知人は札幌で関ジャニのツアー初日を観るのだと出かけて行った。が、しばらくするとLINEが届き、「飛行機が飛ばんかも」と言っている。札幌では雪がすごく、先に飛んだ便も着陸できなかったりしているそうだ。知人が乗る便は結局欠航になってしまったらしく、帰ってくるなり不貞寝している。僕は日が暮れたあとになってアパートを出て、池袋を目指す。今日から東京劇場プレイハウスで藤田貴大演出『ロミオとジュリエット』が上演される。どんな作品に仕上がっているのか、ずっと楽しみにしていた。会場に入る。プレイハウスはロビーにバーカウンターがあるのが嬉しくなる。2年前に『小指の思い出』を観たときのように、シャンパンを買って飲んだ。ロビーにテレビジョンの「マーキームーン」が流れてきて、一気に気分が高揚する。始まる、という感じがする。この曲はナンバーガールが登場するときに流れる音楽だ。

 18時過ぎ、公演が始まる。僕が買ったのはG列のチケットで、ということは7列目かと思っていたら、E列までは舞台で潰れているので実質2列目だ。ただ、冒頭のシーンから、あまり言葉が入ってこなかった。チャプター3になるあたりで言葉が入ってくるようにはなったけれど、どこか遠くにあるように感じられた。その印象のまま舞台は終幕を迎える。終演後には初日乾杯があると誘ってもらっていたので、帰るわけにもいかず、どうしたものかとロビーの隅で気配を殺して過ごしていた。つまらなかったとか、そういうことではないのだ。これを「つまらなかった」と言ってしまうのは、スープカレー屋に入っておいて、「何だここのカレーは、とろみがないじゃないか」と文句を言うようなものだ。

 芸劇の方、そして藤田さんの挨拶があり、乾杯が行われた。僕はあいかわらず端っこのほうで過ごしていた。劇場の方が「わざわざチケットを買っていただいてしまって……」と声をかけてくれたのだけれども、やはり不思議な気持ちになる。事前に広報誌で取材したり、アフタートークにも出ることにはなったけれど、観たい公演は自分でチケットを手配するだろう。何人かの方が声を掛けてくれて、「今回は稽古場にいなかったから、どうしてるのかなと思ってました」と言ってくれる人もいた。せっかく気にかけてもらっているというのに、そう言われるたびムッとしてしまう自分が情けなくなる。ゲネプロを観るということはごくたまにあるけれど、僕が稽古場にまで足を運んだのは、『小指の思い出』と『書を捨てよ町へ出よう』の2作品だけだ(それ以外に、『てんとてん』という作品も稽古を観たりしているけれど、この作品に関しては観客役として一緒に旅をしていると思っているので除外する)。その2作品の稽古場を毎日のように訪れていたのは、ドキュメントを書くという前提があるからだ。そういう場合にのみ、緊張感を持ってそこに入り込んでいるつもりでいるのに、そんなふうには思ってもらえてなかったのかと思ってしまう。僕だって相手のことをどこまで理解しているかわからないのに、そんなふうに「理解してほしい」と願うのはわがままだとは思うけれど、どうしてもそんなふうに思ってしまう。

 どうでしたかと聞かれたときにだけ、感想を伝えた。それでも「舞踏会のシーンが素敵だった」という感想くらいしか伝えなかった(そのシーンがとても華やかで印象深かったのは事実だ)。ただ、Aさんに「どうでしたか」と言われたときには言葉を濁すわけにもいかず、正直に感想を伝えた。言葉が印象に残らなかった、と。でも、それは先ほども書いたように、スープカレー屋で「とろみがない」と言っているようなものだと自分でもわかっている。藤田さんはここ最近、俳優をキャスティングするように、照明も採用するし、音も採用するし、舞台美術も採用する、舞台上にあるものはすべて等価だ――そんな話をすることが多々ある。今日の公演を観ていると、ようやくその意味が直感的にわかったような気がする。

 普通の舞台だと、まず言葉と物語があり、それに従属するように音楽や照明や衣装が存在している。ある感情やある台詞やあるシチュエーションを際立たせるようにそれらはある。たとえば、音楽。藤田演出では、音楽はとても印象的に使われてきた。ある感情を、音楽が増幅させてゆく。だから今でも、劇中で使用されているいくつかの楽曲を聴くだけで、ある感情が僕の中に蘇ってくる。でも、今回の『ロミオとジュリエット』のサウンドトラックを聴いてみても、観劇中に感じた何かが蘇ってくるということはなく、また別の何かが浮かんでくる。これは大きな違いだろう。音楽が物語に従属しているわけではなく、物語があり、それと並列するように音楽があるのだ。

 観劇を終えて印象に残ったのは、物語や言葉というよりも、あるシーンにおける衣装の動きや、高い位置に吊るされた照明から注がれる一筋の光のほうだ。ただ、僕はどうしても言葉で捉えてしまう人間だ。そうすると、今回の作品からは言葉に対する不信のようなものを嗅ぎ取ってしまう。『ロミオとジュリエット』と題して上演がなされているけれど、その物語自体は重要ではなかったのではないかと思ってしまう。それは別に、戯曲が一度バラバラに断片化され、逆再生という形で上演されていることを指して言っているのではない。ただ、物語を物語るということよりも、ある決定的な一行を語ることがすべてを言い当ててしまっているような印象がある(その印象は、「動物三作」と題して上演された作品にも感じた)。その言葉は散文的というよりも韻文的で、その決定的な言葉が随所に“配置”されている。もちろん、物語だって語られてはいるのだけれども、決定的な言葉が決定的であれば決定的であるほど、物語は便宜上語られているようにも見えてしまう。

 そんな感想を伝えると、「でも、これをちゃんとロミジュリとしてできるようになれたらいいなとは思ってますよ」とAさんは言う。あんまりネガティヴな感想ばかり言うのもどうかと思ったので、僕が「ああでも、2年前はプレイハウスが広く感じたけど、今回はそんなふうに感じなかったですよ」と補足する。するとAさんは反対に、「でも私、やっぱり広いなと思った」と言う。客席から観ていると、演出が抜群に施されているので広さが気にならないという意味で僕は「広く感じなかった」と言ったのだけれども、舞台上に立つ俳優からすると、言葉を届ける相手が多く、届けなければならない層が広いということで「やっぱり広い」と感じたのだろう。これでも見ようとはしてたほうだけど、観客のことが全然見えてないとも彼女は言った。

 舞台を観ていて、一つ疑問に感じていたことがある。終演後のカーテンコールを眺めていると、Aさんは酷く疲れているように見えた。たとえば1年前の『書を捨てよ街を出よう』であれば、最後に登場する穂村さんの詩を語るのにエネルギーが必要だというのはよくわかった。でも、もちろん身体的に大変なシーンもあるにせよ、今回は「この言葉を言うのにどうしても体力が要る」というシーンがあるようには感じられなかった。Aさんが演じるロミオがティボルトを殺すシーンでも、悲しみにくれて自ら命を断つシーンでも、相手を殺そう、あるいは自ら死を選ぼうと思っている人にはあまり見えなかった。

「ああ、そういえばあんまり考えてないかも」とAさんは言った。しばらく考えて、「ありがとう、なんかわかったわ」と付け加える。そこで、今回の舞台における言葉のありかたについて話していたところで、藤田さんがやってきた。この日はまだ藤田さんとほとんど話していなかった。僕とAさんの話が聞こえていたのか、「言葉とかはもう、別に要らないんじゃないかと最近は思ってますね」と彼は言う。「言葉とかなくても、普通に思うことはあるでしょっていう」と。

 この2年、藤田さんは様々な作品を上演してきた。『カタチノチガウ』、『ヒダリメノヒダ』、『cocoon』、『IL MIO TEMPO』、『書を捨てよ街へ出よう』、『夜三作』、『タイムライン』、『てんとてん』、『あっこのはなし』、『動物三作』、『A-S』、『0123』、そして『ロミオとジュリエット』。しかし、その多くは再演であるか、誰かの言葉を扱った作品であり、藤田さん自身も「僕の新作と言える最後の作品は『カタチノチガウ』」と言っていたことがある。そのことを考えると、「言葉とかはもう別に」というよりは、まだ言葉にならない何かが浮かんでいるのだろうと思う。その言葉にならない何かが、今回の舞台では言葉にならないまま舞台上に置かれている。それは素晴らしいことでもあるだろうけれど、どうしても言葉ということにこだわってしまう僕は、それが言葉としてそこに置かれる瞬間を観たいと思っている。