8月15日

 日記を書いていると、その日目にしたニュースのこと、そこから思い浮かんだことまで書いてしまう。身辺雑記を超えたことを書くと、その後数日までもやもやした気持ちが残る。なんだかずーんと重く、目覚めも悪い。これはただの日記で、主張を誰かに伝えたいわけではなく、「自分の感覚が正しい」と信じて書き綴っているわけでもない。おかしなことを言っていたり、知人に対してしょうもないことをしていたりするけれど、そんな気分があったということを書き留めているだけだ。今のこの状況に対しても、三ヶ月前の自分の感覚と今の自分の感覚とは、矛盾するところもある。それでも書き留めておかないと、あとで振り返ったとき、わからなくなってしまう。今この日記を書いているのは17日月曜日の朝だ。ここ数日は、原稿のために半世紀以上前に書かれた日記を読み返しているところだ。その中に、「日記なんかつけたって、何もなりはしない、ムダだと言ふ人あり」という言葉を見つけた。それに続けて、その日記には、「日記でもつけなかったら、生きてた証拠あらへん」と書かれていた。

 7時過ぎに目を覚ます。たまごかけごはんを平らげ、シャワーを浴び、日焼け止めを塗る。8時になると知人も目を覚まし、チャンネルをTBSに変えようとする。「今日は髪型が変わっとるって情報が流れてきたけ、まるちゃんの髪型チェックせんと」と言う。8時になり、『サタデープラス』が始まる。丸山隆平の髪型は全然変わっていなかったようで、知人は再び眠りにつく。9時28分の千代田線に乗り、西日暮里経由で新宿駅に出る。東口と西口の地下通路が開通したことで、新宿駅西口の改札が変わっていて――つまり動線が変わっていて――少し戸惑う。まずはトークを収録する予定になっているので、改札そばにあるスターバックスでアイスコーヒーを買って、待ち合わせ場所に向かう。ほどなくして全員揃ったものの、不測の事態が起きて早めに予定を終わらせる必要が生じたようで、トークは省き、企画「R」に向け路上を歩く。12時過ぎにFさんと別れ、M.Jさん、K.Sさんともうしばらく歩く。

 ひとしきり歩き、中華街に出てみると、おもいのほか賑わっている。どこかで食事をするならあそこしかないだろうと「山東」へ。セレクトはふたりにお任せして、水餃子、セロリの水餃子、豆苗炒め、鶏肉のカシューナッツ炒め、それにビーフンを注文。ひとりだと水餃子とビールだけでもそこそこお腹が一杯になってしまうけれど、三人だとあれこれ注文できて嬉しい。ぼくはビールも頼んだ。来月のツアーの話も少しだけした。これから作る作品であれば、感染リスクを減らす形式を前提として作ることができるけれど、すでにある作品を「再演」するとなると、それも難しいだろう。だからといってマスクをつけて上演したり、ビニールカーテンを敷いたりすれば、作品世界が壊れてしまう。具体的には稽古が始まってみないと何とも言えないだろうけど、どんな舞台になるのだろう。ビールを飲み干すと紹興酒をグラスで頼んで、最後にもう一杯ビールを飲んだ。

 食事を終えたあと、三人で「海外移住資料館」へ。今日は閲覧室の予約をしておいたので、展示を見るよりさきに閲覧室に向かう。電話で予約を申し込んだとき、どんな資料が見たいのかと尋ねられ、戦争花嫁についてと答えてあったので、すでにいくつか資料を用意してくださっていた。不確かだったことが確かになる。閲覧室の担当者の方に「皆さんは学生さんですか?」と尋ねられる。いえいえ、学生ではないですと答えると、「じゃあテレビかなにかの関係の方ですか?」と不思議そうに尋ねられる。たしかに、そんなピンポイントのテーマで閲覧室に――しかもひとりではなく、グループで――やってくる人たちは珍しいのかもしれない。桜木町でふたりと別れ、京浜東北線で引き返す。知人は今日、両国で用事があるらしく、17時には終わる予定だと言っていた。両国で待ち合わせて、隅田川沿いを歩きながら缶ビールでもと思ったものの、今日はカメラを提げて歩き回ってくたびれてしまったので、まっすぐアパートに帰ってくる。

 18時過ぎには知人も帰ってきて、早めに乾杯。しばらく地上波で流れている番組をリアルタイムで眺めていたものの、21時あたりでハードディスクレコーダーを起動し、録画してあったETV特集『“焼き場に立つ少年”をさがして』を再生する。「今日はこういうことになるんやろうなって、覚悟しとった」と知人が言う。それは一体どういうつもりで言っているのか、別に終戦の日だから戦争のことを考えるわけでは――言い換えれば終戦の日以外は戦争のことを考えなくていいわけでは――ないだろと揉めそうになるが、面倒なので手短に切り上げ、番組を観た。観終えたあとに違和感が残った。その違和感は何だろう。番組は、従軍カメラマンが撮影した4000枚以上の写真を並べたカットを映し出す。ただし、この映像は「この膨大な写真を検証した」と示すためにだけ存在しており、その中からジョー・オダネルが撮影した写真を抽出し、それを撮影日ごとに振り分けてゆく。そして、ジョー・オダネルが公務として写真を撮影した日と、撮影しなかった日とを判別していき、「あの『焼き場に立つ少年』の写真は、この期間に取られた可能性が高い」と分析する。そして、写真を解析し、どうもフラッシュを焚いて撮影した可能性が高いことから、「この日付の中から、気象台に残る記録の中から、曇りだった日を特定する」と、撮影日の範囲を狭めてゆく。これは一体何だろう。晴れの日でも、夕暮れ時に撮影しようとすればフラッシュが必要になるんじゃないのか。それに、そうして撮影日を特定することは結局少年の特定につながらず、番組は別のアプローチを探る。写真をカラー化し立体化することで、少年の目に充血が見られ、鼻に詰め物をしていることから、爆心地から何キロ以内にいた可能性が高く、また使用されたカメラとレンズから計算すると、こんな地形に立っていたはずだとデータで解析してゆく。その手つきが、ただただ違和感として残る。それらは決して「少年は誰だったのか」につながることはなく、ただ「NHKが調査できるデータや調査方法」が誇示されるばかりだ。番組は当時を知る人たちに聞き込み調査も行う。そこでも少年を特定する確たる手がかりは得られないのだが、同じように原爆で親を亡くし、親を焼いた人物に話を聞いていた。そうした聞き取り調査の様子を眺めているうちに、「写真の少年だけがアイコン化されそうになっているけれど、その悲劇はひとりの少年にだけ起こったわけではなく、同じような境遇に立たされたこどもたちは数え入れないほどいたのだ」と感じる。それを伝えようとして、こんな構成になっているのかと思っていたのだが、番組は最終的にひとりの少年の話に戻り、ジョー・オダネルの写真をアップで映して終了する。坪内さんを5年前にインタビューしたとき(インタビューといっても、ぼくからテーマを投げかけたわけでもさして質問を挟んだわけでもなく、坪内さんが語りかける壁のような存在として現場にいただけだが)、坪内さんが「戦後何年というくくりが意味を持つのは今年――すなわち『戦後70年』で最後で、『戦後80年』はないだろう」と語っていたことを思い出す。5歳で終戦を迎えた人でも今年(=2015年)で75歳、10年後には85歳になる。そうすると戦争の記憶を持っている人はほとんどいなくなって、それを語ることは不可能になる――と。その気配を、このドキュメンタリーから感じる。それはもう仕方のないことではあるけれど、データを最新の技術で解析してみせることくらいしか、やれることはなくなっていくのだろうか。