7時に起きる。早起きしたおかげで『サワコの朝』(TBS)を観ることができた。ゲストは青木崇高だ。ドラマで観ると大型犬のような存在感だと思っていたけれど、本人も大型犬みたいな人柄だ。知人も珍しく起きて観ている。昨日のQの『毛美子不毛話』に登場する人物の暴力的な物言いが酔っ払ったときの自分い重なる部分もあるので、上演台本を読んで聞かせると、「もふはそんなに合理的じゃないけど」と知人は言う。「納豆かき混ぜるのに器一つ使って、納豆とオクラを一緒に混ぜるのにまた器一つ使って、それを食うのにまた器一つ使って。バカやけど」。

 朝食を食べたのち、録画しておいた『勇者ヨシヒコと導かれし七人』(テレ東)第11話観る。ドラクエあるあるに終始した回だ。それはそれで面白いけれど、どうして無理やり全12話にしたのだろう。

 それを観終えると、ドイツ(Zebra Production/WDR)制作『私はシャルリではない』というドキュメンタリーを観る。パリ郊外にある、イスラム教徒や移民が暮らす地域を取材したドキュメンタリーだ。「La Grande Borne」という団地に、コートジボワール出身のソーシャルワーカー・アカが暮らしている。彼はカトリックの家庭に育ち、20台後半にこのイスラム教徒が暮らす地区に移住してきた。この地区は、ユダヤの少量品店を襲撃した犯人が生まれ育った場所でもあり、アカは小さい頃からその犯人を知っていたのだという。犯人とは1999年に連絡が取れなくなったが、2014年にふらりと戻ってきたそうだ。「彼は頼れる人を探していたんです」とアカは言う。「おそらく、街角のソーシャルワーカーだった頃の私を。でも、久しぶりに会って観ると、何かが違うと感じたんでしょう。昔のお礼で訪ねてきたにしては、彼はやけに冷静でした。自身に満ちていました。その揺るがない感じがどこからきていたのか、後になってようやく理解しました。彼の友人たちは、アメディは以前のアメディじゃないと言いました。何かが彼を飲み込んでしまったんです」。

 パリに移住してきた人々のあいだで、宗教意識は変化しつつある。この団地に暮らす母子がいる。この母親というのがパリに移民してきた世代であり、彼女は宗教に関心を持っていない。しかし、子は宗教について学びたがっており、 「髪を青くしている女の子とは結婚したくない」と語る。それを聞いた母は「そんなことどうでもいいじゃない」と反論し、「ベールをつけた女の子は色っぽくないよね。かわいそうよ」と語る。ヨーロッパに渡った世代は、宗教的関心が薄いからこそ西欧を目指した。しかし、移民二世は宗教に向かう。それは社会から疎外されていると感じているからだろう。郊外の団地に育った若者たちは皆、「ここを出るつもりはない」と口を揃える。小さい頃から共に育った仲間がそこにいるからだ。フランス社会に溶け込もうと思わないのかと質問されると、皆一斉に喚き出す。「フランス社会? そんな社会に溶け込めるわけないだろ! 自由・平等・博愛、たしかにフランス中にそう書かれている。でも、そんなキレイゴトが現実にどこで尊重されている? どこに行ったって、これっぽっちもお目にかかったことないよ」。

 白人の暮らすパリ中心部とイスラム教徒の移民が暮らす郊外とは分断が進んでいる。危うげな若者がいると昔は諭すように語りかけていた警察が、今は何かしらの罪ですぐに手錠をかけようとするのだという。以前であれば徒歩で巡回していたのに、今は車でだけパトロールが行われており、麻薬の取引なども頻繁に行われているそうだ。フランス社会に馴染むことができず、過激なイスラム思想に走る――そんな若者を、宗教的な権威であれば止めることができたのか。答えは否だ。パリ郊外にあるモスク「Mosquée d'Evry-Courcouronnes」の代表を務める男性はモロッコ出身で、外国人労働者としてフランスに渡ってきた。彼曰く、「宗教にもとづく過激な行動はモスクから生まれるわけではありません。最近の若者の多くは、宗教を学ぶにしても両親からではなく、インターネットを通じて学んでいます。ですから、過激派をコントロールすることは、モスクの代表である私には手に余る行為です。私たちにできることは、人々に情報を提供し、イスラム教の真実、その本来の意味を正しく伝えることです」。

 イスラム教徒のコミュニティは今、ユダヤ人コミュニティとの亀裂に悩まされている。過激なイスラム思想にかぶれた若者たちは、ユダヤをターゲットにしているからだ。若者たちが反ユダヤ思想に染まるのは、ネット上にそうした言論が蔓延しているからだという。ユダヤ系の食料品店を襲った犯人が射殺された事件に関しても、ユダヤの陰謀だとする言説を掲載するサイトがあるのだ。ある専門家は、「こうした主張をするのは、三つの勢力がある」と語る。一つはナショナリズムから反ユダヤ的な言説に染まる陰謀論者(極右)、一つは反ユダヤ的なイスラム過激派、一つは「権力はユダヤと結びついている」と考える過激派(左翼)。しかし、何より問題なのは希望のなさだ。若者たちは、「ジハードに参加すれば金と女が手に入り、たとえ死んでも天国に行ける」と信じている。希望を持って生きることができれば、そんな思想に染まることはないのだ。

 12時半、東京芸術劇場プレイハウスへ。バーカウンターで白ワインを2杯飲んだのち、『ロミオとジュリエット』観る。今日は二階席から観たが、改めてすごい演出だ。こんなふうに空間を使うのかと圧倒される。人と物と音と光を編集し、空間に配置する力には舌を巻くばかり。しかもプレイハウスという規模がまったく広く感じさせないのがすごいところだ。こうして見下ろすと、舞台上で役者がめまぐるしく動いているのがよくわかる。450キロにも及ぶ巨大な壁は男優陣によってくるくると動き回り、女優たちは壁と連動するように舞台上を動く。『ロミオとジュリエット』は、普通に上演すればどうしたって“お芝居”感が拭えないはずだ。台詞をすべて今風にアレンジすれば現代劇にすることはできるだろう。しかし、今回は(一部の台詞は『ロミオとジュリエット』を翻訳した松岡和子さんによってアレンジされたそうだが)台詞にはほとんど手が加えられていないのだ。

 舞台上の人と物はめまぐるしく動き続ける。ただ動かすというのではなく、様々な角度を与えることによって物語に対する視差が得られる構造にもなっている。そのせいか、1時間40分という上演時間のあいだにダレる時間がなかった。これは案外珍しいことだ。『ロミオとジュリエット』の世界に耽溺したい演劇愛好家には不満が残る可能性もあるけれど、コラボしている作家たち――音楽を担当する石橋英子・須藤俊明・山本達久、衣装を担当する大森礱佑子――に興味を持って劇場に足を運んだ観客も、この1時間40分を楽しむことができるだろう(2014年の『小指の思い出』でも、2015年の『書を捨てよ町へ出よう』でも、今作でも、そのことに対して特に意識的であるはずだ)。その意味で、今回の試みは「現代劇として『ロミオとジュリエット』を上演する」ということではなく、「現代と地続きに『ロミオとジュリエット』を配置する」ということだったと言える。

 わかりやすい例を挙げれば、舞台が終盤に差し掛かったところで450キロの壁は舞台の上へと引き上げられていく。すると、舞台の奥に瓦礫が姿をあらわす。この場面で語られるのは、ジュリエットが乳離れした日の話だ。乳母は、11年前の大地震の日に乳離れしたのだとジュリエットに告げる。この「大地震」という箇所に、今回の上演に向けて戯曲を読み直した藤田貴大は目を惹かれたのだろうう。そこで語られているのは原作通りの話であるにもかかわらず、2016年の東京にいる観客は何か思い浮かべてしまう。あるいは、“ひよちゃん”というキャラクターのこと。彼女はもちろん原作には登場しない、オリジナルのキャラクターであり、その役名は役者の名前そのままだ。“ひよちゃん”は、舞台が中盤に差し掛かったところで、こんな台詞を口にする。「ああ、しあわせだ。しあわせな夜。夜だからこれは、みんな夢なんだろうか」――そう語り終えた彼女は、ストンと舞台から飛び降り、そのまま客席の間を歩いて消えてゆく。『ロミオとジュリエット』の世界の外側に存在していたキャラクターが、物語を食い破るようにして穴を開け、消えてゆく。物語の世界を堪能していた観客は、舞台と客席とのあいだの幕が破れたような気持ちになってギョッとすることになる。

 “ひよちゃん”が死んでしまった直後に、別の出演者が――吉田聡子が――語るモノローグも印象的だ。「ひよちゃんは、誰かからいじめられているわけでもない、仲間はずれにされているわけでもない、だけれども、私たちは誰も知らない、ひよちゃんのことを。ひよちゃんが何を考えているのか。ひよちゃんが、何で死んでしまったのかも、私たちはきっと、知らないままだろう」。また別の箇所で、吉田聡子は「隣の誰かが何を思っているかすらわからない、そんな街角だ、ここは」なんて台詞も口にする(それにしても、今回の舞台における吉田聡子の存在は以前にも増して大きいと言っていいはずだ)。ここでは『ロミオとジュリエット』に登場するキャピュレット家とモンタギュー家の争いも示唆されているわけだが、今の日本の状況だって重なるし、世界の状況だって重ねうる。その意味でも、『ロミオとジュリエット』を現代劇として上演したというよりも、現代と地続きに『ロミオとジュリエット』を配置したのだという気がする。そして、その向こうには絶望的な感情が仄見える。藤田貴大という演劇作家の作品には以前から絶望の色が大きく滲んではいたけれど、その色合いがますます濃くなっているように感じる。

 作品の内容とは関係ないことだが、腹立たしかったことが一つ。二階席の最後列に高校生の団体が陣取っていたのだが、上演中にずっとしゃべっていたのだ(高校生は割引があり千円で観れるから、そんな態度になってしまうのだろうか)。もし僕が端っこの席に座っていたら、上演中に立ち上がって文句を言いに言っていただろう。ぶちぎれるのは終演後にしようと気持ちを落ち着かせていたのだが、カーテンコールが終わって席を立つときにはもう奴らの姿はなかった。上演前は引率の大人がいる様子だったのに、情けない話だ。

 観劇後は「ふくろ」に入り、ホッピーを飲んだ。まだ2階の開いていない時間だから、珍しく1階で飲んだ。1階のほうがより常連さんで席が埋まっている。「お母ちゃんを殺しちゃダメだよ」「うん、年金もらえなくなっちゃうからね」なんて冗談を言い合っている姿を目の端で眺めつつ、えんどう豆をつまんだ。日が暮れる頃にはすっかり酔っ払っていた。ふらふらと店を出て、ビックカメラで新しいハードディスクレコーダーを分割で購入する。年末年始に観たい番組をチェックしていると、同じ時間帯に3つか4つ重なっているところがある。今のレコーダーでは2番組までしか録画できないので、新しいレコーダーを買おうと思っていたのだった。

 レコーダーを壊さないように慎重にアパートまで帰ってくると、ホッとしてすぐに眠ってしまう。遅い時間になって目を覚まし、眠れなくなったのでまとめサイトを眺めていると、島木譲二の訃報が出ていた。ふいに思い立って、『熱唱!!STREET FIGHTER II 』を引っ張り出して聴く。スト?のBGMをもとにしたアルバムで、ザンギエフのステージの曲で歌っているのが島木譲二なのだ。このアルバムはCDコンポと一緒に我が家にやってきたアルバムなので、妙にしんみりした気持ちになる。