでなく、歌もうたっている。スペイン語の曲で、ときどき他のお客さんも一緒になって熱唱している。隣の年配のお客さんたちが手で拍子を取っているのを見て気づいたけれど、どの曲も三拍子だ(そういえばフランスのシャンソン酒場で聴いた曲も大半が三拍子だった)。ある曲の演奏が始まると、店内の盛り上がりは最高潮に達し、老若男女が一緒にうたっている。その曲に反応してチップを入れる人までいる。隣のお客さんに曲名を尋ねると、僕の手帖に「Enrique Iglesias “balando”」とメモをしてくれた。店内に響きわたる歌声に耳を傾けながら、リオハワインを飲んだ。赤ワインは常温で飲むものだとばかり思っていたけれど、さきほどの店も、この店も少し冷やしてサーブされる。さっぱりしていて飲みやすいワインだ。

3軒目に選んだのは、さきほど入るのを見送った店だ。テラス席も、入ってすぐの席も空いているのに、一番奥にある場所に案内される。ちょっと隔離されたような気持ちになりながらも、リオハワインとトルティージャを注文すると、店員は口を開くこともなく厨房に引き返し、無言のままワインを運んでくる。この日、日本では大阪の「市場寿司」が問題になっていた。韓国人観光客に大量のわざびが入った寿司を提供していたことが発覚し、差別的だという批判が寄せられていたのである。

 “わさび爆弾”の真相は僕にはわからないけれど、外国人観光客に好意的な店ばかりではないということは知っている。最近は思い出横丁で飲むことが多いのだが、外国語のメニューも用意している店もあるし、中国人観光客が持ち込んだ品物をテーブルに並べても「金さえ払ってくれれば」と見て見ぬふりをする店もあるけれど、一方で外国人観光客をほとんど受け入れない店もある。その土地の人たちが飲んでいる店に入ってみたいと思うのが酒飲みの心情ではあるけれど、パッと旅行で訪れて馴染むのは難しいことだ。寂しい気持ちで店を出た。売店で買ったビールを飲みながら、打ちひしがれた気持ちでマヨール広場の片隅に佇んでいた。