4月23日

 7時過ぎに起きる。ジョギングに出ようかと悩んで、やっぱりやめておく。これは個人的な感覚に過ぎないけれど、ジョギングに出ることにも抵抗をおぼえるようになった。ぼくは息が切れるようなペースでは走っておらず、口も閉じて、人の近くは走らないようにしているけれど、それでも「マスクせずに走るなんて!」と、直接声をかけられる段階に入ったような気がする。あるいは、そうやってぽさぽさ走っているときに、息を切らせながら隣を追い抜いてゆく人がいると、ぎょっとしてしまう。山中教授が紹介していたという「Buff」というアイテムを購入して、口元を覆いながらジョギングしようかとも思ったけれど、アメリカの公式サイトに「ウイルス・疾患・病気に感染、もしくは拡散することを防ぐことは科学的に証明されていません」と書かれていると知り、ただの気休めやんな、と思って立ち止まる。

 コーヒーを淹れて、「ベーカリーミウラ」の食パンを焼く。6枚切りを買ったので、最後の2枚だ。そのうちの1枚は端っこである。目を覚ましたときから、知人とぼく、どちらが端っこを食べることになるだろうと、頭の片隅で考えていた。ぼくから「どっち食う?」と聞けば、知人は「どっちでもいい」と言うだろう。いつもそういうやりとりになるので、知人が端っこを食べることになる。今日は特に聞かないままパンを焼く。焼き上がったパンを台に置くと、「どっち食べる?」と知人が訊ねてくる。どっちでも、と答えると、じゃあ私は白いほうと知人が言う。いつも端っこは知人が食べてきたけれど、「端っこが好き」という人はやっぱり少数派なのだろう。

 昨日に引き続き、写真を探す。昨日、ハードディスクを漁っているときに見かけた旧知の人たちの写真を、本人に送ろうと思い立ったのだ。今は仕事以外でカメラを持ち歩くことすら少なくなってしまったけれど、今よりずっと、誰かにカメラを向けている。たぶんきっと「残しておかないと」と思っていたのだろう。10年くらいまえの写真を見ていると、当たり前だが、そこに写っている人たちは今よりずっと若い姿だ。ぼくよりひとまわり上だった人たちなのに、今のぼくと同じくらいの年齢だ。不思議な感じがする。カメラを向けることに、昔よりずっと抵抗をおぼえるようになってしまっているけれど、それでも撮っておかなければと思う。

 昼は納豆オクラ豆腐そばを食す。午後は寝転がって、坪内さんの『靖国』を読んだ。しばらく読み進めては、アプリでマリオカートをやる。最近は、たとえばシャンプーをしながら目を瞑っているとき、コースがふいに浮かんでくる。あのダッシュ板を踏まなければ、あのジャンプ台を飛ばなければと、頭の中でドリフトする。こうなってくると重症だ。ずっと昔、空想の中でボンバーマンをやり、爆弾を連鎖させるところを思い浮かべながら歩いた日を思い出す。

 夕方、『news every.』を監視する。都知事による記者会見が中継される。総理大臣と比べると、ずっとまともに見えてしまう(書いていて思い出したが、この日の放送では総理大臣の姿を見なかった)。たとえばこの場面。「ちなみに本日の感染者数でありますが、合計しまして134名、えー、亡くなった方がそのうち、6名でございまして」と、都知事が記者に語る。そこで一度立ち止まり、「そのうちではないですね」と訂正する。「亡くなった方は6名でありまして、そのうち、女優の岡江久美子さんも含まれていると、いう、とても残念な、知らせで、ございます」。岡江久美子のことを語ろうと決めていて、「そのうち」と使おうと思っていたのが、先に出てしまったのだろう。しかし、彼女は自分が何を言っているかわかっているから、きちんと立ち止まり、言い直す。「自分が何を言っているかわかっているから」と、そんな当たり前のことを書いてしまう世界にいる。

 それにしても、この状況の中で、都知事は奮い立っている。これは褒めているわけでも貶しているわけでもなく、奮い立っているのが画面越しにも伝わってくる。こうした緊急事態においてリーダーシップを発揮することに興奮している気配が漂っている。繰り返しになるが、貶めているわけではなく、そういうタイプの人間でなければ政治家は務まらないだろう。本質的にポピュリストだなとも思う。自分の発言が、政策が、どのように受容されながら広まってゆくかをよく見極めている。「コロナ対策いろはかるたを」と言い出したときには、なんやそれ、と思わずつぶやいてしまったけれど、人を巻き込まなければならない状況を、そしてどうすれば人びとに意識づけさせられるかを、意識している。もちろんいかにも政治的・行政的な発想ではあるけれど、ここ数十年の政治の動向をきちんと踏まえたものだなと思う。たとえば裁判員裁判制度も、「市民の声を司法に反映させる」という大義名分を掲げてはいるけれど、あれは「市民」として政治への参加意識を持たせるために始まったものだ。そのように、人びとに意識づけをさせるために「動員」するという流れが、そこにはある(それを肯定的に捉えるか否かは別問題として)。

 脱力するニュースもあった。湯河原駅前にあるエレベーターに、先月から綿棒が設置され、「ボタンを押すときにご利用ください」というメッセージが添えられているという。これを設置した湯河原町環境課の課長が電話取材に応じ、「中国のテレビの映像で、つまようじのエレベーターのボタンを押すシーンを見て、綿棒を設置することにした」と語っている。頭を抱えてしまう。いかにも行政的だとも言えるけれど、性善説に依り過ぎている。中国のその映像は、マンションのエレベーター内の話だ。それに触れる可能性があるのは、基本的には同じマンションに住む人間に限られている。それと違って、駅前のエレベーターは誰が触るかわからないものだ。もしも「こんな社会なんて滅んでしまえ」と思っている人がいれば、そこに何かをひっそり塗りつけておくだろうに、そんな気持ちで過ごしている誰かのことはまったく想定されていなかった。

 16時14分、藤井貴彦が語り出す。「えー、この週末、外出を考えていらっしゃる方もいるかもしれませんが、特に買い物に対するマナーが求められています。どうぞ少人数で、距離をとって、回数を減らしてください。もちろん、お客様は神様ですから、生活を支えてくれる店員さんにも、神対応でお願いします」。この映像を、帰宅した知人にも見せておく。チューハイで乾杯して、録画しておいた昨日の『クローズアップ現代』(特集「“イベント自粛”の波紋 文化を守れるか」を観る。眺めながら、これはもう、焼け野原になるんだろうねとつぶやく。それはなるやろ、と知人が言う。でも、焼け野原からどうやってまた立ち上げるんよ、と。

 答えはなく、立ち上がってキッチンに行き、チューハイのお代わりを作る。グラスに氷を入れていると、知人もキッチンにやってきて、グラスを差し出してくる。そこに氷をちょっとだけ入れてあげると、「ちょっと、なんでそんな、肝油くれるときみたいにするんよ」と知人が言う。か、肝油? 肝油なんてもう少し上の世代までじゃなかったと聞き返すと、小学校のときに配られていたという。肝油が配られるときは、こうやって。知人は両手を揃えて差し出し、頭を下げる。「おいしい肝油、いただきます!」と言いながら両手を口に近づけ、架空の肝油を飲み込んだ。