『消しゴム森』を観た

 2月13日、金沢で『消しゴム森』という作品を観た。とても印象深く、この感覚を書き残しておかなければと思っているうちに、もう10日も経っている。このままだと薄れていくばかりなので、作品を観た日とその翌日に、友人に当てて送ったメールを載せておく。

 

2月13日(木)18:29

今日、すごく衝撃的というか、先に『消しゴム山』を観てたからってのは大きいとは思いますけど、あんまりパフォーマンスを追おうとするのでもなくって、すべてを「その場にあるもの」という視点でみることができて(それをみているわたし、という視点も、そのひとつとして)、とても大きな気づきを得た一日でした。なんか、中庭?にある岩のこと、じっと観てました。それは別に、出演者のことは印象に残ってないとかってことではなく、トータルとして、そういうまなざしを得ることができたということなんだろうと思っています。

 

2月14日(金)10:25

今振り返ってみると、美術館という空間だからこそ、感じられたことがたくさんあったように思います。劇場だと、やっぱり、「俳優が動いて発語する姿を観る」という意識が、観客席にはつよく働いてしまうと思うんですよね。美術館に着いて、入り口のところ、一番大きな部屋に入ったときは、「美術館だと、『観る』という意識がより強く働いてしまうから、ちゃんと作品を受け取れるだろうか」と一瞬不安になりましたが、それは余計な心配だったな、と。

美術館に着いて、まず、ぐるりと観てまわっていたとき、彫刻演劇の部屋(かな?)を観て、無造作に置かれているものたちを見て、そこで誰かが何かをやっていた痕跡を目の当たりにしました。その「そこで誰かが何かをやっていた痕跡」という感覚は、劇場では感じることができないものだなと思いました(思えば、美術館に展示されているものはすべて、過去に誰かが何かをやっていた痕跡ですね)。

その上で、映像の中で青柳さんが時間について語っている部屋を見ると、こうして「過去に誰かが何かをやっていたのだ」と時間という概念を交えて想像すること自体が、人間であるわたしたちがとらわれてしまっている(逃れられずにいる)ものなのだな、と。あるいは、あれは何の部屋だったか、クッションみたいなソファがごろんといくつも並べられて、部屋の角に映像が映し出されているところ、あそこで壁の二面に映し出される映像を眺めていると、左の壁と右の壁の映像に、なにかつながりを見出そうとしている自分に気づきました。それは、彫刻演劇の部屋の、二枚のスクリーンを見ていたときにも感じたことです。そこにはただ星の羅列があるだけなのに、それを線で結んで星座を見出そうとしてしまう、というか。

でも、何周も、ぐるぐる回っていると、ものたちがただものたちとしてそこにある、という世界の中に自分が入り込んでいくような感覚がありました。いわゆるホワイトキューブという場所だからかもしれませんが、ここの外側にある世界――いろんな出来事に満ちていて、時間が刻々と刻まれ続けて、常に何かが起こり続けている世界――から切り離された場所にしずんでいるような感覚になったのです。それが岡田さんの演出によるものなのか、金氏さんが設計した空間によるものなのかはわかりませんが、そんな感覚になったのは初めてかもしれません。「半透明」ということについて、俳優ではない僕はよくわかっていないけど、もしかしたらこれは、観客なりの「半透明」な感覚なのかもしれないなと思いました。

そういう感覚でいると、自分も観客のひとりであるにもかかわらず、あの場を訪れていた観客たちのことが、スクリーンの向こう側の存在であるように思えてきました。フロアマップを手に、「これで全部の部屋を見れたね」と言って出口に戻っていく人や、皆さんのパフォーマンスを追ってぞろぞろ移動していく観客の姿というのは、なにか向こう岸の存在であるように思えました(「人間中心主義の先にある演劇」と宣言している作品なのに、どうしてそんなふうに観るんだろうと思う気持ちもあるけど、そういう感情とは別の感覚として、向こう岸にいる人たちであるように思えたのです)。でも、そうやって皆が移動していってくれるおかげで、さっきまでパフォーマンスが行われていた展示室には誰もいなくなって、そこにあり続けるものたちの姿を見つめることができたのは、すごく印象深い時間でした。

そうやって過ごしているうちに、ふと、中庭にある作品が目に止まりました。バックミラーや、管がくっついている岩です。その中庭には入ることができなくて、ガラスで区切られた向こうの空間に、ただ佇んでいるその作品をずーーっと眺めていると、すごく膨大な時間の中にいるように感じました。

前に「たたずむ」という企画をやりたいと話したことがあったかと思います。街角に椅子を出してただ座っている、海辺に椅子を出してただ海を眺めている――そんな人たちに取材をして、その人たちが何を「みる」作業をしているのか、取材してみたい、と。そうやって佇んでいる人たちはきっと、風景に何かを見出してやろうとするのではなく、ただそこにある風景をみているのだと思います。そういった時間に近い、何かこう、ただまなざす、という感覚がありました。その瞬間に、うまく言葉にはできないけれど、この「消しゴム森」という作品からとても大きな気づきを得たような気がしたのでした。

そこから普段の生活に戻った今、日本各地にある岩をめぐる取材がしたいなと思っているくらいです。岩というのは、ただそこにあるだけなのに、それを人間が長い時間かけてまなざして、そこに何かを見出したり、時には信仰の対象になり、時には民話の起源となり。あるいは、それこそ能や民話では、人の強い思いが石になる、という話はよくあることで、そういう石や岩をめぐり、そのいわれを紐解いていくと面白そうだな、と。

なんか全然感想になってないけど、昨日頭をよぎっていたのはこんなことでした。

 

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