6月27日

 7時に目を覚ます。例によって布団にもぐりながら延々とケータイをいじって過ごしているうちに、2つ大事な情報を発見する。ひとつは、「マチグヮーストア」という通販サイトが立ち上がっていたこと。先日、組合長のAさんに取材したとき、「まちぐゎーで扱っている商品を、ネット通販で買ってもらえるようにする動きもある」という話を伺っていたのだが、この「マチグヮーストア」は6月20日の段階で――つまりこないだ滞在していたときに――立ち上がっていたのだ。どうして気づかなかったのかと悔やむ。思い返してみると、旧・公設市場の北側にある通りで、なにやら商品を路上で撮影している様子を見かけていた。あれもきっと、このサイトで出品するために撮影していたのだろう。

 次に沖縄に行けるとしたらいつだろう。昨日の石垣島の様子を見ていても、なるべく早めに行っておきたいところだ。調べてみると、最後まで中央席の販売を控えていたJALも、7月からは中央席の販売を再開するらしかった。この調子で観光客が戻り始めるとすれば、飛行機に乗るのはかなりおそろしくなる。どうにか7月の早いうちに再訪したい(今回の取材も「那覇に延泊したい」と伝えておけばすぐに取材に行けたのに)。早めに取材日程を決められるように、RKSP紙の担当者にメールを送っておく。

 ネットで見つけたもう一つの大事な情報は、「ごろごろ、神戸y」の次の号が発売になっていたこと。あわわわわ、もしかしたらもう売り切れになっているのではと調べてみるとまだ在庫があり、注文。最初の号は24日に届いていて、すぐに読んだのだが、沖縄で日記を書くエネルギーを使い果たしていたので、届いたことを日記に書かないままになってしまっていた。あの日は早めに郵便の配達があって、めずらしく午前中のうちに郵便受けに荷物が届いた。その日届いていたものは3個あり、一番薄い――しかしかなりかっちり梱包されている――のが「ごろごろ、神戸y」だろうと、いそいそと開封したことを思い出す。届いたものをいそいそと開けることって、今ではそんなに経験することもなくなってしまったなと思いながら、引き出しを開けてハサミを取り出したことをおぼえている。その日届いた郵便物の中には、「光文社」と書かれた封筒もあった。光文社から、何だろう。読書委員になったからと送られてきたのだろうか、だとしたら腹立たしいなと思いながら開けると、そこに入っていたのは亀和田さんの新刊だった。ああ――あれは何日だったか、これも日記には書かずに取っておいたけれど、ある日突然亀和田さんから電話がかかってきたことがあった。5月中ばのことだったと思う。コロナ禍の中でどう過ごしているかを話したり、「恋のドライブ・イン」という曲があったことを教えてもらったりしたあとで、亀和田さんはぼくが書いた追悼文を褒めてくれた。褒めてくれたというのは、原稿を書くときの距離感についてだったので、それはとても嬉しかった。もうちょっと状況がよくなったら、連絡を取りあえって会いましょうと言ってもらえたのに、そのままになってしまっていることを思い出す。もうひとつ届いていたのは『本の雑誌』で――これは透明な封筒で送られてきたのですぐにわかった――先日、うちで打ち合わせをしたときに、「そうだ、今度送りますね」と言われていた号だ(5月発売の号)。読者投稿欄の「三角窓口」に「橋本倫史氏のビールぐびぐびが衝撃だあ!」という投稿があり、塩屋でのトークを聞きにきてくださった方が、「興味深くあっという間の2時間弱でした」と感想を書いてくださったあとに、「それにしても、橋本氏が水のようにビール2本をぐびぐび飲んでも表情を変えず普通にトークしている姿にも衝撃でした」と締め括られている(それに対して、編集部から「橋本さんは下戸の人をあんまり驚かせないように」と綴られる)。あの日は朝ごはんを買いそびれたこともあり、腹を膨らせるためにとビールを飲んでいて、「この人、朝からビール飲んではるわ、、」と誰かを引かせる可能性はあるだろうなと思っていたけれど、そんなにぐびぐび飲んでいたっけなあと思い返してみるけれど、話していると喉が乾いてピッチは上がるので、下戸の人はびっくりするだろう。

 8時過ぎにジョギングに出る。10日ちょっとぶりなので、からだが思うように動かない。海辺を走れるかと思っていたけれど、ぼくが向かったのは漁港がある側であるらしく、あまり海の近くは走れなかった。ただ、途中で八重山平和祈念館の前を通りかかることができたのは収穫だった。そうか、そんな施設があるのか(取材後に時間があれば行ってみよう)と思いながら、30分ほど走る。シャワーを浴びて、ホテルの朝食会場にいく。朝食はバイキングだとあったけれど、どういう仕組みで営業しているのだろう。場合によっては踵を返し、コンビニに向かうつもりでいたけれど、会場に到着してみるとスタッフが出迎えてくれて、検温される(チェックインのときにも検温された、昨日は36.4℃で今日は36.3℃、うちの体温計ではかると大抵37℃くらいで、自分は平熱が高いのかと思い込んでいたけれど、うちの体温計がおかしいのだろう)。席に案内されて(座れないようにふさがされた席もある)、目玉焼きとオムレツとスクランブルエッグ、どれがよいかと尋ねられる。オムレツでお願いしますと答えて、料理を眺めに行くと、サラダ、パンケーキ、フルーツが小皿に取り分けてある。なるほど。ドリンクが並ぶコーナーには、消毒液が置かれた上、使い捨てのビニール手袋も置かれている。万全の体制だ。小皿をいくつか選んで、「ゲンキ」という石垣のドリンクをよそって、テーブルに戻り、水の張られていないプールを眺めながら平らげる。

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 11時から取材。この日の取材先で食べた味に心の底から驚く。食べ物を食べて「おいしいな」と思うことはあるけれど、衝撃を受けるということは滅多にないので、目が丸くなる。それが何であるのか早く書きたいけれど、掲載号が発売になるのは11月なので、ずいぶん先になってしまう。どうしてそんな味が生み出されたのかを聞いていると、大変だった時代に行きあたる。ぼくは家族を取材する機会が増えているけれど、たとえば今60歳くらいの人が「小さい頃から家の仕事を手伝うのは当たり前でしたね」と語る話を、「家族が支え合って過ごす、美しい風景」として切り取るのは雑な仕事だ。それは、そうしなければ生活が成り立たなかった時代がある、ということだ。今はもう、その時代は過ぎ去りつつある(もちろんテレビが大家族を「消費」するように、子沢山で、親は仕事に忙しいから、10歳くらいの子が下の子たちの世話をするというケースはいまだにあるけれど、それが当たり前だった時代は過ぎ去ったと言える)。そうして時代が移り変わりつつあるときに、「家族でやっている食堂」の雰囲気だけをテーマパークのように残そうとしても、それはもはやただのはりぼてだ。そうしたはりぼてが作られつつある気配を那覇でも少し感じるけれど、そこにはあまり幸せな未来はないのではないかと思う。今この時代から、半世紀先が過ぎたあとに「あじ」と感じられるようなものは、どこに、どんなふうに生まれてくるのだろう。

 取材後は八重山平和祈念館に足を運ぶことができた。かなりこぢんまりした展示で、正直物足りないところはあったけれど、これまで沖縄の(それも南部の)戦争ばかりに目を向けてきたなとあらためて気づかされる。石垣島では米軍の上陸はなかった。ただし、首里が陥落したあと、「次はいよいよ八重山に米軍が上陸してくるのでは」と警戒が高まり、日本軍は住民を強制疎開させる。疎開させられた先には蚊帳もなく、多くの人が密集させられ、衛生状況も悪く、さらにそこはマラリアの媒介となる蚊がいる地帯だった。当然ながらマラリア患者が急増し、多くの方が亡くなってしまう。状況の変化を受け、強制疎開は解除されたものの、連絡機能が機能していなかったため患者は増える一方だったという。米軍の上陸はなかったのに、多くの方が命を落とした。その展示を見ていて、「一体何だったんだ?」と思っただろうなと想像する。米軍が上陸してくるからと言われて強制疎開させられて、たくさんの命が奪われたのに、結局敵は上陸してこなかった。じゃあ一体何のためにと、多くの人が思っただろう。そして、戦時下にありながら、敵に素通りされたことは、また違った感情を生んだのではないかと想像する。

 17時のバスで空港に向かう。さすがに土曜の夜に帰る観光客は少ないのか、バスは空いていてほっとする。それでも飛行機はそれなりに混み合っていた、マスクをずらしたまま過ごす人がちらほらいて、神経症が出てしまう。離陸する飛行機から夕暮れの石垣島が見えた。石垣島の景色を眺めていると、土の匂いが煙ってくるようだ。観光として売り出しているのは海なのだろうけれど、耕され、家畜が放牧されていた土の匂いが現時点では強く印象に残っている。しばらくすると夕焼けが始まり、夕日と雲とがとても鮮やかに見渡せた。22時過ぎに東京に戻り、モノレールで浜松町に出て、山手線に乗り換える。金曜夜だからか、電車はそれなりに混み合っていて、マスクをずらしたまま話している人の姿も少なくなかった。そもそもマスクをしていない若者の姿もちらほら見かける。ここ数日の感染者数を見ると、ヤバイなという感想しか出てこなかったけれど、ここは東京とは別の街なのだろうか。なんだかもうすべてが過ぎ去ったことのようになっている。そうでなければ、ゆるやかに死に向かって進んでいるようにしか思えなかった。

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 ただ、ぼく自身の感覚も常に揺れ続けているのだと思う。こうして日記をつけていると、たとえば3月下旬に「いよいよロックダウンか」となったときには、ようやく政治が動くのかとほっとした気持ちになっていたけれど、その一方で、自分の移動について政治からとやかく言われる筋合いはないという気持ちが強いときもある。自分の感覚というのは一貫したものではないのだと再認識させられる日々だからこそ、その日々のばらばらな感覚を書き残しておかなければと思う。