朝8時に起きる。10時になると布団をひっぺがして知人を起こし、宛名が印刷されたラベルシール貼りを手伝ってもらう。「ねみいのに起こされて、こんなわけわからんこと手伝わされて。おいー。コーヒー入れろよお」とぼやくので、知人がラベルシールを貼っているあいだにコーヒーを淹れる。知人はラベルシールを、僕は切手を貼る。切手はまだしも、ラベルシールを貼るのが本当に苦手だ。うまくはがせずにもたもたしてしまう。知人はピッとスムーズにはがして貼るので、何度か手伝ってもらっている。今日は35通目と36通目に貼り終えたので、残すはあと1通だけだ。これまでに貼った切手の数は4550枚にのぼる。

 仕事に出かける知人を見送り、キャベツと酒盗のパスタを食す。午後はドライブインの資料を読んでいた。17時過ぎにアパートを出て、まずは二重橋前に出る。東京中央郵便局から那覇中央郵便局あてにゆうパックを発送。そこから丸の内を歩く。空が赤く焼けている。有楽町を通り過ぎれば日比谷で、巨大な建物が見えてくる。ここ数日、やけにCMで見かけるミッドタウン日比谷だ。新しいビルができているのに、わくわくしないのはなぜだろう。僕は向かいにある日比谷シャンテに入り、こちらもオープンしたばかりの「HIBIYA COTTAGE」へ。近々また訪れる予定があるので、ざっと棚を眺める。東京本のコーナーにも、本の本コーナーにも坪内さんの本がないことを寂しく思う。並んでいるのではないかと期待していたわけでも、置かれるべきだと思っているわけでもないのだけれど。

 『山口瞳ベスト・エッセイ』と『キネマ旬報』を購入し、3月30日のトークイベントの代金を支払う。トークイベントの代金を、イベント前日までにお店を訪れて店頭で支払うようにと言われたのは初めてのことだ。僕は東京在住だからいいけれど、「上京してでもそのトークイベントを聴きに行きたい!」という人はどうすればよいのだろう。スーツ姿の大人たちが店頭で楽しそうに挨拶を交わしている姿を横目に店を出て、コンビニでビール(ロング缶)を購入し、地下鉄で渋谷を目指す。今日はWWWでLORD ECHOというバンドの来日公演がある。LORD ECHOのことは今年に入るまでまったく知らなかったけれど、『みえるわ』ツアーのとき、開場中に流れていたのがLORD ECHOのアルバムだった。その『みえるわ』が最初に上演されたWWWで来日公演があると知り、やってきたのだ。

 ドリンクチケットをジントニックに換えてフロアへ。入ってすぐの扉付近は混雑しているけれど、一番下の段の端っこのあたりに行ってみるとやはり空いている。19時ちょうどに開演。オープニングアクトが1時間あり、転換を挟んでLORD ECHOの出番だ。登場してきた人たちの姿を見て、ああ、私が日本各地で聴いてきた音楽を演奏していたのはあなたたちでしたか、という気持ちになる。ニュージーランドのバンドだということくらいしか知らなかったので新鮮な気持ち。ライブはとても楽しかった。アルバムを聴いていると、曲によって歌っている人が違っていて、「一体どんなバンドで、何人組なのだろう?」と思っていたのだが、ライブを観ていて腑に落ちる。舞台に立っているのは5人なのだが、「誰かひとりのメンバーが考えていることを実現する」という構成ではなく、この曲は彼にスポットライトが当たる曲、これは彼女にスポットライトが当たる曲といった調子で、それぞれが好きなことをやり、それを他のメンバーも楽しんでいる。とても民主的だし、風通しがよくて、それぞれが個人的である姿がとても好ましく思える。

 そう書いたところで止めておけばいいのだろうけれど、ライブに行くたび、観客の姿が目について仕方がない。年を重ねるごとに周りの観客のことが気になるようになった。ライブが始まる前に知り合いを探し、見つけてはウェーイと挨拶を交わしている人たち。演奏しているあいだも隣の女の子に話しかけている男の子。ずっと写真や動画を撮っている人たち。ケータイをいじっていたのに、演奏が終わったと気づいた途端に「ヒュー!」と歓声をあげる人。皆、一体何をしにきているんだろうかと不思議な気持ちになる。音楽を聴いた興奮というものは、そんなにたやすく共有できるものだろうか。挨拶を交わして、感想を述べあって、写真をアップして、体験や時間を共有した気持ちになっているのかもしれないけれど、それは本当に共有できているのだろうか。

 ともあれライブはとても楽しかった。今日のライブは数少ない友人のA.Iさんも観にきているはずで、「もし終演後に会えれば」というメールをもらっていたけれど、「もし」ということに今日の自分は賭ける気持ちになれず、ロビーにいれば会えたのだろうけれどさっさと帰ってしまった。副都心線新宿三丁目「F」。隣の席にはO.Sさんがいた。お店のママであるHさんが「はっちゃんは最近、また変わったことやってるのよ」と『手紙』のことを紹介してくれる。「いいね、はっちゃん。版元として、どんどん面白いことやってよ」とOさん。版元としてですか、と僕が笑うと、「いや、書き手としてはもちろんだけど、はっちゃんのことは版元仲間だと思ってるから」と言ってくださる。

 終電もあるので、小一時間で帰るつもりだったけれど、せっかくOさんと話せるのに帰るのも勿体無い気がして、結局2時間近く飲んだ。「橋本さんの世代がなにを書くのか、すごく興味がある」とOさんは言う。一番書きたい声は何なのか、と。「書きたい」なのかどうかはわからないけれど、『月刊ドライブイン』はそれに近いのだろう。最初にドライブインに興味を持ったとき、「これはきっと、すでに誰かが書き残しているに違いない」と思っていた。でも、調べてみると、建物の写真は雑誌やネットにいくつも記録されているけれど、そこにどんな時間が流れていたのか、どんな声があったのかということはほとんど記録されていなかった。このままではその声が消えてしまう。誰も書かないのであれば自分が書いておかなければ――そう思って始めたのが『月刊ドライブイン』で、マームとジプシーに同行していることだってそれに近い気持ちでいる。

 Oさんは面白がって僕の話を聞いてくれた。僕は最近、どうすれば自分の言葉を価値のあるものにできるのかということを考えるようになった。「価値のあるもの」というと語弊があるけれど、僕は自分の言葉に(今現在の流通の中では)価値がないだろうと思い過ぎている気がしている(それを友人に伝えると、「それは××君もずっと言ってますよ。『橋本さんは自分が出す本の値段設定が低すぎる』って」と言われたけれど、自分で出している本にうまく値段をつけることができないのもそれに近い気がする)。でも、妙な自己プロデュースをするとかっていうことではなく、自分が書く言葉が価値のあるものだと認める人がいなければ、物書きとして行きていくことはできなくなる。そんな話をすると、「それはこの年になっても考えるよ」とOさんは言った。ライターではなく作家になれば変わるかもしれないと思っていた時期もあるけれど、最近はまたちょっと考え方が変わってきた、と。Oさんの書く言葉も、語る言葉も、好きだ。書かれた言葉の背後に、語られた言葉の背後に、膨大な数の書かれなかった/語られなかった言葉が横たわっているのを感じる。僕もそういう言葉が書けたらと思う。