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赤坂BLITZにてZAZEN BOYSを観た。ギラつきを感じた。一つには夏よりもMIYAのベースに獰猛さが増していたこともあるけれど、それだけが理由ではないだろう。本編のラストに演奏されたのは「Sugar Man」で、この曲が収録されているのは12年前にリリースされた『ZAZEN BOYS 3』だけれども、あのアルバムに漂うギラつきを思い出す(このアルバムに収録されている曲で昨日演奏された曲は2曲だけだったにもかかわらず)。ただ、「天狗」の歌詞ではないけれど、あれから12年経って、「君には見えない何かが 見えてきたような 気がする」という境地に向井秀徳がいよいよ到達しつつあるように思える。
ライブの中盤あたりから、このモードであればアンコールで演奏する曲は何になるのだろうと頭の片隅で考えていた。「自問自答」や「kimochi」ではないだろう。「Asobi」はどうだろう、と思っていると本編の終盤で演奏された。他にアンコールで演奏される可能性がある曲は――たとえば『ZAZEN BOYS 3』には「Water front」がある。でも、それでは決してないだろう。そこに12年の移ろいがあるように思える。以前、『HB』というミニコミを創刊したとき、向井さんに原稿依頼をした。そこで書いてもらったのは、上京したばかりの頃のことだ。その書き出しはこうだ。
1997年、俺は福岡シティーの繁華街を、そのきらきらをノロいながらうろついていた。街のKAGAYAKIが俺を照らす。心のなかに闇があったのだろうよ。闇が光に照らされ、浮かび上がってくる度に「ああ…」とためいきをついたりして。
都市のきらきらに照らされ、感傷に浸る。それと同時に、そんな自分を客観的に観ている自分もいる。自分に酔い、そんな自分を傍観者のように眺めながら酒に酔い、都市をさまよう。そうして曲を作っているうちに東京のレコード会社から契約の話があり、東京でライブをすることになった。車で15時間かけて移動しているうちに緊張にまみれ、「街に埋没し、俺の存在が消えてしまうのではないか」と恐怖し、「東京と対決するような心持ちでライブを行った」。ほどなくして上京し、「孤独をさまよう場所として東京があるのだ、と思った」向井さんは、「街のなかで俺はよく酔えた」。
『HB』創刊号を刊行したのは2007年の夏だ。向井さんが上京しておよそ10年が経過した頃のことである。そのテキストを、向井さんはこう締めくくる。
現在、俺は東京シティーの繁華街を、そのきらきらを歩いている。心の闇はいまだ、ある。
ただ、どれだけ強いKAGAYAKIで心の闇が照らされようが、ためいきはつかない。
きらめきを闇に突き刺し、そこから漏れ出す無数の光を束にして、ミラーボールに改造し、俺は俺をきらきらさせるのだ。
この言葉にもぎらつきを感じる。『ZAZEN BOYS 3』がリリースされたのは2006年のことだ。向井さんの歌う「冷凍都市」は必ずしも東京ではないけれど、今『ZAZEN BOYS 3』を聴き返すと、東京に住み始めて10年近くが経ち、その都市にある「きらめきを闇に突き刺し、そこから漏れ出す無数の光を束にして、ミラーボールに改造し」ようとした歌が多いように感じる。そこには「街に埋没してしまうのではないか」という恐れよりも、東京の街で酩酊し続けた男が、東京をつぶさに眺めたはてに生まれた曲たちだという感じがする。だからこそ「ウォーターフロント」であり、そこで歌われる時間は「深夜2.5時」であり、路地に佇む野良猫に自身を重ねることもあった。酩酊しながらも、その目はとても鋭く明瞭で、醒めている。
それから10年近い歳月が流れて、向井秀徳はまた別の境地にたどり着きつつある。昨日のアンコールで演奏されたの「amayadori」だ。この曲が発表されたのも今から10年前ではあるけれど、あまりライブで演奏されてこなかった曲だ。この曲には「降り続く雨、青、イメージの色、実際は黄色、他人から見れば明らかにねずみ色」「野良犬、か、野良猫、か、どっちかの生物、どっちかだった気がする」といったフレーズが登場する。他人から客観的に判断すると、意識がほとんど混濁しているようにさえ思える。野良猫を歌ってきた人が、「野良犬、か、野良猫、か、どっちかの生物、どっちかだった気がする」である(それにしても、どうして10年前にこんな歌詞が書けていたのだろう?)。「他人から見れば明らかにねずみ色」であるのに、「青」「実際は黄色」と語る男の意識もまた、他人からすればほとんど混濁している。同じように雨をテーマとする「感覚的にNG」における主体はもっと明瞭な意識を持っている。地下にあるスタジオで、雨の気配を感じ取り、そこから地上を想像するうちに、感覚的にNGな気分に陥っていく。いかに妄想が膨らもうとも、「俺」という主体は確固たるものとしてそこにある。でも、同じ雨をテーマにしていながらも、「降り続く雨、青、イメージの色、実際は黄色、他人から見れば明らかにねずみ色」と語る男の主体は溶け出している。そこがどこであるのか、今が何時であるのかはもはや不明であり、自己客観なんてものももはやなく、ただ何かを嗅ぎ、何かを幻視する。その嗅覚や視覚は、一般的に言えば「不明瞭」と言われてしまうものかもしれないけれど、かつてのそれよりはるかに強烈で、鋭い。
昨晩のライブで何より印象に残ったのは「暗黒屋」だ。その曲中、向井秀徳はふいに「わっかるかなあ、わっかんねえだろうなあ」と口にした。おお、と思った。数日前に僕は向井さんに浅草に呼ばれ、酒を飲んだ。どうして浅草に。そう尋ねると、木馬亭で松鶴家千とせ師匠を観てきたのだと教えてくれた。「わっかるかなあ、わっかんねえだろうなあ」――そのフレーズにすごくブルースを感じたし、自分がやっていることも「わっかるかなあ、わっかんねえだろうなあ」という言葉に近いように思う、と向井さんは語っていた。その場で肯定すると、ただ話を合わせているようになってしまう気がして、僕は黙って話を聞いていた。でも、昨日のライブを観ていると、向井さんの言っていたことがとてもよくわかったような気がした。そして、今のZAZEN BOYSがアルバムを作れば、これまでとはまったく異なるテイストになるのではないかと妄想し、勝手に期待を膨らませている。