10月27日

 9時45分、京王多摩川で待ち合わせ。企画「R」で、2時間半ほど過ごす。14時に一度帰宅し、シャワーを浴びてハンドソープで顔と頭を洗う。すぐにアパートを出て、神保町のH社に向かうと、K.Yさんがいて驚く。ちょうど用事があっていらしていたのだという。酒場に出かける回数が減っているせいで、街で偶然誰かに出くわすという機会が少なくなったような気がする。編集者のT.Kさんから資料を受け取ったのち、小一時間ほど打ち合わせ。16時40分に大手町にたどり着き、委員会に出る。今回はいつもの会議室が使えないそうで、ずいぶん狭い部屋だ。今週もお弁当が出たので嬉しい。前回の知人とのやりとりを思い出し、持ち帰って食べようかとも思ったけれど、そんなことをするのは場違いなのかもしれないと思って、その場で平らげる。

 20時過ぎに委員会が終わると、ふたりの委員の方から誘っていただき、飲みに出る。懇親会が開催されなくなって久しく、こんなふうに委員会のあとに飲むのは久しぶりなので嬉しくなる。しばらく3人で飲んでいたところに、ある人が加わり、学術会議の話題を切り出す。その話がしばらく続き、どうして今、この話をしているんだろうという気になってくる。そのことについて、ぼくは何も言うことがないなと思う。僕の両隣にいるお二方はその問題についても確固たる知見があるふたりだけに、そこでぼくが言えることは何もなかった。それでもその人は同じ話題を続けるので、ずっと押し黙っていると、「橋本さんもなにか」と、その人から発言を促される。ぼくは何も言うことがないこと、ぼくは自分が言及できることにしか言及するつもりがないことを伝える。

 あれはどういう流れだったのだろう、坪内さんの『玉電松原物語』の話題になった。その話をしているときに、その人が「誰もあの本を手にとらなかったの?」と言う。「手に取らなかった」ということではなく、ぼくが7月に坪内さんの本を書評した影響で、直近すぎて取り上げられないということなので、キョトンとしてしまう。続けて、「坪内さんと最後に文壇パーティーで会ったとき、坪内さんのほうから話しかけてきたんだよ」と話し出す。最期はどこの酒場も出禁になっていたからね、と。それは単純に事実誤認であるし、それではまるで坪内さんが哀れな晩年を過ごしたみたいになってしまう――と、そんなことを思ったところで、「はっちゃん、俺が死んだらデタラメなこと言うやつばっかでてくるからね」と坪内さんが言っている姿がありありと浮かんでき、ひとりで小さく笑う。