午後、新宿へ。テアトル新宿にて『海辺の生と死』観る。映画館を訪れるのは久しぶりだ。塩ポップコーンと、今回の上映にあわせた限定ドリンクのトロピカルフルーツティーを購入する。映画の日ということもあり、立ち見も出る盛況ぶり。上映が始まると、緊張しつつ塩ポップコーンを食べる。どうしてポップコーンを紙袋で提供するのだろう。手に取ろうとすればガサゴソと音がする。なるべく音がしないように、慎重に食べることに神経を注ぐ。

 映画は島に駐屯する朔中尉と臨時教員のトエが出会うところから始まる。ある日、朔はトエに「塩焼小屋で待っています」と手紙を書く。トエは人目につかないように、海の道を必死で塩焼小屋を目指すのだが、その展開に戸惑ってしまう。他の軍人たちのように、「同期の桜」を大声で歌うことを好まず、それなら島の唄をおぼえたいという朔に人間的に惹かれるのはわかる。でも、それが恋愛感情に繋がるものとして認識できていなかったので驚いてしまう。ポップコーンに集中していたせいだろうか。

 映画の終盤、朔中尉に出撃命令が下る。この部隊は特攻のために駐屯しており、出撃命令が下るということはつまり、死ぬということだ。最後の別れを終えたトエは、夜の砂浜で泣き崩れる。砂をかき集めては胸で受け止めようとするが、砂はこぼれ落ちてゆく。やっぱりこれは男女の恋愛物語ではなく、もっと言えば戦争映画でさえなく、どうしたって死んで消えて行ってしまう儚さがテーマなのだろう。そう思いながら満島ひかりの姿を食い入るように見つめる。

 しかし、出撃の時は訪れず、終戦を迎える。朔中尉とトエの手紙の受け渡しを担っていた兵士が、トエの元を訪れる。自分も故郷に帰ることになり、もう会うことはないかもしれませんねと言う。そこで「お元気で」と手を撫でて見送るトエの姿を見ていると、自分はこの255分のことを何も理解できていなかったのかもしれないと思う。映画を観終えたあと、「浪曼房」でホッピーを飲みながら知人にそう感想を漏らすと、「こいつはほんまに人間の気持ちってもんがわかっとらんのう」と困った顔をされる。

 今日は阿久悠が亡くなってちょうど10年に当たる日だったので、阿久悠の書いた歌詞をツマミに酒を飲んだ。知人はどの曲も少し歌う。「北の宿から」の歌詞を読んで、「こんなふうにセーターを編んで、しかもそれを『寒さをこらえて編んでいます』だなんて、これはただの自己演出だよね。別に寒いとこで編まなくていいし、編んでますとか言わなくていいよね」とブツクサ言っていると、「だから、次の行に『女心』って出てくるやろ。ほんまに人の感情がわからんやつやのう」と知人が言う。そんなふうに、結局は男女の感情に収斂されてしまうものなのだろうか。またわからなくなる。僕は男性ではあるけれど、相手が女性であるから恋しく思うという気持ちはよくわからない。相手が男性であっても、もっと会って話がしたいと思うし、もっと知りたいと思う相手はすぐに5人くらいは思い浮かんでくる。

 「なんで知りたいと思うわけ。知ってどうなるわけ?」。知人が不思議そうに言う。そう言われてみればなぜだろう。その人が何を考えているのか知りたいと思うし、その人が結局のところどんな人間であるのかを知りたいと思うし、根っこのところで何を思っているのかを知りたいと思う。あの出来事に何を思うのか。このことについてどう考えるのか。知りたいと思ってしまう。そのことについて話せないのであれば、言葉を交わせなくていいとさえ思ってしまう。そう伝えると、「私は別に、周りの人が深いところで何を考えてるかなんて知りたくない」と知人は言う。「家族とか身近な人は別だけど、話が聞きたいとか、思ったことないもん」。その言葉に衝撃を受ける。皆、そんなふうに日々過ごしているのだろうか?

 22時過ぎに店を出た。アパートに戻り、知人が苗場土産として買ってきたえびせんと食べながら『居酒屋ふじ』を観る。実在する居酒屋を舞台にした原作小説をドラマ化したもの。なかなか面白く、自分は何を書こうかと考える。