11月16日

 8時過ぎに目を覚ます。体がやけに重く感じる。昨日の夜から、noteでホームレスを取材した記事に批判が殺到していると知る。すぐに目を通してみると、同じ書き手として「酷いな」と感じるけれど、それに批判が殺到するような世の中を生きているんだっけか、と布団の中でぼんやり考える。世の中に溢れている「コンテンツ」で、対象を記号化することなく真摯に取材したものが、いくつあるだろう。夕方のニュース番組をつければ、家族で切り盛りする定食屋の感動物語が定期的に映し出される。そうした特集や記事を目にするたびに、けっ、という気持ちになる。顔つきだけは神妙に、それでいて対象を切り取って取材した「コンテンツ」が世の中に溢れている。

 ぼく自身も、よく自問自答する。神妙な顔つきで、丁寧に取材しているように見せかけているだけで、対象を物語化し、消費しようとしているだけではないのか、と。誰かのことを文章に書き記すということが基本的に孕んでしまうこと自体が暴力性を孕んでいるけれど、それでも最大限に消費を避けようとするのであれば、その対象に最大限寄り添う必要があるだろう。たとえばお店を取材するとすれば、毎日その店に足を運び、お店でお金を使った上で文章に書くのであれば、消費から最大限に遠ざかることができる(もちろん、そんなふうに過ごしていたとしても、書き方一つで対象を消費してしまいかねないけれど)。そう考えたときに、ぼくのように縁もゆかりもない土地を――そして自分が暮らしているわけでもない土地のことを――書こうとするのは、どこか消費を孕んでしまうのではないか、と。

 どうにかして消費してしまうことを避けるために、ぼくは街を歩いているとき、自分の感情のフィルターをなるべく排除するようにしている。「この店の感じ、面白い」だとか、「この通りの雰囲気って良いよね」だとか、そういう視点で街を眺めないようにと、感情にフタをしている。ただ、取材する対象を自分で選んでいる以上、そこでは絶対に自分の価値判断が含まれている。それに、ぼくは家族でお店を切り盛りしてきた方に取材する機会が多いけれど、そこで話を聞かせてもらうたびに、新鮮な気持ちになる。ぼくは生まれ育った土地を離れ、家族と離れて暮らしているから、家族で家業を切り盛りし続けている人たちの話を聞くたびに、ある意味では「気づき」を得ている。もちろん、それは「気づき」を得るために取材しているわけではなく、結果として「気づき」が生まれているので、その差は大きいと思うのだけれど、その瞬間は取材対象をどこか「材料」としてしまっているのではないかとも思う。「旅に出る」という行為にも、それに近い構造がある。自分が普段暮らしているのとは違う土地を尋ねると、自分とは異なる生活の姿に触れることになる。そこで何かしらの「気づき」を得て、また自分の生活に戻ってゆく。その視点に含まれる暴力性のことを考えると、「街歩き」であるとか、「旅」であるとか、そういったことに身を委ねることができなくなってしまう。だから、ぼくはここ数年で何度となく沖縄を訪れているけれど、好奇心を街に向けないようにと、どこかで心に蓋をしている気がする。

 ほかにもいくつか、この記事に関連して思い浮かんだことがあるのだけれど、それはまた何かの機会に書くことにする。

 昼、セブンイレブンに出かけてみると、春木屋が監修したラーメンが出ていたので買い求める。スープはまさに春木屋の香りで驚く。午後はY.Kさんから依頼されていた原稿を書き進めて、16時過ぎにメールで送信する。明日から沖縄に出かけるので、荷造りを済ませておく。知人が帰ってくるのに合わせて、とり野菜みそ鍋を作り、19時半から晩酌をする。今日こそは休肝日と思っていたけれど、明日は早起きしなければならないこともあり、酒を飲んで22時過ぎには眠りにつく。