朝8時に起きる。適当にストレッチをしていると、目をさました知人がわき腹に「しろくま」と指で書く。肌が白いねえ。ちゃんと「しろくま」って書いとかんと、普通のクマと間違われるねえ。独り言のように言って、知人はまた眠りにつく。カーテンを開けると快晴で、ようやく夏らしい気持ちになる。そんなに興味があるわけでもないのに、チャンネルは甲子園に合わせる。高校球児たちを眺めながら、玉子粥とひじきの煮物を食す。エアコンが効かず、汗が出る。

 昼、お弁当を買いにセブンイレブンへ。すごい暑さだ。日陰を歩いているだけでも体力を奪われていると実感する。この暑さは一体どういうことだろう。中華丼を食べたのち、整体へ。いつもは木曜日に通っているけれど、明日は取材で東京を離れるので、今日のうちにやってもらう。身体が軽くなったところで、東急田園都市線直通の副都心線で横浜に出る。せっかくだから眺めのいい場所で原稿を考えよう。そう思って大桟橋近くの象の鼻テラスにやってきたのだが、夏だからか大混雑だ。ピカチュウの被り物をした人で溢れかえっている。ディズニーランドでミッキーマウスの被り物をするならともかく、ピカチュウの被り物をして街を歩くというのはどういうことだろう。それが夏の魔法なのだろうか。もしそうだとすれば、僕はその魔法にかかったことがない。

 夜、STスポットで範宙遊泳『その夜と友達』観る。舞台は男のモノローグから始まる。彼は大学時代の親友だった「夜」という人物について語り出す。その視線は観客に向けられているのだが、そこに「夜」が登場し、シームレスに大学時代に移行していく。この作品は何度となく時間を往復する。時間が交差する。過去と現在が同居する。劇中の登場人物のあいだで時間が交錯するだけでなく、その作品世界という時空と、ここで劇を観ている私たちの時空もまた交錯している。

 登場人物たちの言葉はストレートなメッセージに満ちている。そこではトランプの名前も登場し、「マジであんな差別的な発言してたやつがボスになんのかよみたいな空気があったんだよね」と振り返る。登場人物たちは未来の世界から2017年を振り返る。「だから 2017年 俺らは当事者だった」という台詞は、観客である私たちに未来について想像させもするし、「当事者」という言葉は強く響く。それに続けて、「子供達に花を配った男が逮捕された」というニュースについて言及される。その花がペニスの形をしていたという理由で男は逮捕され、それが夜だったことが明かされる。

 この作品では様々な境界線が、壁が語られる。たとえば夜はゲイだったことも、境界線にまつわるエピソードだ(「エピソード」と呼ぶにはこの作品の根幹に関わる話ではあるのだけれど、そこに立ち入るには日記という体裁は適さない気がするので先に進む)。夜が語る。「この部屋にネズミがいてさ」「いたとして 目が合わなかったらそれっていないってことと変わらなくない?」「たまにチュウチュウ鳴いて それでようやく あっなんかいるなって思ってもらう程度なんだとおもうよ」「でもまあ目立ちすぎたら目立ちすぎたで それはまたそれで殺されちゃったりするんだけどね」。このエピソードを、夜はパーソナルな問題を込めて語っているのだろう。でも、そこで語られていることは、今の世界に存在するありとあらゆる壁に通じる話だ。

 そうしたことが問題にされている作品を、50人も入れば満席になる劇場に足を運ぶお客さんはきっと理解するだろう(理解しないとすれば終わっていると思う)。だからこそ、この作品はもっと大勢の観客と出会うべき作品だと思う。たとえば、開演直前に劇場の前を通りかかり、大勢の人間が座っている風景を目撃し、驚いて立ち止まったサラリーマン。彼はおそらく、同じフロアにある居酒屋で酒を飲んでいたのだろう(トイレに行くには一度店を出て廊下を歩かなければならない)。あのサラリーマンがこの作品を観たとして、どんな感想を持っただろう。2時間の上演時間のあいだ、そんなことを想像していた。

 舞台の終盤、15年ぶりにカズと夜は再会する。二人は久しぶりに乾杯し、ビールを飲んだ。二人はポツリポツリと言葉を交わす。「ウィード吸う?」とカズが冗談を言う。「そんなものいらねんだよ」と夜が答える。「このビールだって別に」「そうさ」「なくたって変わらないよ」「そりゃそうだ」と言葉を交わしていると、時空を超えて“あん”という女性が登場する。「あのね 私ね 本当は今 夫と子供と3人で 晩御飯食べてるんだ」と彼女は語る。すでに記したように、この作品はしばしば時空を飛び越える。「全然辻褄合ってないんだけど ここにいていい?」という“あん”に、「いいに決まってんじゃん」「関係ないよ」と二人が語り、舞台は幕を降ろす。

 このシーンは何と希望に満ちているだろう。でも、そのことを希望だと感じれば感じるほど、実際の私たちの魂はそんなふうに時空を超えることができないことに思いを巡らせてしまう。ビールだって別に、なくたって変わらないよ。そりゃそうだ。でも、この作品の中で登場人物たちは何度となくビールを飲む。断酒中に観るにはちょっとつらい作品で、何度も「ああ、帰りの湘南新宿ラインでビールを飲んでしまおうか」と考えた。ここ最近は、お酒を飲む意味について考えたりもした。僕が誰かとぼんやり一緒にいられるのは、お酒を飲んでいる時間だけだ。そうしてお互いに酒を飲んでいるという共通点だけが、物理的に同じ空間に存在し、同じ時間を過ごす理由だ。