6月1日

 5時過ぎに目を覚ます。今日から新しい月になったが、先月ほど「月が変わった」という感触はなかった。まだ起き上がる気になれず、布団の中でケータイをぽちぽち触っていると、6時半にMさんからLINEが届く。「Q」に掲載される原稿のことで、即座に返事を書く。冷凍ごはんを解凍し、たまごかけごはんを平らげ、コーヒーを淹れる。ジョギングに出かけたいけど、朝から雨だ。天気予報を調べてみると、今週はずっと傘マークが続いていて憂鬱になる。すぐに考えるのは洗濯のことで、どこかのタイミングでコンランドリーに出かけることになるんだろう。午前中は何度か「Q」に掲載される原稿のやりとりをしているうちに過ぎてゆく。13時、『cocoon』の特設サイトが公開となり、今年の公演が中止となったことが発表される。それと同時に、QJWebにぼくの「cocoonを再訪する」という記事が公開される。

qjweb.jp

 パスタを茹でて、ソースを絡めてお昼ごはんにする。今日は知人も在宅なので、300グラム茹でて、2皿に盛りつけてそれぞれ別のソースと和え、小皿に取り分けて食べる。「ポモドーロの絶賛」と、「トマトクリームの魅惑」という名前のパスタソースで、前者はシチリアの、後者はミラノの味とある。どちらも美味しいけれど、レトルトのソースはやっぱり具が少なくて、物足りなさが残ってしまう。食べながらNetflix『タコスのすべて』最後の回を観た。固有名詞がまったく頭に残っていないので、もう一度見返したいところ。言葉さえしゃべることができたら、世界のいろんな土地のことを詳しく知れるのにと思うけれど、しゃべれたところで生活の中にある言葉を聞き取るのは容易なことではないよなと思い直す。

 午前中に届いていたメールを読み返す。『AMKR手帖』の取材は、やはり今月も難しそうだ(そういえば東北新幹線北陸新幹線は3列シートの中央席は販売せず、東海道・山陽新幹線は「検討中」と言っていたけれど、その後どうなったのだろう)。関西に足を運びたいという気持ちはあるけれど、書く原稿としては嬉しくもある。前回(今月下旬に発売される号に掲載される原稿)では、当初の予定ではある一冊について書くつもりでいた。そこに編集者のAさんからの提案を受け、その一冊と、別の一冊を組み合わせて原稿を書いた。ただ、当初書く予定だった本については書きたいことがたくさんあり、それが原稿にも滲んでいたのか、「次回は当初書く予定だった本一冊で」と提案してもらえたので、何を書こうかと思い描く。

 夕方になって服を着替え、歯磨きをして髭を剃り、知人と一緒にアパートを出た。やっとるとええのう、もしやってたら店内ではしゃべらんからなと念を押しながら、坂を下ってゆく。17時ちょうどに「バーH」のある路地を曲がってみると、店の外に置かれた、「BAR」という字が記された小さなランプにあかりが灯っている。思わず少し早足になる。その路地は最近、こどもたちの遊び場になっていて、こどもたちがおもちゃを片づけているのを避けながら進んでいき、扉を開ける。カウンターの端っこに座ると、除菌ジェルを差し出してくれる。マスクをつけたままのほうがいいのか、どうしようかと思っていると、知人がマスクを外したので、言葉を発することはないのだからと思い、ぼくも外す。

 ぼくたちより先に入店したお客さんがひとりいたのだが、そのお客さんは注文する前にトイレに立ったので、Hさんは先にこちらのお酒を作ってくれる。「ハイボールで?」と尋ねられ、黙ったまま頷き、2ヶ月ぶりにハイボールを飲んだ。ウマイ。黙ったまま、カウンターや棚に並ぶ酒瓶を眺めて過ごす。あらためて見ると、どれも素敵なデザインだ。目の前にあるオールド・パーの古いボトルを見つめながら、こんな本が出せたらなあと思う。それにふさわしい内容は、文体は、どんなものだろう。

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 店内を眺めているうちに、あることに気づく。「バーH」のカウンターの向こう側には、昔のノベルティーグッズなのだろう、WHITE HORSEのカレンダーがかけられている。それはプレートのようになっていて、「ひめくり」というか、プレートの裏面を操作して日付を表示させる仕組みのものだ。その日付が「MAR 31」になっていたのだ。それに気づいた瞬間に、胸が一杯になってしまった。毎日かどうかはわからないけれど、Hさんは店に来て掃除をして、きちんとカレンダーの日付を動かしていたのだろう。そして今日、久しぶりに営業することになって、準備が開店ギリギリになってしまい、カレンダーの日付を動かし忘れているのだろう。Hさんの過ごした2ヶ月のことを思うと胸が詰まるが、少し心を落ち着かせてマスクをつけ、「Hさん、カレンダーが5月のままになってます」と小さな声で伝える。

 ひとり、またひとりとお客さんがやってくる。ひと席ずつ空けて座っているので、カウンターはもう満席だ。これは早めに席を空けなければと思っていたのだが、1杯だけで帰るお客さんもいた。ぼくたち以外は皆、ひとりのお客さんなので、店内には静かに音楽だけが流れている。この状況のおかげで、大声で話すお客さんはいなくなるだろう。それは嬉しいことだなと思いながら、ハイボールを3杯飲んだところで会計をお願いする。「マスクをつけたほうがいいものなのか、わからなくて」。お釣りを差し出しながらHさんが言う。Hさんからこうして話しかけられるのは珍しいことだ。また近いうちにきますと告げて、店を出る。時計を確認すると、まだ17時33分だ。「30分で3杯は飲み過ぎやろ、今日はもう駄目やな」と、知人があきれた様子で言う。いつも通りのペースで飲んだつもりだったけれど、久しぶりに飲めて嬉しかったのと、早めに席を空けなければという気持ちと、なるべくお金を払って帰りたいという気持ちとで、スルスル飲んでしまったのかもしれない。不忍通りを歩いているうちにどんどん愉快な気分になってきて、小躍りしながら帰途についた。