8月19日

 7時過ぎに目を覚ますと、「としまえんの跡地に、ハリーポッターがやってきます!」と、つけっぱなしのテレビが言う。数週遅れで聴き続けているラジオ番組のひとつ『アルコ&ピースD.C.GARAGE』で平子さんがしきりにとしまえんの思い出を語り、ハリーポッターの施設は別のところに作ればいいじゃないかと語っていたことを思い出す。自分の思い入れがある場所――そんな場所はあるだろうか?――がなくなってしまうことより、誰かの記憶が詰まった場所がなくなってしまうことのほうに、どうしても反応してしまう。ぼく自身はといえば、としまえんに足を運んだことはない。ぼんやりしていると、今度は総理大臣が検査入院したことについて報じられており、与党幹部のコメントとして、「休みを取るようにと進言したが、総理は『自分が陣頭指揮をとりたい』と、責任から応じなかった」と語られている。歴史修正主義どころか現在が修正され、政権の都合にいいように報じられるだなんて、これはもう独裁国家と変わりがないだろう。

 ごはんを解凍してたまごかけごはんを平らげたのち、『AMKR手帖』の原稿に修正を加え、メールで送信。午前中は布団を干し、ずいぶん床を磨いてなかったなと、マイペット片手に床という床を拭く。頻繁に掃除機はかけているものの、拭き掃除はサボっていたので雑巾がけっこう汚れ、反省する。昼はサッポロ一番の塩とんこつを2人前つくり、在宅で仕事をしている知人と一緒に平らげる。午後、企画「R」の原稿を練る。集中力が途切れたところでケータイをぽちぽちいじっていると、「ミヤシタパークの渋谷横丁で飲んだ「西成酎ハイ」は1984年の味がした」(https://note.com/technocosplay/n/n9770bc264463)というノートが流れてくる。ミヤシタパークに対する批判はさまざまなところで見かけ、この西成酎ハイをはじめとして、きっちり批判されるべきだと思うけれど、タイトルにある「1984年の味がした」とは一体どういうことだろう。記事を読み進めると、やはりそれはジョージ・オーウェルに由来するフレーズなのだとわかる。しかし、全体主義に抗う小説を援用しておきながら、ここで書き手の味覚は、渋谷横丁の西成酎ハイを批判するという目的に従属させられている。「これはこれでけっこううまいのだが」ではなく、「まあどこにでもある味だ」でもなく、「1984年の味がした」と書いてしまうとき、実際に感じた味覚は捨ておかれている。事実、この文章の中に、実際にどんな味がしたのかという記述は見当たらなかった。渋谷横丁に問題があるにしても、その小さな感覚を手放してしまった先に、何が残っているのだろう。著者が西成を旅行したときを振り返り、「一介の旅行者であるにもかかわらず、大変暖かく迎えられた」「どこの生まれや立場関係なく、その飲み屋に居る人は分け隔てなく接してくれた」という書きぶりにも、「いろんな人が生きている、本物の西成にもう一度いって、さまざまな人の匂いを感じながら、土手焼きやホルモン焼きと一緒に、なんてことない、本物の酎ハイを飲みたいと思ったのだった」という物言い――そもそも「本物の酎ハイ」とは何だろう――にも、神話化を感じる。

 少しずつ書き進めているうちに日が傾いてくる。知人は15時過ぎに出かけてしまったので、今日の晩ご飯はひとりで済ませなければ。せっかくだから飲みに出かけようか。新宿5丁目の「N」、この状況になってから一度も行けていないから今日行ってみようか――でも、あそこは基本的にお酒だけだから、その前にどこかでお腹を満たさなければ――と寝転がって考えているうちに18時になってしまって、今日はもう新宿に出る気力は湧いてこないなと諦める。ただ、このまま部屋に寝転がっていてもこんにゃくと冷凍餃子しか冷蔵庫に入っていないので、起き上がって外に出る。徒歩圏内に、ひとりでちょっとだけ飲んで過ごせる店があればなと思う。良いお店はあるけれど、どこも二人組以上が賑やかに飲んでいるところが多く、ひとりで静かに飲んで過ごせる店を見つけられずにいる。飲むだけであれば根津のバー「H」があるけれど、料理をツマミながら飲める居酒屋を見つけたいところ(かといって、今の状況だと、初めてのお店に入ろうとするときに、そこは落ち着いて過ごせるだろうかと余計な気を揉んでしまう)。やなか銀座に出て、「越後屋本店」で生ビールを1杯だけ飲む。お店のお母さんが「涼しくなってきたねえ」と言っていたけれど、ほんと、すっかり涼しくなっている。原稿のことをぼんやり考える。

 空が赤く染まるのを眺めながらビールを飲み干し、ドラッグストアとスーパーマーケットに寄る。おさつスナックと麒麟の秋味が並んでいる。ということは、もう秋だ。ふたつとも買って帰り、かまいたちYouTubeを(あまり面白いとは思えないけれど、だから邪魔にもならないので)再生しながら、原稿を書き足す。ここ数日のあいだに、芸人のYouTubeを少しだけ観るようになった。あまりにもテレビで観たい番組が減ってきたので、仕方なしに芸人のYouTubeをテレビで再生した日、「あんなに否定的やったのに、ついに観るようになったやん」と知人が言っていた。22時近くになって知人が帰ってきたので、その時間に合わせて餃子を焼いてししとうの煮浸しを作り、『有吉の壁』と『水曜日のダウンタウン』を観ながら晩酌。今日はどちらも面白く、笑い疲れて眠りにつく。