朝7時に起きて、ジョギングに出る。月も変わったことだし、気分転換にいつもと違う方向に走ってみる。しばらく走ると東京大学の正門に出た。こんなに近かったのか。キャンパス内を走り、安田講堂を眺めてから千駄木方面に引き返す。大平製パンで買ってきたたまごドッグを食べたのち、メールの返信など。昼、自転車こいで東京大学の正門を目指す。たった5分で着いてしまった。この界隈は少し移動すると坂に行き当たるが、東京大学までの道にはほとんど高低差もなく、そこまで大きな道路を走らずに済むので快適だ。「喫茶ルオー」に入り、カレーライスを食す。スパイスが効いていてうまい。食後のコーヒーをいただき、アパートに帰る。

 15時、彩の国さいたま芸術劇場で『めにみえない みみにしたい』(作・演出=藤田貴大)観る。「対象年齢4歳以上」という新たな試みで、劇場に入ってみると舞台に芝生が敷かれており、半分はアクティングエリアに、半分は客席になっていて、小さな子供を連れた親御さんもちらほらいる。開演前のアナウンスが始まると、間髪置かずに俳優が登場する。この間髪置かずにというのも、子供を想定し、ダレさせないようにという配慮だろう。まず長谷川洋子が舞台に登場すると、最前列の子供が「誰?」と口にする。その言葉に微笑み返して、最初の台詞を語り出す。「こんにちは」。子供達もこんにちはと返す。「でも、今は、夜です。だから、こんばんは」。そうしてフィクションの世界に導入してゆく。

 最初に感じたのは、長谷川洋子という俳優の魅力が増しているということ。少し前に稽古場の様子がインスタにアップされているのを目にしたとき、ひとり知らない俳優がいると思って、よく見たらそれは彼女だった。それと、もう一つ強く感じたのは、伊野香織という俳優の、コメディエンヌとしての素晴らしさ。これまでも出演した作品でもコミカルさはのぞかせていたけれど、今回の作品ではそれが全体のリズムを作ってもいる。リズムといえば、しばしば「マーム的」と語られる演出――台詞のリフレインや俳優がジャンプして位置を変えるステップなど――というのは、ここ最近の作品ではやや影を潜めていたように思うけれど、それらを意図的に再び活用することで、小さな子供が観ていても飽きずに舞台を観続け、魅了できるようにというリズムを生み出している。

 ただ、「子供は大人よりも演劇を観る解像度が低い」とあなどって作品が作られているわけではないだろう。劇の前半で、ドーン、ドーンと地響きのような音がなり始めるシーンがある。観劇に慣れた大人は、その音は何を表現しているのかと思考する。音の後に続く台詞で、それが巨人の足音だと説明されるのを聞き、それを理解する。だが子供は違う。音そのものを聴いている。地響きのような音が鳴ると、最前列の子供が即座に泣き始めていたのがそれをよく示している。いつだか『水曜日のダウンタウン』で、水族館のウニの水槽に栗が入っていても気づかないという説が検証されたとき、大人たちは「それは栗である」という先入観を持って見るせいか誰も気づかなかったのだが、子供がそれを栗だと見破ったというのを思い出す。

 そうしたみずみずしい感受性を前提に作品を作っているせいか、いつもの作品以上に、演劇作家の想像力が自由自在に広がっている。こう考えると、小劇場で上演される作品のほとんどはリアリズムを前提にしているのだと再認識させられる。現代を舞台にしていると明言されていなくても、リアリティや必然性を求められる。藤田作品でも、『IL MIO TEMPO』のラストに指紋認証のエレベーターが登場したり、『A/S』という作品でやや時空を超えた存在である「高田くん」が登場したりはするが、そうした飛躍というのはごく部分的なものに限られている。通常の演劇公演であれば、自由自在に発想を広げれば「作品として破綻している」と観客に言われてしまうが、「対象年齢は4歳以上」という枠組があることで、飛躍というものはさほど気にならなくなる。思えば小さい頃に自分が観ていたものたちも自由自在に飛躍していた。こうした作品を作ることで、マームとジプシーの作品に返ってくるものは非常に大きいのではないか。そう考えると、定期的に児童向けの作品を作ってゆくとどうなっていくのだろうと興味が湧く。

 子供も観劇できる作品を作る。そうした話が持ち上がったのは、劇場側からの提案ではないかと思う(違っていたらごめんなさい)。ただ、きっかけは制作的な理由であったとしても、このタイミングで『めにみえない みみにしたい』という作品が上演されることには必然性を感じる。

 2013年と2015年の二度、マームとジプシーは『cocoon』という作品を上演した。これはひめゆり学徒隊に着想を得た作品で、2015年の上演では過去・現在・未来という時間軸が明確に描かれていた。二度の『cocoon』のあいだに上演された新作『カタチノチガウ』では、子供の残して死んでしまうことになった「いづみ」という登場人物が描かれており、ここには残す/残されるという軸がある。『カタチノチガウ』の次に「新作」と銘打って上演された『sheep sleep sharp』では、エピローグで劇場のエピソードが語られる。主人公である「わたし」は、まだ自分が幼かった頃に、親に連れられて劇場に出かけたことを思い出す。その経験は「わたし」にとって決定的なものであった――それは藤田貴大という演劇作家の実体験でもある。

 今回の『めにみえない みみにしたい』が終わると、次は『BOAT』という新作が上演される。これは『カタチノチガウ』から『sheep sleep sharp』へと続いてきた新作の完結編であると宣伝されている。その作品を前に、子供達を対象に含めた作品を上演することは、とても意義のあることだったのだろう。演劇作家として、自分は子供達に何を見せることができるのか、未来に何を託すことができるのか。この作品を作っているあいだ、いやこの作品を上演しているあいだ、彼はずっと頭を悩ませ続けているのだろう。それが『BOAT』に繋がってくるであろうことは想像に難くない。子供達に、未来に何を残せるのか――そういう境地に達したとき、もしかしたら戯曲に対する考え方も変わってくるのではないのかと思う。マームとジプシーの作品は基本的に口伝で作られていて、そのスタイルは変わらないのだろうけれど、その言葉をどう残すかということに対する考えにも変化があるのではないかと、『めにみえない みみにしたい』を観ているときにふと思った。

 ただ、「対象年齢4歳以上」というのはとても難しいラインではないかとも感じる。たとえば、芝生で観ていた女の子は、途中でキラキラした紙が降ってくるとそれに夢中になり、作品のラストのあたりになってもまだ一生懸命紙を拾い集めては親に自慢していた。もちろんその経験だって彼女はいつかの未来に思い出すかもしれないけれど、そこで語られている物語のことをいつだかの未来に思い返して欲しいと、観客である僕でさえ思う。そう考えると、4歳というのは際どい年齢ではないかと思いもするけれど、でも、たとえばこの作品で全国の小学校をまわれば、一体どんな未来になるのだろうかと想像する。そう、そんな未来を想像する。もし児童向けの作品であれば、大人の観客は「この作品を観たこの子たちは、遠い未来に何を思うかな、どんなふうに今日のことを思い出すのかな」と想像するだけで十分なのだろう。でも、大人だって「対象年齢4歳以上」に含まれているわけで、僕自身も圧倒されたいと思ってしまうのはわがままだろうか?

 終演後は埼京線の快速で新宿に出て、フラッグスとルミネを巡る。実家で保管してあった夏服を送ってもらったのだが、「これを着るだけで嬉しくなる」と思える服が案外少なく、新しい服を探す。1着だけ見つかり、購入。千鳥の大悟が着てそうな服だ。以前にもそんな服を買ったことがあるので、僕のファッションアイコンは千鳥なのかもしれない。18時過ぎ、東南口で友人のA・Iさんと待ち合わせ、「浪曼房」で乾杯。今日観た作品の感想を聞かれ、あれこれ話したあとで、「ああでも、Aさんがあの作品に出ている姿は想像できないですね」と余計なことを口にしてしまう。だって、舞台に登場した瞬間に最前列にいた子が「誰?」って言ったとき、はせぴはニコッと微笑みかけて台詞を語り出したんですよと言うと、「たしかに」とAさんは妙に納得した様子でいる。「私だったら一旦ハケてしまうかもしれん」。

 ホタルイカ辛味噌和えやたらの芽の天ぷらをツマミに、ホッピーセットを飲む。セットを飲み干したあとは白ワインを飲んだ。Aさんは最近見学したワークショップの話をしてくれた。そのワークショップは、まず自分の部屋のことを説明して、次に別の誰かの部屋のことを説明していくのだという。自分の部屋を説明するときと、別の誰かの部屋のことを説明するときでは大きな違いがあって、その違いというのは「想像すること」だ。ワークショップに参加しているのは大学生だったのだが、その「想像すること」の意味が明瞭にわかったことで感極まった女の子がいて、その姿にAさんも感極まったという。お店に入ったばかりの頃はガラガラだったのに、気づけば満席になっている。2時間半で店を出なければならなくなり、新宿3丁目「F」に移動して23時頃まで飲んだ。