4月3日

 5時過ぎに目を覚ます。ケータイを手にとると、回線が止まっていることに気づく。そういえば督促のハガキがきていたのを忘れていた。ようやく明るくなり始めた町を歩き、セブンイレブンで支払いを済ませる。こんな時間だからか、回線はすぐには復旧しなかった。テレビではテニスプレイヤーがフライパンでテニスをしたり、フィギュアスケート選手がチワワと一緒にトレーニングしたりする動画が紹介される。明るい気持ちにはなれなかった。他にも、「まだ感染者の出ていない」鳥取県では、県庁で「鳥取型オフィスシステム」として、段ボールを立てて仕切りを拵えて、あいだにゴミ袋やラップを張って感染予防をしていると報じられている。そこが県庁であることを考えると、「創意工夫で乗り越えよう!」というスタンスに対して、しらけたような気持ちになる。

 いつのまにか眠っていて、気づけば9時だ。コーヒーを淹れて、知人を見送り、浴槽に湯を張る。『わが荷風』をちびちび読みながら入浴。昼、納豆オクラ豆腐そば。前は100グラムで一束になったものを使っていたが、今は知人の実家から送られてきた1キロ入りのそばを食べていて、一食あたり150グラム茹でている。これだと満足感が大きいけれど、食べたあとに眠くなってしまう。気づかないふりをしてきたけれど、腹が出てきたような気もしている。

 LINEの通知が届く。琉球新報の速報として、「沖縄県職員がコロナ感染/知事ら健康観察へ」とある。タップして記事を読んでみると、3日午前にコロナの陽性が確認されたふたりの男性のうち、「一人は県職員であることがわかった」とある。記事が重点を置いているのはこちらのほうで、「20代の県職員は県民との接触は確認されていない」こと、「県は知事を含め本庁職員の14日間の経過観察を行うことを決めた」というのがメインに扱われている。僕が釘付けになったのはもうひとりのほうで、「30代の東京都の男性で現在那覇滞在中」とある。わたしがそこにいる、と錯覚する。「職業や行動歴、接触歴は那覇市保健所が調査している」とあるけれど、彼は一体、どうして那覇にいたのだろう。

 沖縄行きの飛行機の値段を調べる。画面を予約に進めて、月曜の便の空席状況を確認する。現時点では10数席しか埋まっていないようだ。そういえば『市場界隈』は沖縄書店大賞の候補作になっており、大賞は「3月下旬から4月上旬に発表」となっていた。昨年は4月4日に授賞作が発表され、同じ日に授賞式も開催されている。今年はいつ発表されるのだろう――と、まだ連絡がきてない段階で賞は獲れなかったのだろうけれど、「授賞式に呼ばれたら、タダで沖縄に行ける」と考えてしまう。そして、去年の授賞式には県知事の姿もあったことを思い出す。もしそうして会う機会があれば、「那覇でも上演される『cocoon』という演劇を観てください」と伝えようと、そのことだけは決めている。まあでも、沖縄部門で大賞をとるのはきっと『沖縄島建築』か、そうでなければ『ヤンキーと地元』だろう。

 午後は寝転がって『わが荷風』を読んだ。呼吸をするとき、少しだけ喉の通りが悪い気がする。もしも外出できなくなったとして、食料品はある程度なんとかなるとして、困るのはきっと酒だ。ちょうどキンミヤ焼酎の2Lパックがなくなりかけていることもあり、カクヤスのサイトを開き、2Lパックの6本セットを注文してしまう。

 昨日の夜にカネコアヤノさんのルポ後編が公開され、そのことをツイートしたこともあり、今日は通知がよく届く。パッと確認すると、「ザゼンの次はカネコアヤノか あいかわらずのコバンザメライター」と、僕のツイートを引用リツイートしているのが目に入った。そうつぶやいた人間が最大限の不幸に見舞われるようにしてやろうかと毛穴が開く。なにかあるたびに、いつだかリリーさんに「筆が汚れるからやめなさい」と、その当時僕がやっていた仕事をやめるように諭されたことを思い出す。しかし、「コバンザメ」とはどういうことだろう。ZAZEN BOYSについて書くことで原稿料をもらったことは一度もなく、勝手に観に行っているだけだ。『厚岸のおかず』は僕が構成として入り、原稿料を得たけれど、何度となくツアーを追ったことを考えれば、収支としては圧倒的にマイナスだ。今回のルポにしても、ライブはタダで見せてもらっているけれど、交通費と宿泊費はすべて自分で払っているので、ウェブ記事では回収できる額では到底ない。そうやって真正面から考える必要のないことだとは思うけれど、ずっと考えてしまう。

 考えるだけ無駄なので、頭を空にしようと、夜はキーマカレーを作ることにする。近くの肉屋で豚の挽肉を、八百屋で玉ねぎとトマトとたけのこを買ってくる。いざ調理にとりかかろうとトマトをパックから取り出すと、裏側にカビが生えていてげんなりする。すぐに八百屋に戻り、取り替えてもらう。無心でキーマカレーを作り終えた頃に知人が帰ってきて、晩酌。昨晩の『勇者ああああ』の「野田フレンドリーパーク」を大笑いしながら観てしまうと、他に観たい録画が見当たらず、ドキュメンタリーを録画し続けているほうのブルーレイレコーダーを起動して、萩本欽一を追う『プロフェッショナル 仕事の流儀』を観た。どこにも笑えるところはなかった。若い踊りの先生の技術に頼り切り、無茶振りをするだけして「笑い」めいたものを起こしたことにしている舞台の映像にゾッとする。番組の冒頭あたりで、自分が死んだとき、昔の映像が流れて懐かしがられるのではなく、欽ちゃんって最近もこんなに面白いことやってたんだと思われたいのだと語っていた。昔のように身体に自由がきかなくなり、舞台に立てなくなることもしんどいことだが、年老いても舞台に立ててしまうのもしんどいことだ。もちろん老いが円熟となる場合もあるだろうけれど――と、そう書いている僕はまだ、老いのことを少しも理解できずにいる。『わが荷風』で読んだ一説が鮮やかによみがえってくる。『濹東綺譚』のことを「見聞記だなどとのんきなことを考える人は、老いの自覚がもたらす寂寥感を知らないのだろう」と、63歳の野口冨士男が記していた。『プロフェッショナル 仕事の流儀』を観終えると、YouTubeコント55号の映像を観て、その流れで『8時だョ!全員集合』や『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』の映像を新鮮な気持ちで眺める。

 思い出されたこと。

 3月8日、缶ビール片手に海を眺めていたとき、H.Kさんが「東京にいたときはわざわざ千円以上出して海を観に行っていた」と口にした。Hさんと同様、僕も海から遠く離れた町に生まれ育って、海に対するあこがれ(とはHさんは言っていなかったけれど)がある。でも、なぜか僕はわざわざ海に出かけたことがほとんどなかった。ただ、Hさんの言葉を聴いた瞬間に、青春18きっぷで移動するときのことが思い出された。東海道線で移動していると、熱海あたりで海が見えてきて、(これから長旅が待っているにもかかわらず)浮かれた気持ちになる――と。Hさんはその話に同意してくれて、僕が漫然と「熱海あたり」と言ったのに対して、もっと具体的にその風景を語っていた。

 海を見下ろせる公園まで歩き、ベンチから海を眺めていたところで、自分らは海の近くで育ったから当たり前やと思ってるかもしらんけどな、とHさんがEさんに切り出した。Eさんが生まれ育ったAという町は海の近くであるらしかった(と、あとでGoogleマップを確認して知った)。Hさんの質問に対して、Eさんは、中学校だか高校だかに上がる頃にKに引っ越したから、海から遠のいたと切り出した。いや、Kだって海まで近いやろとHさんが言い返すと、Eさんはしばらく考えて、奈良に行った同級生が「海があるところに帰りたい」と愚痴っているというエピソードを聞かせてくれた。

 その日は口にしなかったけれど、僕にとって海は少しおそろしい場所だ。海辺を歩いていると、結構な確率で燃えて真っ黒になった木材を見かける。それだけで妙におそろしくなる。人為的なことを抜きにしても、ひとりきりで海にいると、もしも突然高波がやってきて海に飲み込まれたら、誰にも気づかれないままになってしまうと、おそろしくなる。これは別に、「海から遠い土地で育ったから」ということではない。僕は山に囲まれた町で育ったけれど、山に対しても同じようなおそろしさがある。ただ、山に囲まれた風景をみると親近感を抱くことがある。山が見えないだだっ広い土地に行くと、どこか不安になるのだけれど、山で縁取られた風景の中にいると妙に安心する。