7時過ぎに起きる。雨だ。まずはコーヒーを淹れる。お豆腐屋さんで木綿豆腐を買ってきて、豆腐とネギの味噌汁を作る。朝ごはんを食べたのち、久しぶりに知人を送り出し、『月刊ドライブイン』の原稿を推敲。11時半に原稿が完成し、編集後記を書く。レトロ印刷の締め切りは正午で、ものすごく急げば今日の入稿扱いに間に合わせることもできそうだが、ミスが怖いのと、もう一晩寝かせたいので、入稿は見送る。かけこみサービスを利用すれば、来週18日のトークイベントでの先行販売に間に合わせることができるので、とりあえずはホッとした。

 昼、焼きそばを作る。自宅のお昼はいつもパスタを茹でていたが、「焼きそばなら茹でる必要がないじゃないか」と考えた。もう一つ、昨晩眺めていた『バナナマンのせっかくグルメ!!』という番組でお好み焼きが映し出されていて、身体がソースを欲していた。インターネットに頼りきって、「美味しい焼きそば 作り方」で検索した方法で作ってみたのだが、麺がだるだるになってしまった。14時過ぎにアパートを出て、雨の中を歩き、荻窪「Title」。「手紙」展も今日で5日目だ。湿度が高いせいか、壁に貼った手紙が少したわんでいる。物販のリトルプレスたちを綺麗に並べて、椅子に座って音楽をかけ、誰かがやってくるのを待つ。時々一階に降りて本棚を眺めては二階に戻り、『不忍界隈』の原稿を書き、待つ。

 待っているうちに20時になり、店を後にした。5時間滞在してみたけれど、誰もやってこなかった。僕が在廊することで「わあ! 橋本さんに会える!」とやってくる人がいないことくらいわかっている。それでも会期中にアパートで過ごすのは落ち着かなくて、こうして足を運んでしまうのだが、さすがに誰もやってこないとは思っていなかった。ただゼロ人となればもはや清々しく、改めて言葉を書くとは何か、考える。書かれた言葉は永遠にそこにある。僕が死んだあとも残り続ける。今現在読まれることがなくても、いずれ読まれることがある。だから今この瞬間に読まれなかったとしても落胆する必要はないのだ。それに、道ゆく人の手を引いてきて「読んでくれ!」と言ったところで、そこに書かれた言葉がほんとうに読まれることはないだろう。ただそのときがやってくることを信じて待つことしかできないのだ。それはわかっているのだけれども、では、ここにいる私という容れ物はどうしていればいいのだろうと途方に暮れる。

 何度目かに一階に降りたとき、「こういう静かな日もいいですね」と辻山さんは言った。僕に悪いと思ったのか、すぐに「いいってことはないか」と言い直していたけれど、その言葉を帰り道にも反芻する。お店を構えている方の、待つ、ということに対する構えの大きさを痛感させられたような気がする。中央線で新宿に出て、思い出横丁の「T」、そして新宿3丁目「F」とハシゴ酒。それぞれのお店に「手紙」展のフライヤーを渡し、南北線で帰途につく。いつもと違う地下鉄だったこともあり、酔っ払った頭では道を把握できず、住宅街をいつまでもぐるぐる歩いた。