5月15日

 8時過ぎ、ジョギングに出る。スピードが出過ぎないように、慎重に走る。動坂上から上富士前に出て、文京グリーンコートを突っ切って引き返す。あちこちで鮮やかな花を見かける。近寄ったり立ち止まったりしていないから、ちゃんと確認したわけではないけれど、バラがあちこちで咲いているようだ。日本医師会の前を通りかかった時、ひときわ鮮やかな花が視界に入った。あまりに鮮やかだったので敷地内に入ってみると、それはダライ・ラマが講演した折に祈念植樹された西洋シャクナゲだった。

 アパートに帰ってみると、知人はもう起きていて、洗い物をしているところ。もう駄目かもしれん、とぼやく。体重計に乗ると、これまでみたことない数字になっているのだという。もう元に戻れんかもしれんと嘆く知人の横でパンを焼く。バター担当大臣、お願いしますとバターを切り分けてもらうと、いつもより大きく感じる。さっきまで体重が増えたと嘆いていたのにと指摘すると、そんなことない、ほら、これぐらいのサイズが標準なのだと、バターのパッケージに描かれた、トーストの上に大きめのバターがのっかった絵を指す。

 午前中は『AMKR手帖』の原稿を考える。どんなふうに線を結ぼうかと、コピー用紙に設計図を書く。昼はカレーライスを食べた。昨日のうちに1食ぶんごとにタッパーに取り分け、1個は冷蔵庫に、あとの2個は冷凍庫に入れておいたもの。セブンイレブンで売っているレトルトカレーなら100円くらいなので、安い上に手間もかからないが、自分で作ると具沢山になるので、皿によそっただけで嬉しくなる。食事を終えると、カレーを保存していたタッパーを洗い、キッチン泡ハイターをかけ、しばらく放置し、洗い流す。ちょっとでもカレーの匂いが残ると気になってしまう。においをやたらと気にしてしまうので、知人からたまに「鼻をつぶしたほうがいい」と言われる。

 キッチン泡ハイターが流れきるまで、水をしばらく流す。あ、これか、と気づく。午前中にチャイムが鳴り、出てみると水道局だった。水道メーターの検診をしたところ、前回より数値が高くなっているけれど、最近水回りの工事をしたかとインターホン越しに尋ねられる。いや、工事はしてませんと答えると、「じゃあきっと、前回より水道の使用量が増えただけですね」と言う。家で過ごす人が増えていて、どの家でも水道使用量が増えているのだという。なるほど、と納得しかけたが、知人は徒歩圏内に職場があり、他に出社している人もいないので平日はいつも通り出かけている。なぜ水道使用量が増えたのかと不思議に思っていたが、やたらと除菌して、食器や布巾からハイターを取り除こうと水を流しているせいだと気づく。

 午後は今日と明日の「取材」に向け、質問を練る。取材するときの質問リストも、原稿を書くときと同じように、まず設計図を書く。聞きたい話を、まずは大きなブロックごとに書き出す。たとえば、「お昼ごはん」とか「晩酌」といった具合に。そこから、「最近はお昼ごはんに何食べてます?」とか、「こういう状況になるまえって、家で晩酌することありましたか?」とか、細かな質問項目と書き出して、それらを線で結んでインタビューの流れを想像する。普段はそれをパソコンで清書して、かっちりした質問リストを作成してから向かうのだけれども、今日はそこまでかっちりさせないほうがよい気がするので、手書きのメモだけ持ってアパートを出る。

 西日暮里から池袋に出て、「古書往来座」にたどり着く頃には16時45分になっていた。挨拶して中に入ると、セトさんが髭を剃り始める。マスクしてるとさ、髭剃んなくなるね。髭を剃りながらセトさんが言う。ぼくもマスクの下は髭が伸びたままだ。ICレコーダーを帳場に置かせてもらって、1時間ほど話す。取材をするのは、3月30日ぶりのこと。あの日も古本屋さんにいて、その取材の場にセトさんも遊びにきてくれたことを思い出す。久しぶりに取材をしていると、頭が思うように回転しないことに気づく。取材しているとき、意識に3つくらいの流れがある。ひとつは、自分が用意してきた質問リストに沿うように、自分が聞きたい話を、取材時間におさまるように聞かなければという意識。ひとつは、相手が話してくれていることに耳を傾けて、ちゃんと会話しようという意識。ひとつは、自分が用意してきた質問とも、相手の発言ともまた別の、そうして話しているなかで生まれてきた質問を、どのタイミングでどう挟めばよい対話になるかと探る意識。この、最後のひとつがうまく動作しなくって、ときどき少し立ち止まってしまう。取材するとき、ぼくはときどき自分の話をすることがある。これはテクニックめいた話ではなく、そのほうが会話になる気がするし、相手も質問に答えてばかりいると考える余白がなくなってしまうだろうから、タイミングを見計って自分の話をする。ただ、そのタイミングの勘所もうまく作用しなくて、ぼくが話しているうちに、セトさんの頭に思い浮かんでいた話をひとつ、記憶のどこかに追いやってしまった。

 取材を終えたあと、お店にやってきたムトーさんと3人で缶ビールを飲みながら、そんなことを話す。たまに取材をして過ごしてきたぼくでさえこうなのだから、たとえば芸人さんなんかは大変だろう、いきなりバラエティ番組の雛壇に復帰しても、前のように自由自在にはしゃべれないだろう。ビールを飲みながらぽつぽつ話しているあいだ、ムトーさんはギターを弾いていた。ギターが弾けるようになったら楽しーじゃん、とムトーさんが言う。ぼくも一時期、本当に一時期だけ、ギターを買って練習しようとしたことがある。今から10年くらい前のことだ。でも、弾けるようになる予感がまったくせず、飽き性なこともあってすぐに売ってしまった。少し前に更新された見汐さんの「続・寿司日記」に書かれていた言葉が浮かんでくる。ムトーさんは「いいんだぜ」を練習しているらしく、帳場には曲のコード進行を書いた紙が貼られている。この、Cが難しーんだよ。ムトーさんは辿々しくCのコードを押さえる。ぼくがわずかにギターの練習をしていたときの記憶だと、ムトーさんがさりげなく抑えているGのほうが難しかった記憶があるのだけれど、Cのところにくるたび音が少し途切れ、くっとコードを抑え、曲が続く。

 窓開けてるから、静かに弾いてるんでしょ。セトさんが言う。それもあるけど、会話が聴こえなくなんじゃん。ムトーさんが言う。そのささやかな会話がなんだか好ましくて、印象に残っている。ふたりと、それに今は東京を離れてしまったUさんと、10年前にはよく飲んでいた。こないだ写真を整理していたときに、当時の写真もたくさん出てきて、感慨深くなっていたところだ。都電の脇の道路はずっと工事中で、大塚で、池袋で飲んだ帰り道、よくそこを歩き、佇んだ。ぼくが「東京の古本屋」という連載を始めたいと思ったのは、あの時間があったからだ。ぼくは古本屋に足繁く通っていたほうではなく、だから客として古本屋さんを見るというより、大人になって仲良くなり、一緒にお酒を飲んで遊ぶようになったのが古本屋さんに関わる人たちだった。その人たちがどんなふうに過ごしているのか、書き残しておきたいと思っていて、それで「東京の古本屋」を始めたのだった。

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 こんな状況になって、古本屋さんの多くは休業を余儀なくされている。ただし、休業中でも通販は認められるとの理由から、SNSを活用して発信しながら頑張っているお店もある。5月になり、「取材しなければ」というモードになったときに、最初はそうやって営業されているお店に話を聞かせてもらうつもりでいた。ただ、「東京の古本屋」という連載で、ひとつの営業スタイルをピックアップしてしまうと、そこに意味が生じてしまうような気がした。「この時代に、こんなふうに営業しているお店がある」と、特定の営業スタイルを「選ぶ」行為に、意味が生じてしまう気がした。それに、このタイミングで取材してしまうと、そのお店のことをしっかり取材するというより、《非常時における古本屋》という話になってしまう気がして、もったいないような気がした。ただ、4月と5月に古本屋さんがどんなふうに過ごしていたのかということは書き残しておきたい。だとすれば、すでに取材したお店の中から、「あのお店の今」という形で書くのが一番よいだろう。そんなふうに理屈をつけながら、連載の担当編集者・Tさんにメールを送っていたのだが、ぼくは最初からセトさんに話を聞きたいと思っていた。お店を閉めなければならないということについて、話を聞きたいと思ったのはセトさんだった。

 缶ビールのロング缶を2本飲み干したところで、荷物をまとめる。また遊びにくることを約束して、19時過ぎ、「往来座」をあとにする。「みつぼ」はテイクアウトをやっていると聞いたので、立ち寄る。隣の「ジュンク堂書店」(池袋本店)はもう店じまいしていた。「みつぼ」の前に立ち、外のカウンターに置かれたメニューを眺めていると、持ち帰りでしたら、そちらに書いてくださいねと店員さんが教えてくれる。紙とペンがあり、ペンか、と思う。焼きとんを5種(2本ずつ)、マカロニサラダ、それにミミガーを注文する。会計は1450円くらいだったと思う。15分くらいかかりますけどよろしいですかと言われ、あ、じゃあ外のカウンターでビール飲みながら待ってもいいですかとお願いする。先払いなので、千円札を差し出し、小銭を受け取る。店員さんはいつも通りにお金を受け渡し、その手で「はい、生ビールここにおいときますね」と差し出してくれる。ぼくは誰のことも否定したくないし、「こんなふうに営業しているなんて非衛生的だ」と言いたいわけではまったくない。良い店だし、こんな時期でも営業してくれているお店には感謝するばかりだ。心苦しくなりながら、サコッシュから除菌シートをこっそり取り出し、さきほどペンを持った手をカウンターの下で拭い、店員さんの目を盗むようにジョッキの取手を拭う。この罪悪感は一体何なのだろう。店内では仕事帰りのサラリーマンたちが何事もなかったかのように談笑し、酒を飲んでいた。

 知人からLINEが届き、神保町の「酔の助」が閉店すると知ったのはこのときのことだった。何度か飲みに出かけたこともあるし、それ以上にテレビドラマで何度となく目にした。仕事帰りに飲み屋に出かけるシーンが挟まれたと思うと、かなりの確率でロケ地は「酔の助」だった。思い出されるのは2011年3月12日だ。あの日は「東京堂書店」で坪内さんと福田さんのトークイベントがあり、それは予定通り開催されていた。イベントが終わったあと、「ランチョン」で打ち上げがあり、その後に「酔の助」に流れた。通されたのは奥の座敷だった。そこには調理場に通じる小窓があり、そこから注文したり、料理を受け取ったりできるようになっていた。あのころ、ぼくは今と同じように坊主頭だった。坪内さんがぼくのほうに向かって、海老蔵さん、もうお酒飲んで大丈夫なんですかと、大きめの声で繰り返していた。福田さんは笑って聞き流していた。海老蔵はその時期、例の事件で謹慎中だった。坪内さんがしきりに繰り返す言葉が届いたのか、料理が運ばれてきたわけでもないのに小窓が開き、向こうからこちらの様子を伺っている気配があった。なんだか申し訳ないような気持ちになりながらも、しかし愉快な気持ちでお酒を飲んだ日のことを思い出す。「思い出す」という言葉ばかり書いている。