朝8時に起きて、ジョギングに出る。知人は芝居を観ると言って昼から出かけて行った。午後4時、観劇帰りの知人と新宿で待ち合わせ、鞄を探して歩く。昨日、さっそく新しいコートを羽織って出かけてみたものの、そのコートに見合った鞄を持っていないことに気づいたのだ(トートバッグかリュックしか思っていない)。それで、ルミネを歩いて鞄を探したのだが、いかにもビジネス向けのバッグか、とんがった革靴を履いた人が持ち歩きそうなバッグばかりだ。使い勝手のよさそうな布地のバッグもあるけれど、せっかく買うのなら持ち歩くだけで嬉しくなるようなものが欲しいと思ってしまう。結局何も買わずに新宿を出た。

 夜、知人と一緒に小竹向原で贅沢貧乏『テンテン』を観る。家プロジェクトの2作品を観て興味を持ち、久しぶりだという劇場公演を楽しみにしていた。客席が埋まると、開演前のアナウンスより先に舞台上にカップルが登場し、ゆるゆる歩きながら、にやつきながら客席を眺めている。ああ、この手のやつか。これまで何作も客席と舞台との関係をいじる作品を観てきたけれど、今回の舞台に関してはそこに触れる必要があったとは思えなかった。なぜなら、アナウンスが入って本編(?)が始まると、病院のナースステーションを舞台にややコント仕立てのやりとりが交わされるシーンでは、役者たちが全員客席に体を向けて立っている。会社の会議のシーンでも、ほぼ全員が客席に体を向けている。冒頭にあんなシーンを入れておいて、どうしてこんな雑なことをするのだろう。コント仕立てで演じられるキャラクターたちもベタベタだ。横柄な先輩や、嫌味な先輩など、何百回と消費されてきたキャラクターをわざわざ取り入れることに、どんな意味があるのだろう。観ていてずっといたたまれない気持ちになった。「プラズマクラスター」だの「ナノイー」だの、カタカナを使えば消費者は騙されるんだ的な話が入ってくるのも、何週遅れの話をやっているんだろうと思ってしまう。

 劇にはいくつかのレイヤーがあり、その一つはある夫婦の物語だ。妻は妊娠しており、突然意識を失ってある病院に運び込まれる。そこで医者から告げられるのは、自分のお腹に宿っている生命体には羽や尻尾があるということだ。彼女と同じ部屋に入院している女性も妊娠しており、出産を間近に控えている。この「病院」というレイヤーとは別に、不思議な場所が存在している。そのレイヤーに存在しているのは、まだ生まれる前の生命――羽や尻尾のある子と、出産間近の子――がいる世界だということが徐々にわかってくる。二人は次第に仲良くなり、最後には「普通」と違ってたっていいじゃないかということが語られることになる。

 それを肯定する気持ちはわかる。でも、僕はとても観ていられないという気持ちで一杯だった。まず、俳優が言い澱む場面も数度あり、そんなレベルで上演されているということもある。「そのダイアローグはなぜそのリズムで語られるのか」と気になってしまう場面も多々ある。ごくあたりまえのことを、ごくあたりまえに伝えるためには、特別な何かが必要だ。決定的な言葉か、ハッとさせられる演出か、俳優の圧倒的な存在感か、そういったものがなければ胸に響くことはないだろう。別に俳優が圧倒的でなくたって、その圧倒的でなさをどう見せるかで印象は違うはずだ。でも、そういったものは何も感じられなかった。

 改めて、初日のアフタートークに呼ばれた高橋源一郎が「「マームとジプシー」の「cocoon」以来かな、舞台でこんなに泣かされたのは」と書いていたことが腹立たしく思える。高橋源一郎は「岸田賞あげてください」なんてことまでつぶやいていたけれど、これで岸田が獲れるならもっと先に受賞しなければならない人はいるだろう。そもそも「岸田賞あげてください」なんてことを、どういうつもりで言っているのか。終演後はアフタートークがあるそうだったけれど、それは聞かずに劇場を出た。これは作品の感想とは関係なく、アフタートークが苦手なだけだ(たまにアフタートークに呼ばれることもあるけれど、そのたび申し訳ない気持ちになる)。小竹向原駅前にあるオリジン弁当で惣菜を買って帰り、チューハイをツマミに酒を飲んだ。