7時過ぎに起きて、ジョギングに出る。不忍池をぐるり。シャワーを浴びて、ラジオをつけると、「米朝首脳会談、まもなくです」と別所哲也が熱っぽく語っている。サッカーの試合でも始まるみたいだ。午前中は『月刊ドライブイン』(12)の原稿をもう一度読み返す。あいまにテレビをつけてみると、二人が握手する姿が繰り返し映し出されている。若い男は南北首脳会談とは対照的な様子で、緊張している。握手を交わしたあと、年長の男は何かいやなものに触れたような表情を浮かべたように見える。正午までに入稿作業を終える。これですべて終わった。

 自転車で本郷郵便局に出て、郵便物を発送したのち、昼休み中のA・Tさんと待ち合わせ。「万定」に入ってみると、他に誰もお客さんがいなくて驚く。ここと「ルオー」が東大前の二代カレー屋さんだと思っていたのだが、最近は変わってきたのか。カレーライスを注文してふと壁を見ると、「きたなトラン」の賞状がある。番組の影響でお客さんがどっと押し寄せて、普段通っていたお客さんが離れてしまったのだろうか。Aさんが最近広島に出張した話を聞いたり、『不忍界隈』の話をしたり。カレーを食べ終えると、せっかくだからと生ジュースも飲んだ。今度酒を飲みに行きましょうと約束をして、別れる。

 午後も引き続き原稿を書いた。原稿を考えていてストレスが溜まっていたのか、知人が買っていたかっぱえびせんを一気食いしてしまう。夕方になって、締めのひと段落をのぞいて書き終える。気晴らしに谷中ぎんざに出て、酒屋で生ビールを2杯飲んだ。アパートに戻ると、キャベツともやしのナンプラー炒めと鯖のみりん干しを焼き、20時半に帰宅した知人と一緒に食す。書き終えたばかりの『不忍界隈』の知人に読ませる。感想を尋ねると「橋本節って感じやった」と知人が言う。

 23時過ぎ、『群像』に掲載されている川上未映子さんと穂村弘さんの対談を熟読する。ふたりの対談を読みながら、どうして僕は事実の切れ端にこだわってしまうのだろうかと考える。ふたりのようにフィクションに託すのでなく、どうしてノンフィクションなのだろう。そこには一つ、自分も含めた誰かの死を決定的なこととは考えられないという部分がある気がする。この日記を書いている今、「手紙」展の会場にいる。写真に収められた人がもし死んでしまったとしても、その死そのものよりも、こうして永遠に留まり続ける記憶の切れ端を、いつまでも思い出して過ごすばかりで、それがフィクションという形を伴うことはないように思える。その差は一体何によるものなのだろう?