2月14日

 7時に知人のアラームが鳴る。知人はさくさく身支度をして仕事に出掛けてゆく。知人の洗濯物も、ぼくの洗濯物も溜まっていたので、朝から洗濯機をまわす。行方不明になっていた付箋が紛れ込んでしまっていた。もこもこした素材の服もあり、1度では洗いきれなかったので、すぐに2度目の洗濯をする。風呂に湯を張り、浸かりながら『人間・この劇的なるもの』を読み返す。最初に洗った洗濯物はもう乾いたので、もう一度洗濯機をまわす。昼はセブンイレブンレトルトカレーを買ってきて、ごはんを解凍して平らげる。洗濯物を干しているうちに13時半になってしまう。今日は14時から観劇の予定があるので、急いで家を出て、タクシーで池袋を目指す。車内では加藤周一の『日本文化における時間と空間』を読んでいた。

 14時過ぎ、『消しゴム山』が始まる。京都での初演も観たものの、あまり内容のことを思い出さないまま劇場に急いだけれど、この作品は冒頭に洗濯機が登場し、「時間」について語られるのだった。そのために今日の午前中を過ごしていたのではと思ってしまう。16時半に劇が終わり、「古書往来座」、「ジュンク堂書店」、それに「三省堂書店」を覗く。池袋東武で日本酒と、半額になっている惣菜を漁る。ソーシャルディスタンスを保って商品を眺めていると、割り込んで接触してくる人がいたので、思わず言葉が出る。向こうは何か言い返しながらもすぐにどこかに消えてゆく。

知人が帰ってくるまでのあいだ、WEB「H」の原稿を読み返す。文章を整えて、編集者のTさんにメールで送信。テープ起こしに取り掛かって、ちょうど2週間かかった。原稿料のことを考えると、あまりにも非効率的ではあるけれど、とにかく書き終えられてよかった。ビールを飲みながら、今日観た作品の感想を、友人のAさんにメールで書いて送る。作品を観にきてくれた人たちが皆その後音信不通になってるから、よかったら感想を聞かせて欲しいと言われていたので、今日のうちに言葉にできる範囲のことをメールで送っておく。

 

××さん、こんばんは。見切れ席でもなく、後ろのほうから俯瞰して見られる、個人的にはとても良い席で観れました。ただ、到着が直前になってしまって、あわあわしていて音声ガイドのことを忘れてしまってしまいましたが……。

作品が始まってすぐ、言葉が発語される最初の場面で、なんだかずいぶん時間が経ったんだなーと、まずはそんなことを思いました。あのときは「連休」という言葉から、すぐに「ああ、今年のゴールデンウィークは10連休で、そこで平成から令和に変わったんだよな」と連想しましたが、それがわずか1年半前のこととは思えないくらい、いろんな「連休」を過ごしたような気がして。健康雑誌の話も、やっぱり今のこの状況のことを連想して、あのときは全然そんなこと連想しなかったのにと、不思議な気持ちになりました。これは前々から思っていることですが、戯曲も含めて書かれた言葉というのはモノと同じで、人間とは無関係にずっとそこにあり続けるだけなのに、そんなふうに今の自分が置かれている状況に引きつけて受け取ってしまうなあ、と。

 今のはあまり内容の感想とは関係のない話ですが、なんだろう、印象的だったことがいくつかありました。

ひとつには、これもぼくの感覚が変わっただけなのかもしれませんが、第一部から第二部に切り替わるところの音の変化だとか、第二部で政府の役人ぽい人たちが話して退場したあとに照明が切り替わることで、舞台上に置かれたモノたちの見え方がまるで違っていて、初演のときはぼんやり観てしまっていた気がするけど、音響や照明も含めて、すごい厳密な仕事が行われているのだなあと、客席で打ちひしがれてました。たぶんこれは、初演の『消しゴム山』や、『消しゴム森』を経て、観客席にいる自分の目や耳が変わったからなんだろうなと思います。

 初演のときにぼんやり眺めていたといえば、矢澤さんが拡声器を手に登場する場面も、ああ、このシーンはここに配置されなければならなかったんだ!と、勝手に納得しながら観ていました。

 初演のときには、「舞台に立つ俳優とモノとがフラットである」ということの目新しさにばかり目が向いていたのと、最後の「観客はいなかった」の言葉が印象的だったこともあり(それと、自分がこういう仕事をしていることもあり)、「人間的尺度を疑うまなざしを客席から追体験して、人間とモノとをフラットに捉えうる視点を得た自分は、これから何をどんなふうに取材しよう?」と、初演のときには自分に引きつけて考えた部分が多かったのですが、俳優とモノとがフラットな状態というのは(そして、それを観客として見つめているというのは)すごい状態だなと、今日になって初めて思いました。

 言葉で書き連ねようとすると、なんだか抽象的になり過ぎるのでアレですが、俳優とモノとをフラットに観るということは、人間の動きを、何か小さな昆虫の動きであるとか、昆虫もまた生物なのであれですが、綿毛が飛んでいるのを眺めるようにまなざしているということでもあり、そんなふうに舞台上の俳優を見つめることの暴力性(という言葉ではうまく言い表せないのですが)を感じて、拡声器ごしの言葉が、なんだか深く残りました。

 他にも浮かんだことはいくつかあるのですが、とにかく、観れてよかったです。この作品を観たあとで、普通の劇を観たあとのように俳優に向かって拍手をするのは躊躇われてしまって、ただ舞台上を見つめたまま帰ってしまいましたが、とてもよかったです。