3月9日

 6時に目をさます。宿には男性用のシャワールームがひとつしかなく、タイミングを逃し続けて宿を出るのが遅くなってしまったので、今日は早めに浴びておく。少し原稿を書き、9時過ぎにチェックアウト。大きな荷物は預かってもらって、散歩に出る。まずは「ドニエ」という喫茶店に入り、サンドイッチのモーニングセット。店内には地元のおっちゃんやおばちゃんたちでほとんど満席で、お客さん同士が言葉を交わしている。よそいきの格好というより、普段着のまま、買い物のついでに立ち寄ったような佇まいだ。食べ終えると早めに店を出て、近くのバス停を探して坂バスに乗り、摩耶ケーブル下のバス停で下車する。昨日、nさんが摩耶ケーブルに乗車できるチケットを「乗らなくてもいいから」とプレゼントしてくださり、展望台まで登ってみることにしたのだ。

 ここから「掬星台」という展望台まで、まずはケーブルカーで登ってゆく。停まっていたのは赤色のケーブルカーで、緑色の“グリーン車”がくるまで待とうかと思ったけれど、復路に期待することにして赤色に乗り込んだ。平日、それも月曜の朝だから誰もいないかと思いきや、ケーブルカーはそれなりの乗車率だ。山を上がり、ロープウェーに乗り換える。乗り換えにしばらく時間があり、駅舎に貼ってある「まやビューライン年表」を見る。麻耶ケーブルの開業は1925年だというから、もうじき創業100年だ。こういう年表を見ていると、「戦前の観光産業でいうと……」と時代背景のことばかり考えようとしてしまう。一旦それは抜きにして、年表を眺めていく。麻耶ケーブルは昭和19年、軍事転用のために施設が撤去され、運行を停止する。再開されたのは昭和30年で、その年にロープウェーも開通したらしかった。

 その後、震災で運休となり、2001年に再開されたというロープウェーに揺られ、展望台まで登ってゆく。上からの景色は、想像していたよりずっと上からの眺望で、町並みがずっと遠くに見える。誰かがエーデルワイスを歌い続けているのを聴きながら、しばらく景色を眺める。景色を一望できるカフェに入り、これもnさんにプレゼントされた500円ぶんの飲食券を使って、瓶ビールを注文する。カウンター席に座り、パソコンを広げて仕事をするつもりだったが、どうしたって景色ばかり眺めてしまう。1時間ほど過ごして、下山前にあたりを散策していると、nさんとばったり出くわす。昨日も山に登っていたと聞いていたので、山の上で会いするとは思っても見なかった。昨日に比べると霞んでますけど、でも、よお見えてますよ。橋本さん、これ、この季節しか見れへんやつですよ。棚霞ゆうて、ほら、向こうの陸地が霧で霞んで、雲の上に陸地が浮いてるみたいでしょう。nさんがそう教えてくれる。僕が上がってきたばかりの頃は霞んでいなかったのに、いつのまにか向こう岸はすっかり霞んでいる。降りる前に何かお土産でもと物色していると、摩耶観光ホテルのルームキーを模したキーホルダーが販売されていた。そこに「201」号室のものがあり、僕が住んでいるのは201号室なので、買い求める。これから摩耶観光ホテル暮らしになる。

 まやビューラインを下り、坂バスを使って畑原市場を目指す。13時に、今日も「寿し豊」の暖簾をくぐる。ここで稼いだお金は少しでもここに返していこうと、普段はあまり思わないような気持ちになり、今日は上にぎりセットを頼んだ。熱燗も、今日は2合つけてもらう。上にぎりセットは2貫ぐらいずつ握って出してくれる。最後は鉄火巻きだった。昨日食べた梅とシソの細巻きが恋しくなり、追加でそれも出してもらう。すっかり満足したところで、麻耶駅から元町に出る。南京町は案外若者で溢れている。角の高級そうなパン屋に10人くらい列を作っている。「1003」は開いていなかったけれど、入り口に僕が書いた『ごろごろ、神戸。』の書評を貼ってくれているのを見て、嬉しくなる。すごすごと引き返すと、パン屋の行列は倍に伸びている。

 しばらく前に、同じように書評が貼られていた場所があったことを思い出す。再び山陽本線に揺られ、神戸に出て、14時過ぎ、「NKHT商店」のあたりを目指す。しばらく時間が経ったこともあり、さすがに書評は貼られていなかった。「NKHT商店」は混んでいた。焼き台の前には若い二人組が座っており、飲み食いを終えたままずっとそこで話し込んでいる。こういう風景に出くわすたびに、「この客より先に飲み食いを終えて店を出てやる」と、誰に頼まれたわけでもないのに思ってしまうのはなぜだろう。あとからやってきた常連とおぼしきお客さんが、「あんまりうろうろできんようになってきたなあ」と言う。店主の方が「ウィルス、見えたらええんやけどなあ」と返す。「ほんまやな。サングラスかけたら見えるようになったりせえへんかな」と常連客が笑っている。

 灘の宿で荷物を引き取り、京都を目指す。駅前のホテルにチェックインして、原稿を書く。京都でひとりで飲みにいく店といえば、いつも決まって「AKGK屋」だ。ただ、前回足を運んだときに憮然とした思いをして、それに対して店員さんに異議申し立てをしてしまったことが思い出される。どうしようかなあ、気まずいなあと思いながらも、21時、「AKGK屋」の暖簾をくぐると、僕の顔を見るなりマスターが「こないだはすんませんでした」と言う。やっぱり気まずいなあと思いながらも、熱燗を注文し、おでんを平らげる。