6月3日

 11時にアパートを出る。自転車で本駒込に出ると、「青いカバ」がオープンしている。除菌ジェルを擦り込んで、久しぶりで棚を眺める。福田和也『甘美な人生』、酒井隆史『暴力の哲学』、湊千尋『注視者の日記』、3冊で1980円。「セトさんの回読みました」と店主のOさんが言ってくれる。本人から直接言われたらそう感じない気がするけど、「セトさん、いいこと言うなー」と思いました、と。また来ますと告げて店を出て、不忍通りを走ってゆく。雑司ヶ谷霊園を通りながら、先月末に企画「R」で歩いたときに撮りそびれていた風景を写真に収めていく。「古書往来座」はまだ開店作業中だったので通り過ぎて、明治通りから早稲田通りに抜けてみると、「丸三文庫」が開いている。ここでも除菌ジェルを擦り込んだ。病院を思い出す香りの除菌ジェルだ。吉本隆明特集の『現代詩手帖』と『現代思想』を見つけ、近いうちに吉本隆明をちゃんと読まなければという気持ちになり、2冊とも買う。2000円にオマケしてくれた。店主のFさんも、この期間に一度坊主にしたと話していた。Fさんのインスタグラム越しに、Fさんおお子さんふたりが休業中の「丸三文庫」で過ごしている様子を眺めていたので、不思議な感じがする。もうお子さんたちの姿はなかったが、帳場の後ろにお子さんたちが描いたのであろう絵が貼られていた。

 早稲田から市ヶ谷に出る。タクシーを拾って、車窓ごしの風景を撮り、赤坂見附で降ろしてもらう。980円。そこから市ヶ谷まで、歩いて引き返す。歩道はえらく狭く、ほとんど誰も歩いていなかった。右手にはお堀が、左手には芝生が繁っているが「土手に上がらないでください/KEEP OUT」と書かれた看板が点々と続いている。地図で確認すると、土手の先は赤坂御用地だ。歩きながら、「CoCo壱番屋」にテイクアウトの注文をしておく。市ヶ谷で再び自転車に乗り、飯田橋から後楽園へと外堀通りを走っていると、左側の2車線が警察によって封鎖されている。2車線も塞ぐだなんて、一体何事だろうと思っていると、横断歩道の上にバイクが倒れていて、車が歩道に突っ込んで止まっていた。バイクの下には、べっとりと血が残されていた。白山坂上の「CoCo壱番屋」でチキンと夏野菜カレー弁当+パリパリチキン(1218円)を2個受け取って、アパートに帰ると、知人は玄関で待ち構えていた。カレーをよっぽど楽しみにしていたのだろう。

 16時過ぎ、今日二度目のシャワーを浴びてアパートを出る。今日から営業を再開した「古書ほうろう」をのぞく。消毒液の準備がまだ整っていないので、洗面所で手洗いをと貼り紙がある。そうか、トイレがあったのだなと思いながら手を洗い、『大正という時代』と『拡大するモダニティ』を買い求める。2冊で6810円。やっぱり棚を眺めることは大事だ。企画「R」に向けて、あれこれ本を取り寄せて読んでいるけれど、それは自分が思い浮かんだキーワードで本を探しているだけで、その外側に飛び出すことができない。でも、こうして棚を眺めていると、あちこちに点が増えてゆく。うちにはさほど大きな本棚がないので、こうした時間がなければ駄目だ。

 東大前から南北線に乗り、市ヶ谷で都営新宿線に乗り換えて、17時2分に新宿三丁目に出る。「F」の看板が出ている。はやる気持ちを抑えながら、扉を開け、転ばないようにゆっくり階段を降りてゆく。階段を降りきったところにあるテーブルに除菌ジェルが置かれていたので、手に擦り込んでカウンターに座る。4月4日から休業に入り、一昨日から営業を再開したらしかった。まずはビールを飲んだ。二人組の先客がいて、そのお客さんが注文したツマミをVさんが調理する姿を眺めながら、ビールを飲み干す。タイミングを見て「ハーパーのボトルを入れてください」と伝えると、あれ、はっちゃんのボトルなかったっけ、と棚を探してくれる。普段ここでは焼酎のボトルを入れているのだが、そうだ、坪内さんのお通夜のあと、坪内さんの授業を一緒に受けていた6人と「F」を訪れ、せっかくだからボトルを入れましょうかと注文したのだった。少しだけ中身の残ったボトルには「坪内さん」とピンクのペンで書いてある。きっと僕が書いたのだろうけれど、それは君、ちょっとセンチメンタルすぎるなと我ながら思う。

 ひとり、またひとりとお客さんがやってくる。皆きっと常連さんだ(ひとりはよく言葉を交わす人でもある)。あるお客さんが、席に座りながらカウンターにタバコを置くと、××さんごめんなさい、と店員のVさんが手を差し出す。ここも禁煙になってしまったらしく、もし吸いたくなったら灰皿渡すから、上で吸ってきてもらえますかと伝えている。普段タバコの匂いにわりと目くじらを立ててしまうほうなのに、「禁煙になってしまった」なんて書いている。常連客であるあの人や、あの人はこれからどうやって過ごすのだろうと具体的な顔が浮かんでくる。カウンターの向こう側に立つVさんはマスクをつけていた。ぼくも話すたびにマスクで口を覆っていた。灘のUさんが扇子で口元を覆えばいいんだと書かれていて、それでは正面以外に飛沫が飛んでしまうのではと、飛沫神経症に陥っているぼくは思ってしまっていたけれど、こうやってマスクを何度も上げ下げするより扇子のほうが優雅だ。マスクで口元を覆ってから話し出そうとすると、どうしても間が悪くなってしまうというのもある。ぼく以外のお客さんは誰もマスクをしていなかった。そんな中で何度もマスクを上げ下げしていると、あてつけみたいになってしまうだろう。お客さんから「Vさんも一杯」と勧められると、Vさんもマスクを外して飲み始める。ぼくはいそいそとハーパーのソーダ割りを飲んで、ボトルが空になったところで新しいボトルのぶんもと会計をお願いする。代金は11440円、財布の中身が少なくなってきた。

 40分くらいしか滞在しなかったこともあり、外はまだまだ明るかった。靖国通りに向かって歩いていると、松屋の前で外国人のカップルが何やら言い合いをしているのが見えた。そのまま通り過ぎて信号を待っていると、後ろから「パァン」と音が鳴る。少し時間をおいて振り返ると、男性はうなだれた様子で、女性に叱責されている。こうして「外国人」「男性」「女性」と書くのも正しくないことなのだろう。昼に見た血の色がよぎる。新宿5丁目「N」は扉が閉ざされていた。普段は20時近くに営業を始めるお店だけに、まだ営業を始めていないだけなのか、それともまだ休業中なのか、わからなかった。とぼとぼと引き返し、新宿3丁目を歩く。テラスのような場所に設置された席はどこも賑わっていて、老若男女が早い時間から顔を赤らめて、楽しそうに談笑しながら酒を飲んでいる。マスクをしている人の姿はなかった。皆、怖くないのだろうか。それとも「死んでしまっても構わない」と思ってしまっているのだろうか。そういえば都庁が赤くライトアップされるのだったなと思い出す。ただ、わざわざ無様な政治を見物する気にもなれず、19時には『有吉の壁』が始まるので、さっさと家に帰ることにした。東に向かう都営新宿線は空いていたが、市ヶ谷で南北線に乗り換えようとすると、こちらは都心から郊外に伸びる路線なので少し混雑している。車両の扉付近の4隅には人が立っていて、座席の前にも人がわりと立っている。電車を何本か見送って、ようやく扉付近に立てる電車がやってきたところで地下鉄に乗り込んだ。