3月17日

 セブンイレブンで、今日はピリ辛トマトのソースとサラミのなんとかを買ってくる。今日は朝からもう夏みたいな陽射しだが、アイスコーヒーではなく、名残惜しくてホットコーヒーを選んだ。もぐもぐ食べながら、新聞を読む。新聞は新聞でもH.Kさんの「HIMN新聞」である。そこに、一緒に「栄食堂」に出かけたときのことが書かれていた。そこで店員さんが口にした言葉はとても印象深かったのに、日記に書くのを忘れていた。そして、H.Kさんの描写を読んで、一緒に過ごした誰かが書く日記を読むのはとても面白いなと改めて感じる。それは、「記憶」と「記録」は別物だからだ。

 あの日、「栄食堂」で3人とも肉吸いを頼んだ。お店に入ってすぐ、お店のキッチン側に貼られたメニューを眺めながら、焼きめしにしとこかなと思っていたところに、H.Kさんが肉吸いもあるのだと教えてくれて、振り返るとそこにもメニューが貼られており、肉吸いスペシャル、肉吸い卵入り、肉吸いがあるらしかった。僕とH.Kさんが肉吸いスペシャル(卵と豆腐が入ったやつ)を、Eさんが普通の肉吸いを頼んだ。ほどなくして肉吸いが運ばれてくる。お店のお姉さんはお盆をテーブルに置き、あれ、どれがスペシャルやったっけと器を見比べる。これが普通のやんね、と言いながらも、なおもお姉さんは器を見比べていると、Eさんがお盆に手を伸ばし、自分で器を受け取ろうとした。その瞬間にお姉さんは、ええのええの、こっちでやるからと制止して、「嫁入り前やのに、火傷したら大変やわ」と笑った。

 僕は「嫁入り前」という言葉にそれほど強く反応したわけでもなかったけれど、なんとなく頭の片隅に残った。それを、店を出て動物園を歩いていたところで、H.Kさんが「自分、『嫁入り前やのに』って、今まで言われたことある?」とEさんに問うた。今ではほとんど発語されることがなくなったその言葉が気になるらしく、H.Kさんは何度か「嫁入り前」と繰り返した。その出来事が深く記憶され、10日ほど経った今、「HIMN新聞」では「箱入り娘」という言葉になっていた。それはとても鮮やかな記憶だと思った。こまかなことをねちねち指摘しているのだと誤解されるかもしれないが、そんなつもりはまったくなくて、ほんとうに鮮やかだなと感じたのだ。「嫁入り前」という言葉が「箱入り娘」となったのは、「HIMN新聞」にもあるように、『細雪』に登場するふとした言葉がきっかけだったのだろう。坪内さんは、いい加減な記憶違いには厳しかったけれど、誤記憶を大切にする人だったことを思い出す。「嫁入り前」が「箱入り娘」になっていく、記憶が別の記憶と繋がって言葉が広がっていく経過を目の当たりにしたようで、朝からなんだか興奮してしまう。

 Y新聞のサイトにはもう予告が出ているけれど、『あいたくて ききたくて 旅にでる』の書評をようやく書き始める。真っ白な表紙と、タイトルが気になって(「旅」とあると無条件に気になってしまう、旅が好きだからではなく、「旅」がどう位置付けられているのかが気になる)手に取ったのはいつだっただろう。自分が手に取るより先に、仙台に暮らす誰かがSNSで紹介しているのを目にしていたような気もする。『あいたくて ききたくて 旅にでる』は、35歳のときから民話を採訪してこられた小野和子さんの本だ。書評は文字数が限られているのでそこに触れられないけれど、序盤に出てくる、話を聞かせてもらう相手に対する線の引き方が面白かった。

 

「友だち」――明子さんとわたしのつながりを、いまこういうふうに書いたけれど、口当たりよく、こんな言葉を使うと、明子さんはひどくこだわってくる。そのこだわり方にきりきり舞いさせられながらも、それを通して、「土着」ということの意味を教えられてきたと思う。 

 

「たとえば、こんなふうにである」と話は続く。明子さんから電話がかかってきて、沢庵漬けにする大根を干しているから、あんたのぶんも干しておこうかと尋ねられる。ぜひ、だけどお金を払わせてねと小野さんが返すと、「あんた、おれの味方なのか、友だちなのか?」と明子さんが声を荒げる。あるものを分けて食う仲間が「味方」であり、お金を払うなんて言い出すのは、線を引いて付き合う「友だち」だ、と。体良く民話の採訪を進めようとする人であれば、「すいません、ご馳走になります」といって穏やかな関係を保とうとするだろう。でも小野さんは、「ええ。いいわよ。友だちで結構よ」と突っ張る。そこが面白かったし、わかる、と思った。

 語り手と聞き手の関係について、本の中で何度か触れられている。たとえば、第五話「はるさんのクロカゲ」。

 

 そういうときの語り手の表情に、なんとも言えない浄化されたうつくしさを感ずることがある。そこには、突然の乱入者であるにもかかわらず、「聴く耳」を信じようとする意志に支えられた驚くほど単刀直入な自己解放があるのだ。こういう意味で、語り継ぎの場は、「山を越えて」「街へ出て」語りを聞こうとする意志に支えられた聞き手と、語ろうとする語り手との、対等なぶつかり合いの場だと言ってよいのかもしれない。

 

 僕はまだ、誰かに話を聞かせてもらっている時間のことを、「対等なぶつかり合いの場」とまでは思えていない。ただ、場合によっては余計なことだと受け止められてしまうようなことをやっていると思うばかりで、「話を聞く」ということをここまで肯定的にとらえることはできずにいる。小野さんは半世紀にわたって採訪を続けてこられた方だ。半世紀後、自分がもし生きていたら、自分の仕事をどんなふうに振り返るだろう。

 この本について、対象へのアプローチの真摯さを褒めるのは適切ではないと思う。本来すべてがこうあるべきなのに、そうでないアプローチが世の中に存在していることが間違っているのだ。僕が感銘を受けたのは、たったひとりで採訪を始めながらも、「世間にはわたしのやっていることはわかってもらえないだろう」と背を向けるのでなく、採訪を始めて6年目の段階で「みやぎ民話の会」を立ち上げられていることだ。それは1975年、東北自動車道が開通した年だと巻末の年表にある。道路が開通すれば生活が変わる(本の中で語られる「山道」と「大道」の違いは印象深い)。高速道路が開通して「民話」が途絶えてしまう前にと、仲間を集めて組織を立ち上げたことに、なにより頭が下がる。

 お昼頃になって書評を完成させて、メールで送信。宿を出て、栄町市場まで歩く。これまで夜にばかり栄町市場に足を運んできたけれど、ここは「市場」である。昼の姿も見ておかなければと、歩いてまわる。ぐるぐる歩いて、「コツコツ」というスタンドでお昼ごはん。今日の日替わりランチはポーク玉子と味噌汁だ。味噌汁はかなりのボリュームで、そうめんまで入っている。食事を終えると、おもろまちまで足を伸ばし、「球陽堂書房」(メインプレイス店)をのぞく。ひとしきり棚を見て、隣のタリーズに入る。朝は「名残惜しい」なんて思っていたくせに、アイスコーヒーを頼んだ。パソコンを広げ、先日京都で取材した原稿を書こうと思ってみると、テープ起こしのデータが入っていなかった。テープ起こしはウィンドウズの小さなパソコンで(小さいと手を動かす範囲が狭くて済むので作業が楽)、原稿はMacBook Airで書いているから、たまにこういうことが起きてしまう。

 宿の近くまで引き返し、取材させてもらった衣料品店をのぞく。昨日、Uさんと話したときに、「Eさんが橋本さんに会いたがってましたよ」と言われていたのだ。僕の顔を見るなり、Eさんはパッと顔をほころばせ、ずっと会いたかったんです、ここ、どうぞと椅子を出してくれる。これをね、渡そうと思って。ずっと持ち歩いてたから、封筒が汚くなっちゃって、一回取り替えたの。これ、ラブレター。開けてみて。そう促されて中を確認すると、手紙と1万円札が入っている。こちらだけ受け取りますとお金を返そうとすると、いやいや、これを受け取ってもらわないととずっと思っていたんですとEさんは頑なに言う。

 Eさんに話を聞かせてもらったあと、原稿を書き、担当してもらっている記者の方にお店まで原稿確認に行ってもらった。話を聞いた僕ではなくて、いきなり新聞記者が訪ねてきたことにEさんは驚いたのだろう、取材はなかったことにして欲しいとおっしゃったそうだ。そのとき、僕は中国にいてEさんに電話をかけることもできず、連載は休載となった。翌月、あらためて僕がお店に伺って、お話しして、翌月の誌面に掲載させてもらえることになった。記事が出てみると、古くからのお客さんや同級生からも「読んだよ」と連絡があったそうで、Eさんも喜んでくださった。そのお礼と、一回断ってしまったことを申し訳なく思っている気持ちがあるらしく、これだけは受け取ってくれとEさんが言う。僕はそれを受け取って、そのお金でEさんのお店で売られているシャツを買った。