4月27日

 7時半に起きて、ゴミを出す。今日は燃えるゴミの日。先週の木曜に出しそびれてしまって、玄関はずっと、袋留めクリップで閉じたゴミ袋が置かれていた(普通に口を縛っておくだけだと、虫が湧くのではと不安になり、袋留めクリップで閉じておいた)。今日こそはときっちり出すと、玄関がずいぶんすっきりして見える。もしもゴミの収集も行われなくなったらと少し想像しかけて止める。コーヒーを淹れて、炊飯器のスイッチを押す。炊き上がったところで、たまごかけごはんにして食べる。昨日のYahooニュースを確認すると、「炎上したらタイトル修正してるのダサい」とコメントがついており、胸がぎゅうっとなって画面を閉じる。

 午前中は、東京に路面電車が整備されていく過程をつぶさに調べる。昨日からずっと調べているのだが、すごく丁寧にまとめられているサイトがあり、鉄道ファンよありがとうと心の中でつぶやきながら、早稲田に停留所ができるところまでを追う。腹が落ち着いてきたところでジョギングに出た。今日はS坂を下って根津神社の山道に出て、不忍池を目指す。途中で「バー長谷川」の前を通りかかると、新しい貼り紙が追加されていた。そこには「5月7日以降に再開の予定です Bar長谷川」と書かれている。「以降」と「予定」に傍点が振ってある。ふたつの言葉を強調するのに、アンダーラインを引くのではなく、傍点というところに少し感じるところがある。思い違いかもしれないけれど、坪内さんが亡くなったあとに書いた原稿で傍点を振ったとき、ある編集者の方から「この傍点が坪内さんって感じがする」と言われたことを思い出す。

 不忍池に出る。公園の入り口には八重桜があり――K.Yさんが教えてくれて、それが八重桜であるとつい先日認識したばかりで、それまでは「なんだかもこもこしたピンク色の花」としか認識していなかった――こないだきたときは満開だったのに、もうほとんど散ってしまっている。今日は平日だからか、池のほとりは閑散としている。渡り鳥もほとんどいなくなってしまった。ベンチに座っているのはよれよれのおっちゃんが多かった。文庫本を読んでいる。鳩に餌をやっている。この人たちは「餌をやるな」「家にいろ」と言われたらどうなってしまうのだろう。

 昼、「インド富士子」のチキンカレーを温める。通販を始めたらしく、すぐに知人が通販していた。ひとくち食べて、あんまりうまくでびっくりする。店で食べたことはあるけれど、自宅で食べてみると、そのうまさが際立つ。ちょっと違和感すらおぼえる。こんなにうまいものを自宅という日常的な環境で食べていることが、違和感を生み出す。アメ横のスパイス屋で買ってきたキットを使って、ときおりキーマカレーを作って満足していたけれど、いや、全然レベルが違うわと思わされる。それはプロなのだから当然ではあるけれど、こんなに違うものかと愕然とした。また注文しよう。

 午後は『周恩来「十九歳の東京日記」』を読んだ。続けて『逝きし世の面影』を拾い読みして、最後に樋口一葉「十三夜」を読んだ。読んでいるうちに、頭の中で、あるいは実際に、読み上げてしまう。読み上げたくなる言葉だ。企画『R』に向けて読み返していると、最初に読んだときと比べて、すっと入ってくる。そして終盤に出てくる「久し振でお目にかゝつて何か申たい事は澤山あるやうなれど口へ出ませぬは察して下され」という一文に引き付けられる。

 朝からずっと気づいてはいたけれど、今日は友人のFさんの誕生日だ。しかし、そういうことではないのだという気がして、メールで「誕生日おめでとうございます」と送るのは憚られた。今日も酒を控えようかと思ったけれど、知人に黒ラベルを3本買って帰ってくれとお願いして、ピザを頼んだ。Fさんが「ピザを注文すると、すぐに冷蔵庫に入れて、一晩寝かせる」と謎の理論を語っていたことを、ときどき思い出す。

 ここ最近は毎日ドミノピザからメールが届き、あんしん受け取りサービスが始まっているということは知っていた。直接ではなく、ソーシャルディスタンスを保って受け渡しをするという。せっかくなので、その受け取り方法を選んで注文する。25分でチャイムが鳴り、1階へ降りてゆく。玄関先で、配達員が青色の折りたたみコンテナをせっせと組み立てているのを見て、なんだかとても悪いことをしているような感触がする。配達員は組み立て終えると、そこにピザを置き、2メートルくらい後ずさりして、ご注文、ありがとうございましたと礼をする。戦争映画で目にした軍隊の姿がオーバーラップする。2メートル後退りしたそこには庇がなく、配達員はマスク姿のまま、雨に打たれていた。とても後ろめたくなり、そそくさと部屋に戻る。

 夜はNewspicksの動画を観た。「Withコロナ時代の日本再生ロードマップ」という番組。動画のダイジェストをツイッターで見かけ、少し気になるところがあったので有料会員になり、視聴した。気にかかった部分というのは、人類というのはずっと都市化(密な空間)を築いてきたけれど、コロナの影響で一気に「開疎化」が進むというくだりだ。これからの時代にはわざわざ地価が高い上に密である都市にいる必要はなく、土地が有り余っている地方で事足りるようになり、そうすれば生活コストも下がるし広々した空間があるし、そこでは職住近接だしメリットだらけだ――と。これは雑なまとめではあるけれど、しかし、わたしたちは本当に「開疎化」に耐えられるだろうか?

 あれは須磨海岸を見晴らしているときのこと、「沖縄に住もうとは思わないんですか」と尋ねられたことを思い出す。那覇の街を歩いていると、話しかけられることが多々ある。取材をさせてもらったり、その過程で知り合ったりした人がたくさんいるからだ。東京を歩いていても、誰かに声をかけられることなんてほとんどないから、不思議な感じがする。頻繁に声をかけられる環境に「住む」となると、気が抜けないと感じてしまうだろう。ぼくは雑沓に紛れて過ごせる都市という空間が好きだ。上京することにさほど志のようなものはなかったけれど、夜遅くまで部屋の電気をつけて過ごしていただけで近所から「昨日はずいぶん遅くまで起きとったみたいじゃけど」と声をかけられるような環境から遠ざかりたいと思っていたことは確かだ。