8月11日

 昨晩も早々に酔っ払ったので、またしても3時頃に目が覚めた。ビアガーデンで3品くらいしか頼まなかったせいか、お腹が減っている。耐えきれなくなって台所に行き、サッポロ一番塩らーめんを作る。途中でひらめき、やかんも火にかけ、スープは別で用意する。それを居間に持っていって啜っていると、知人が目を覚ます。スープを別立てで作ると、具材がないと澄んだ味になりすぎるのうとブツクサ言うぼくに、「こんな時間に『サッ』食いよるやん」と知人が言う。先週土曜日に届いた郵便物の中には、ぼくが買うのを見送っていた『のみタイム』が入っていて、知人もそれをぱらぱら読んでいたのだ。腹を満たしてもすぐには眠れず、ケータイをぽちぽち触っていると、「古書店街に新しい風を…。若き女性が挑むブックディスプレイの世界」(https://sst-online.jp/magazine/334/)という記事が流れてくる。

 リンクをクリックすると、「洋書をもっと身近に楽しんでもらいたいという想いから、古い洋書をインテリアディスプレイとして提案している『KITAZAWA DISPLAY BOOKS』がいま話題だ」という冒頭の一行が目に入ってくる。文は「創業115年以上の歴史を持つ神田・神保町の古書店『北沢書店』から、なぜこのサービスが生まれたのか?」と続く。北沢書店に初めて足を運んだのは――もっと言えば神保町の古書店に足を運んだのは――2004年のことだと思う。当時は西洋政治思想史を研究しようと思っていたこともあり、「北沢書店」で何冊か原書を購入した。その後も何度か足を運び、そこで買った原書を、今のアパートに引っ越してくるまでは本棚に並べ続けていた。

 さきほどの記事では、「北沢書店」の3代目の娘にあたる女性がインタビューに答えている。彼女はセレクトショップで約10年間働き、販売員を経て店舗デザインの仕事をしていたという。そこから「30代を迎えてどうお仕事をスキルアップしていこうかと考えたときに、書店を経営する両親から電子書籍化の影響で紙の本を手に取る人が減ってきているという事実を聞き」、「当たり前のようにあると思っていた本屋さんがこのままだと無くなってしまうかもしれない…。」「どうすれば紙の本に触れる素晴らしさを伝えられるだろう…。」と思いを巡らせ、洋書をインテリアディスプレイとして提案する方法に至ったのだという。

 モデルルーム、ショップの内装、展示会、舞台のセット等々、いろんなケースのご依頼を受けて、空間のイメージやお客様の想いをお聞きして提案しています。置く本一つで空間の世界観は大きく左右されてしまうので、古書店だからこそできる装丁だけではわからない本の内容も含めた提案ができることが強みですね。

もちろん、お店に来ていただければ実際にお客様の目で本を自由に組み合わせることもできますから、宝物を探す気分で気軽に寄っていただきたいです。

 インタビューの中で彼女は、「お客様の中には“本は読みものとしてあるべきだ!”という厳しいご意見を持たれている方も」当然いることから、「私自身初めはこのサービスを行うことに葛藤があった」と率直に語っている。でも、父からは「好きなようにやりなさい」と背中を押され、「読み物としての役目を終えた古書に、多くの人の人生に触れるという新しい命を吹き込むことにも繋がるので、今は自信を持って活動しています」とある。この記事に触れたとき、ああ、いよいよ時代の節目が訪れたのだなと感じた。これは「そんな商売をするなんてけしからん」とケチをつけたいわけではなく、ただ「そういう時代にまでたどり着いたんだな」というだけ。

 2006年に神保町で「偶然」出くわしたとき、坪内さんが「はっちゃんはギリギリ間に合ったね」と言っていたことを思い出す。あのとき、何をもって「間に合った」と言っているのか、ぼくはピンときていなかった。坪内さんは、神保町という街がこれから変化を余儀なくされることを、あの時点で感じ取っていたのだろうなと、今になって思い返す。たとえば、それまで神保町にある飲食店で行列ができるのは「キッチン南海」くらいだったのに、メディアで紹介されることであちこちの飲食店に行列ができるようになっていくことを、坪内さんは逐一書き残していた。それまでは本を求めてやってくる人たちが行き交う街だった神保町が、曲がり角に立たされていることを、書き残しておこうと思ったのだろう。もちろん、それは何十年も神保町に通ってきた坪内さんだから言えることで、ぼくはその受け売りで何かを言える立場にはない。

 さきほどの記事にある「北沢書店」にしても、ぼくがそこに足を運んだのは数度だけだ。そこで背表紙に見惚れながら棚を眺め、何冊か買ったものの、洋書を読む習慣は身につかなかった。ただ、日本に数冊しか入ってこない洋書を競うように読んだ時代や、洋書の扱う書店が輝いていた時代があったのだということを、坪内さんを通じてぼくは教えてもらっていた。そういった系譜がいよいよ途絶えつつあるのだということを、布団の中で知る。念のためにもう一度書いておくと、これは批判として書いているわけではなく、一つの文化が終わりを迎えたのだなと、ただそう感じただけである。そして、ぼくはその文化を引き継ごうとしなかったひとりだ。

 続けて香港の情勢を追っているうちに眠りに落ち、再び目を覚ますと8時過ぎだ。テレビでは「今年一番の暑さ」と報じられていて、熱中症への警戒を呼びかけている。昨日の夜に『T.B』誌のゲラが届いていたので、行数を調整し、加筆する。それをスキャンして送信すると、RK新報の記者の方が送ってくださった過去の紙面データを確認する。図書館にある端末などでは、過去の新聞記事を仔細に検索することはできないが、社内のネットワークだとそれが可能らしく、記事の執筆に必要なものをときどき送ってもらっている(これは本当に便利なので、連載させてもらっているうちにあれこれ見ておきたいところ)。次回は新天地市場をテーマに書くのだが、どうも新天地市場が2011年9月30日に閉場したときのことは特に記事にならなかったようで、驚く。

 午前中は湯に浸かりながら読書でもと思っていたのに、あっという間にお昼だ。お昼ごはんは自宅で簡単に済ませようかとも思ったけれど、今日が今年一番の暑さだと報じられていたことがずっと頭に残っていて、その夏らしい暑さを感じにいこうと思い立ち、シャワーを浴びて日焼け止めを塗り、水色のハットを引っ張り出し、『夏物語』を手にアパートを出る。すぐ近くにあるバス停まで歩くだけでも「うっ」となる暑さで、バスの運行状況をネットで調べられる時代でほんとうによかったと思う。1分ほどでバスがやってきて、座る。席が埋まることはないままバスは進んで行き、浅草公園六区の停留所でバスを降りた。安いお弁当屋さんの近くに、テレビで見たことのある漫才師の姿がある。浅草演芸ホールの香盤に名前が出ていたから、出番を終えたところなのだろう。

 缶チューハイを手にしたお年寄りをひとり、またひとりと追い抜き、14時過ぎ、「水口食堂」に入る。一階の大きなテーブル席には、テーブルの同じサイドにひと席ずつ感覚を開け、3人のお客さんが座っている。いつもならその反対サイドに案内されるところだけど、このご時世だからか、二人掛けのテーブル席に「どうぞ」と案内してくれる。まずはサッポロの瓶ビールと、まぐろの刺身、それにかぶの漬物を頼んだ。テレビでは高校野球の中継が放送されていて、ひとり客は皆、画面を眺めながら飲んでいる。甲子園って、結局やることになったんだっけ。

 昨日、島根の高校の部活動でクラスターが発生したと報じられていたことを思い出す。その何日か前から、「猛暑の中、感染症対策を施しながら部活に励む高校生たち」の姿も情報番組で何度も報じられていた。ぼくが目にしたのは剣道部とバスケ部だ(それぞれ別の番組)。熱中症対策のためにマスクは当然ながらつけられず、ただし接触を避けるメニューで練習しているのだと、生徒や顧問がインタビューに答えていた。「接触を避ける」というのは直接触れないようにしているというだけで、バスケのディフェンス練習の映像を見ていると、「どう見てもこれ、飛沫が飛ぶのでは」とただただ心配になった。しかし、もしもこどもたちが「それでも練習したい」と言ったとして、まわりは何を言えるだろう。その「それでも練習したい」という気持ちは本当だろうかと思ってしまうけれど、そんなことを言い出すのであれば「本当」とは何なのか、お前はこうしてバスに乗車して浅草までやってきて酒を飲んで、そこにリスクがないと思っているのか、お前はほんとうに、もしもここで感染しても納得できるほど、本当に酒を飲みに出かけたいと思っているのかと、自問自答というほどでもなく、言葉が頭に浮かんでくる。

 二階から、マスクをつけながらお客さんが降りてくる。会計を済ませ、お店のお母さんと少し立ち話をしている。今日は40度近いってね、もう生きてらんないよとお母さんは笑っている。ぼくはひや酒と炒り豚を追加で注文した。テレビの中では試合が終わったようで、創生館という高校の校歌が流れている。Google マップで検索すると、長崎にピンがドロップされる。お店は春から禁煙になったようで、タバコを吸うお客さんは時折外へ出てゆく。灰皿を取り替えにいったお母さんが、灰皿まで焼けてるよと言いながら戻ってくる。

 お腹を満たしたところで食堂を出て、ホッピー通りをひやかす。軒先に立ち並ぶ客引きの店員さんは、ほとんど誰もマスクをしていなかった。世間はもうお盆休みの入っているのか、お店はどこもわりと賑わっている。数日前に知人と歩いたとき、浅草寺の境内には柄杓が置かれていなくて、感染症対策で撤去されているのだと勘違いしていたけれど、あれはもう17時を過ぎているから撤収されていただけだったらしく、柄杓がいくつも並んでいた。浅草観音堂裏に抜け、北に進んでゆく。「花」と看板を掲げる店があり、材木屋があり、古い銭湯があった。道路は碁盤の目のように張り巡らされているけれど、ところどころにぎゅぎゅっと昔の面影を感じさせる曲線がある。

 「吉原大門」と書かれた交差点を通り過ぎ、路地を進んでいくと、ホテルが向こうに見えてくる。うだるような陽射しの下、「いかがですか」と声をかけられるたび、小さく頭を下げて通り過ぎる。「もしよかったら、記憶に留めておいてください」と、どこかの店を通り過ぎたときに後ろから言われたことだけおぼえている。そこを抜けると、精肉店とスナックとお好み焼き屋と焼肉屋の看板が出ているビルがあり、まんじゅう屋があり、用品店がある。これが『たけくらべ』で言うところの「表町」サイドだろうかと思っていると、「樋口一葉旧居跡」の石碑にたどり着く。

 今日は樋口一葉記念館は休館日だったので、そのまま三ノ輪まで歩く。古い日本家屋の物干し台に、あれは何て言うのだろう、水泳パンツに着替えるときに履いていたアレが干してあるのが見えた。今年もどこかのプールや海水浴場でこどもたちは遊んでいるのだなと思う。しばらく都電の車止めを眺めたのち、16時過ぎ、始発駅である三ノ輪駅から都電荒川線に乗り込んだ。前に住んでいたアパートの最寄り駅のひとつは学習院下で、都電の近くに住んでいたけれど、思い返してみると大塚駅よりこちら側にきたことはなかったかもしれないなと思う。いや、一度だけ町屋まで演劇を観に出かけたことがあったかもしれないけれど、あまり車窓の景色は眺めなかった。

 入り口すぐの端っこの席――進行方向がずうっと見渡せる席に座ったこともあり、風景を眺めていた。都電は西日に向かって進んでゆく。どこかの停留所についたとき、運転手は窓を入念に拭き、洗浄液を出してからワイパーを何度か動かしていた。線路の両脇にはアパートやマンションが立ち並んでいて、こんなに近いとずっと都電が走る音が聴こえているのだろう。住民の足になっているのか、買い物帰りといった佇まいの乗客が目立った。王子駅を過ぎると途端に乗客が減り、そこから先は大塚駅を過ぎても、東池袋四丁目を過ぎてもがらがらだ。

 鬼子母神前で都電を降り、鬼子母神のほうに歩き出す。ぼくの少し前を、片手で缶ビールとタバコを持ち、もう片方の手でケータイを耳に当てながら歩く男の姿が見えてくる。向こうの歩みはゆっくりなので、しばらくすると追いついてしまう。追い越そうとしたところで、「人を動かすってことは、お金が発生するってことだって、あなたもサービスマンならわかりますよね」と、どこか相手を小馬鹿にした調子で男が言うのが聴こえてくる。「え、私の時給がいくらか、言っていいんですか?」――そんな言葉を後ろに聴きながら、ぼくはずんずん進んで、鬼子母神の前に出た。後ろのほうからずっと、「いいんですか、悪いんですか」という声が聴こえていた。その声にはもう、さっきのように小馬鹿にする調子はなく、はっきり怒りがにじんでいる。ぼくは少し足早に明治通りまで出て、「古書往来座」をのぞく。安岡章太郎の『僕の昭和史』の揃いが売っていたはずだと立ち寄ったものの、4冊セットで本棚に並べると結構場所をとりそうだなと躊躇してしまい、安岡章太郎の別の本や、第三の新人の文庫本を数冊買い求める。店の外でセトさんが汗だくになりながら作業をしているのが見えた。

 副都心線新宿三丁目に出て、「紀伊国屋書店」(新宿本店)の1階と2階だけ眺める。『群像』と、光文社古典新訳文庫の『故郷/亜Q正伝』を買い、大ガードのほうに歩き出したところで、駅前の風景が変わりつつあることに気づく。なにやら工事が進められている。思い出横丁にある「T」に入り、今日はホッピーセットではなく瓶ビールを注文。メニューの短冊が新しくなって、まだ黄ばんでない短冊の白があざやかだ。「ハシモトくんも、やっぱ取材とか行けてない?」とマスターに尋ねられ、そうですね、自腹で勝手に移動するぶんには別ですけど、取材のために呼ばれるってことはなくなってますねと答える。お盆になると家族で里帰りしているマスターも、今年は帰れそうにないと漏らす。少しでも売り上げに貢献したく、メニューをじっと見つめる。かつお刺し(800円)が美味しそうだけれど、お昼ごはんが遅かったせいでまだ食欲は湧かず、300円のうめきゅうをツマミにビールを飲んだ。ぼくが座った席は入り口にいちばん近いカウンター席で、焼き台の熱が伝わってきて、じんわり汗が滲んでくる。夏やなあと呑気なことを思いながら、路地を行き交う人を眺める。ぽつりぽつりと人通りはあるのだけれど、何度も見かける顔も多く、たぶん歩いている人の半数はどこかの店員さんだろう。

 1時間ほどで店を出て、中央線で高円寺に向かう。北中通を抜け「c」へ。お久しぶりですとご挨拶。カウンターの両端には先客がいて、ふたりとも隣の席に荷物を置いている。今は客席が間引かれていて、カウンターは7席になっていた。つまり、空いているのは3席。どちらかに寄って座ろうかと思ったけれど、「俺の荷物のすぐ近くに座るなんて」と思われても億劫だなと、真ん中を選んで座る。ぼくは白牡丹を常温で頼んで、おちょこでチビチビ飲んだ。扉はすべて開け放たれていて、扇風機も回転しているけれど、汗がにじんでくる。2杯目もお酒にしようと思っているところにお客さんがやってきて、ぼくの隣に座る。そのお客さんは、ぼくがたまにここに訪れるたびに見かけるお客さんだから、きっと常連さんなのだろう、店主のKさんに頻繁に話しかける。換気がなされているとはいえ、手を伸ばせば届く距離だなと、神経症を発症してしまう。その常連さんと入れ替わるように、ぼくの左側に座っていたお客さんは帰ったから、席を移動しようか。いや、それはそれで「あなたが会話することによって発生している飛沫が気になる」と主張することになるから、席を移動したあとで飲み続けるのも気まずくなりそうだ。ちょうど徳利が空になったところだったので、今日はもうアパートに帰ることにする。

 21時過ぎ、知人の帰る時間に合わせて「餃子」を焼く。しばらく前に、知人が好きな『家事ヤロウ!!!』という番組を一緒に眺めていたとき、「一気焼きギョウザ」というのが紹介されていた。それは義理の母である平野レミに料理を学んだという和田明日香が披露していたメニューで、餡を皮で包む手間を省いた餃子だ。フライパンに餃子の皮を敷き詰め、その上に餡をのせ、その上にまた餃子の皮を並べて焼く――という至ってシンプルな料理だ。近くの肉屋で餃子の皮や餡が販売されていることに気づき、こないだの日曜日にはそれを買ってきて、知人に作ってみてもらっていた。ただ、巨大な「餃子」をひっくり返すのはなかなか難しく、「うまくひっくり返せなかった」と、知人は申し訳なさそうに言っていた。味はうまかった。何より発見だったのは、皮のうまさ。包んだ餃子をフライパンに並べて焼くと、皮の一部分にしか焼き目がつかないけれど、このつくりかただと皮が全面的に焼け、香ばしくてとてもうまかった。それが印象的だったので、どういえばいいんだろう、小さい頃に好きだったお菓子の「白い風船」のような按配で「餃子」を作る。包むのではなく、一枚の皮の上に餡を伸ばし、その上にもう一枚の皮をのせ、ごま油で両面を焼く。これを何個も焼いていき、ちょうど餡がなくなったあたりで知人が帰ってくる。やはり皮がうまく、知人にも好評だ。「餃子」をぱくぱく食べながら、チューハイを3杯飲んで眠りにつく。