8月18日

 8時過ぎに起きる。まだ万全ではないけれど、復調しつつある感じがする。学校を休んだ翌朝のことが思い出される。シャワーを浴びて洗濯物を干し、『フルーツ宅配便』を最終話まで観る。面白かった。ゲスト出演する女優陣がよく、もっと高画質で観たかった(宅外視聴だとWi-Fiの環境に左右され、途切れ途切れになってしまうので、画質を下げて再生することになる)。昼、界隈を歩き、どのお店を取材しようかと考える。サンライズ那覇にあるタコスとタコライスの店「赤とんぼ」に立ち寄るも、ちょうど挽き肉を切らしたところで、13時まで待って欲しいとのこと。

 13時まで時間を潰すべく、アーケードが張り巡らされている範囲をぐるりと歩く。市場中央通りから「足立屋」に入る路地に、「TENKATSU麻亜蹴都」というお店がある。しばらく前にオープンしたお店で、間口は狭いけれど、ネオンが輝いていて気になっていた。最近はアルバイトの子が試食を呼びかけている姿もよく目にする。気になって立ち寄ってみると、トンカツと天ぷらを掛け合わせた「テンカツ」や、ソーキをフライドチキンのように仕上げた「フライドソーキ」など、初めて目にする商品名が並んでいる。とりあえず「テンカツ」を注文し、揚がるのを待つ。店内には本棚があり、よく見ると『市場界隈』も並べられていた。

 ほどなくして男性が店内に入ってくる。スタッフのようだ。僕がケータイを眺めていると、どうしていらしてくださったんですか、試食してくださったんですか、それともインスタですか、と尋ねられる。聞けばその方がオーナーなのだという。店名の読み方がわからずにいたけれど、「てんかつまーけっと」と読むのだそう。沖縄県民には食べなじみのある食材にアレンジを加えて、新しい沖縄の食を発信するべく、7月26日にここでオープンされたとのこと。テンカツをいただき、次はフライドソーキを食べにきますと伝えてお店をあとにして、「赤とんぼ」でタコライス(大)を食す。店の前に出されたテーブルで食べているあいだ、地元のお客さんがひっきりなしに買ってゆく。隣にあるたこ焼き屋の子も買っていた。この場所で28年続いているお店なのだという。

 宿でしばらく身体を休めたのち、15時、ゆいレール首里に出る。車内で高見順『敗戦日記』を読み始める。1945年1月16日、新橋演舞場菊五郎一座を観た日の記述が目に留まる。

 

 客種がすっかり変っている。菊五郎の踊りをほんとに愛し理解している客は果たして全体のどのくらいか。

 そうした客の前で懸命に踊っている、菊五郎の心事を察した。気の毒だと思った。

 同時に踊りの――舞台芸術の空しさが心にきた。「国宝」と言われているその芸も、観客の空しい記憶のなかに残されるだけで、文学や絵画のように、形として残すことはできない。そのうち、観客の記憶も失われて行く。

 何に支えられて菊五郎は踊っているのだろう。

 いや、なんにも支えられてはいないのだ。そう思いついた。自分の愚かさが反省された。

 芸とはかくの如きものなのだ。空しいところに芸はある。

(略)

 逆に、かような芸の空しさが、羨しくもおもわれてきた。なまじ、あとに残る文字芸術などに従っているものの、空しさにきびしく直面できぬ不幸、空しいきびしさに鍛えられぬ不幸。

 後世に結局残りもしないのに、残るかもしれぬとうぬぼれて何か書いている者の不幸。その醜さが後に残るのに、何か書き散らしている者の不幸。

 だが、

 書け、

 病いのごとく書け。

 菊五郎の踊りを見て、心に誓ったことは、

 かくのごとく、業のごとくに書け。

 

 この記述を目にしたとき、いまさら何を言っているのだろうと思った。これが書かれたのは今から74年前なのだから、「いまさら」も何もないのだけれど、そう思った。舞台芸術の本質が残らないところにあり、現在という瞬間にのみ存在する。それに対し、書かれた言葉というのは現在という瞬間には存在しえず、常に「過去に書かれたもの」として読まれる(逆に言えば、書き手は常に未来の誰かに向かって書く)――それはここ数年、僕がずっと考えてきたことだ。高見順というと「最後の文士」という感じがして、僕には考えつかないような境地にあるのだと(さほど読んだこともないまま)抱いていたけれど、なんだ、近しいことを考えていたのか。ところでこの日記を書いたとき、高見順は何歳だったのだろう。著者紹介を見ると1907年とある。1945から1907を引くと38歳、今の僕とほとんど同い年だ。

 終点の首里駅ゆいレールを降りる。外は小雨が降っている。傘を持ってこなかったことを後悔する。アーケードの下で過ごす時間が長く、天気予報を確認する習慣がなくなってしまっている。雨に濡れながら歩き、首里城の横を通り抜けると、守礼の門に出た。20代の頃にZAZEN BOYSのライブを観に沖縄を訪れたときに立ち寄ったことがあるはずだけれども、こんなに小さかったっけ。観光客も「え、あ、これが守礼の門か」とつぶやいている。首里城は見学せずに通り過ぎて、首里金城町石畳道を目指す。『市場界隈』の取材をするなかで、首里金城町出身だという方に話を聞くことがあった。彼女は戦後10年が経過した年に生まれたが、当時はまだ農地が続くのどかな風景が広がっていたと語っていた。戦前までは王朝時代の面影を残した街並みが残っていたけれど、戦争で焼け野原となり、戦後は農村のようになったのだろう。

 その方に話を聞かせてもらったあとで、Googleマップで「首里金城町」と検索すると、「金城町石畳道」という文字が地図の中にあった。そこにどんな風景が広がっているのか見てみたいと思った。思ったままになっていたのを、今日、ようやく観にきたのである。首里城が復元されたのは1992年、復帰20年の年であり、この石畳道の復元工事が行われたのは1995年のことだという。でも、石畳道を歩いていると、この道は何十年も前からずっとこのようにあり続けてきたのではないかと思えてくる。雨のせいか誰も歩いていなくて、余計にそう感じられたのかもしれない。石畳道の途中に「大アカギ」と看板が出ており、その看板に従って歩いていくと、大木で覆われたぽっかりとした空間に出た。そこに茂っているアカギの木は、樹齢200年を超えるのだと説明書きがある。200年――ということは、首里城や石畳道もめちゃくちゃに破壊されるなか、このアカギは奇跡的に無事だったということになる。

 それにしても、この空間のぽっかりした感じはどこかで見覚えがある。思い返してみると、それは百名ビーチの近くにある御嶽に雰囲気が似ているのだった。百名ビーチには琉球創世の神・アマミキヨが降り立ったとされるヤハラヅカサがあり、そのすぐ近くに、アマミキヨが仮住まいをしたとされる浜川御嶽がある。そこもまた、こんなふうに木々に覆われたなかにぽっかりとした空間が広がっている。周辺に置かれた説明書きをよく読むと、やはりここも拝所であるようだ。村人がこのあたりを通りかかるたびに霊気を感じ、これはただごとではないと王府に願い出て拝所を置き、神々と王府との交流の場とされていた――手書きの看板にそう記されている。

 雨が止む気配はなかった。せっかく体調が回復しつつあるのに、またぶり返すかもしれない。それに鞄の中にある『敗戦日記』も心配だ。文庫本とはいえ、これは1200円以上するのだ。ゆいレールの駅の方向に引き返し、琉球銀行の軒先でしばらく雨宿りをする。16時20分、雨も止んだところで公民館に出かけ、赤田のみるくウンケーを見物する。「大衆食堂ミルク」を取材したときに、「ミルク」とは「弥勒」のことだと教えてもらった。沖縄にはミルク信仰があり、八重山のお祭りにはミルク神がつきものだという。そのミルク様が練り歩くみるくウンケーがあると教えてもらったので、見物にやってきたのだ。会場には紅白の幕が張り巡らされて、提灯がいくつも吊るされており、テントが並び、少しだけ屋台も出ている。お酒は発泡酒だけだというので、金麦を購入していると、公民館からミルク神がお出ましになる。知識として知ってはいたけれど、布袋様のような顔をしている。付き添いの人に支えられながら、ゆっくりと練り歩き、人々に行司の持っているアレみたいなのを振りかざしていく。しばらく広場を歩くと、そのまま路上に出てゆく。町内会の人たち――子供たちも大勢いる――は見慣れない柄の書かれた旗を持って、ミロク様の後ろをついていく。ミロク様はゆっくりと歩く。町内の人は玄関先まで出てきて見物していて、ミロク様はまた、行司が持っていあるアレみたいなのを振りかざしている。

 しばらく眺めたあとで列を離れて、ゆいレールで宿に引き返す。シャワーを浴びて服を着替え、17時半、「うりずん」へ。明るい時間に橋本さんがくるのは珍しいですねと店長さんが言う。たしかに、ここまで330号線を歩いているときにもどこか不思議な感じがしていたのだけれども、それは風景がまだ明るいせいだったのだろう。白百合を飲みながら『敗戦日記』を読んだ。

 

 散歩の途上、牛を見た。いつかの「馬と幼児」を思い出した。鎌倉へ散歩に行ったとき見たのだが、幼児が馬の前に立って、石ころを投げた。馬にぶつけようとしたのだが、力がたりず、石ころは馬の鼻先に転がった。すると馬は、餌でも投げ与えられたかと思ったのだろうか、鼻面を動かして地面を探すのだった。その馬のバカな、人間の信じ方は悲しかった。

 バカなと笑えなかった。その哀れな信頼を笑えなかった。哀れなと憐憫を感じたが、それ以上に何か胸を衝かれた。

 尊くさえ考えられた。馬は幼児の悪戯に欺されたのに過ぎないが、それが事実ではあるが信ずることの尊さが僕の胸にきた。

 人と人とが信じ合い許し合い、国と国とが信じ合い許し合う――そういう時の来るのはいつか。

 

 『敗戦日記』を読んでいると、高見順がおぼこく感じられる箇所があるけれど、2月1位のこの記述もその一つだ。まだ回復しきっていないせいか、あまり酒は進まなかった。白百合の香りもいつもより強烈に感じられて、チビチビ飲んだ。ツマミに注文したアンダンスーも、いつもよりパンチの効いた味に感じらえて、それだけでツマミは足りるほどだった。20時過ぎに店を出る。隣の「謝花酒店」をのぞくとゴン太はいなかった。近くを走り回っているよく似た犬がいたけれど、そちらは近所の人からサクラと呼ばれている。ゴン太はどこにいったのだろう。ヨレヨレした足取りで330号線に出ると、近くの建物の中に動く影が見えた。よくみるとその影はゴン太だった。センサー式ではなくタッチ式の自動ドアなので、出られなくなっていたのだ。建物の中は涼しく、案外居心地が良さそうにしているゴン太に「お前、こんなとこにおったら通報されてしまうで」と話しかけて外に出し、ちゃんと帰るんで、と伝えて帰途につく。しばらく歩いて振り返ると、ゴン太は寝そべって耳を掻いていた。