9月30日

 7時に目を覚ます。最近は知人より早く起きられなかったのに、お酒を飲まなかったせいかスパッとした目覚めで、少し面食らう。酒が抜けていく感じがある。抜けきった爽快感ではなく、昨日は飲まなかったのに、内臓からアルコールが滲み出してくるような感じがする。天日干しされているような気持ち。洗い物をしていると、今日が9月30日「月曜日」であり、ひょっとすると今日から新しい朝ドラなのではと調べてみると、やはりそうだ。急いで録画予約をしたあとで、今期の詳細を調べてみると、「朝ドラの原点に戻る」とあり、戦後という時代と女性の成長を描くドラマになるとある。一気に興味を失いながら、コーヒーを淹れる。

 知人は昨日まで、さいたま新都心で開催されていたパンのイベントでアルバイトをしていて、余ったパンを持ち帰ってきてくれた。パンは2個あり、僕は迷わずパン・オ・ショコラを選んだ。昨年の秋にパリを訪れる前に『アメリ』を観返して、パリでもパン・オ・ショコラを食べた記憶がある。「パン・オ・ショコラが好きなんて、知らんかったけど」と知人が意外そうな顔をする。『アメリ』の中でどんなふうに登場したのかはもはや覚えていないけれど、パンを平らげる。シャワーを浴びて、琉球新報朝日新聞を読んだ。今日は玉城デニーが県知事に当選してから1年であり、東海村の臨界事故から1年だという。東海村の事故のことを「どこか遠い世界の出来事」としてしまったことが福島の事故に繋がってしまったという言葉がある。

 午前中はインプットの時間にしようと、dマガジンで『週刊ポスト』の連載記事もいくつか読んだ。大竹聡さんの連載「酒でも呑むか」は「月見の酒について」。月見酒を楽しむために、保温水筒に燗酒を詰めて予行演習に出かけた話。こういう話は読んでいて楽しいなあ。誰かがひとりで小さな世界を過ごしている話。その愉しみを誰かと共有しようとするのでもなく、ただひとりでやっている感じが、しみじみ「いいなあ」と思う(と同時に、自分がどんな文章を書いていこうかとボンヤリ思い浮かべる)。『男の隠れ家』が「DEEP沖縄」という特集を組んでいるので、これもパラパラとdマガジンでめくるも、『男の隠れ家』という感じだったのですぐに読み終える。

 昼、納豆オクラ豆腐そばを作る。ここ数日は「温」で作っていたけれど、天気予報が東京は30度まで上がると報じていたので、今日は「冷」で作る。午後、パソコンとICレコーダーの中身を整理する。録音しっぱなしになっていたデータたちに、中身がわかるようにタイトルを変えてパソコンに移す。そこに編集者のAさんから電話があり、しばらく前に提案していただいていた『AMKR』での連載が正式に決まったと伝えてくださる。頑張らなければ。ついては一度関西で打ち合わせをという話になり、ちょうど今週末に京都に観劇に行くつもりだった旨を伝えると、「ああ、KYOTO EXPERIMENT?」とすぐに話が通じて、僕なんかが大先輩であるAさんに言うのもおこがましい物言いではあるけれど、さすがだ、と思う。お金がないので、往路は高速バス、復路のみ新幹線のつもりでいたけれど、往復の新幹線代を出してもらえることになり、すごく得した気持ち。高速バスのチケットはもう手配していたので、キャンセルの手続きについて調べる。

 コーヒーを飲みながら、9月22日にF.Yさんのアトリエでオーダー会を取材したときのテープ起こしをして、原稿を考える。16時過ぎ、少し集中力が切れてきたところで、請求書の発行やメールの返信など、事務作業にとりかかる。『月刊ドライブイン』と『不忍界隈』の通販の申し込みがあったのを思い出し、発送手続きもする。ストアーズのサイトから「増税に対応した設定をしてください」と連絡があったことも同時に思い出して、「増税に対応した設定」というのは何クリックかすれば済む話なのだろうけれど、増税にまつわることなんて考えたくないと思って、すべての在庫をゼロにして、実質的に店じまいとする。

 ポストに投函しにいくついでに、スーパーマーケットで買い物。朝から活動しているせいか、まだ外は明るいというのに、ちょっとくたびれている。アパートに戻っても原稿を考えられず、玉ねぎをみじん切りにしたり、筍を細かく切ったり。19時に知人が帰ってきたところで、再び原稿を考える。ある程度道筋を立てておいて、カレー作りに取りかかり、作りながら原稿の流れを思い浮かべる。20時半から「晩酌」。知人はお酒を飲んでいるけれど、僕は今日もソーダにレモンを絞って飲んだ。アルコールだと何かが麻痺して延々飲んでいるけれど、ソーダだと、1リットルを超えると呑むペースが落ち着いてくる。チビチビ炭酸水を舐めながら、それはおしっこの頻度が増すわけだと思う。

 「晩酌」をしながら、『凪のお暇』のラスト3話を一気に観た。ドラマの序盤、高橋一生はどうしてこんな演技になってしまっているのかといぶかしく思っていたけれど、あれにはすべて意味があったのだなと思う。良いドラマだった。と同時に、ここ数十年のドラマが――いや、近代という時代における物語が――描いてきたことは一体何だったのだろうと思う。家と家族の呪縛に追い込まれながらも、そこから自立して生きていこうとする。“家”から独立することや、“家”の崩壊は、ずっと前に描かれたモチーフであり、それが片付いた(かに見えた)からこそ、都市での生活を謳歌するトレンディドラマがあったはずだ。でも、『凪のお暇』で扱われている問題は、片づいたかに思われていた問題ばかりで、この数十年の物語は現実の問題を何も動かせなかったのではという気持ちにもなってしまう。

 これはこの数十年の物語を批判しているわけでも、『凪のお暇』を批判しているわけでもなく、むしろ良い作品がたくさんあると思うけれど、でも、それが現実の生きづらさを改善できずに、『凪のお暇』にしても、『セミオトコ』にしても、根底の尊厳のところにまで立ち返り、「生きてていいんだよ」というメッセージを、登場人物のほぼすべてが「私」の話を聞いてくれる状況を元に描いている。こうした物語を書かなければと作家が思うほど、現実は疲弊しているのだなと思う。繰り返しになるが、『凪のお暇』は良いドラマであったけれど、そこで描かれるのはオルタナティブな時間の可能性であって、オルタナティブということはつまり、本流は何一つ変わらず流れ続けているということでもあり、世界が変わるなんてことは起こるのだろうかなんてことを思う。知人は隣で号泣し続けていて、メガネの下の縁でティッシュを挟んで、いちいち涙を拭かなくていいようにしておいて、ずっと号泣している。