8月9日

 夜中に目を覚ますと、つけっぱなしのテレビでは、台風の情報をずっと伝えている。5時過ぎに起きる。読売新聞の朝刊をポストから取ってきて、ばさばさめくる。社会面にはドーンとメダリストの写真を並べて、「燃えた東京 メダル58個」と見出しが躍る。東京はオリンピックで燃やされていたんだということだろう(そうでなければ、8月という季節に「燃えた東京」なんて見出しはつけられないだろう)。「コロナ対策 機能 関係者62万県検査 陽性0.02%」の見出しもある。「バブル」だかなんだか知らないけれど、オリンピック関係者の内側でのコロナ対策が機能したのは確かなことだろう。でも、オリンピックを開催する側に追従するように「ほら、オリンピックは感染を拡大させなかったんです」と喧伝するのはどうかと思う。オリンピックを開催せずに、その検査体制を「バブル」の外側に拡充すれば、こんな状況にはならなかった。

 最近はずっと肌のベタつきが気になって、集中力が削がれている気がする。湯につかればばよいのだろうけども、急ぎで読まなければならない資料もなく、それより早く原稿を書き継がなければならない日々だから、ずっとシャワーで済ませてきた。でも、気分転換も兼ねて、久しぶりに湯を張り、『戦後沖縄と復興の「異音」』を読みながら、1時間ほどつかる。コーヒーを淹れ、トーストを焼き、昨日の茹で玉子の残りと一緒に朝ごはん。知人がなかなか起きてこず、10時近くになってようやく今日は祝日だと気づく。10時50分から、長崎の中継を観る。市長の挨拶はとても立派だった。すぐに経歴を調べる。市長のあとに、92歳の女性による平和への誓いに耳を傾けているうち、涙が出てくる。11時1分に知人を起こすと、黙祷だけしてまた眠りだす。

お昼は何がいいかと尋ねると、CoCo壱の「チキンとトマトのホットスパイスカレー」が食べてみたいと言う。雨も上がったようなので、自転車を一階に下ろして買いに行く。今日も昼からビールを飲んでしまった。洗濯機をまわし、溜まっていた洗濯物を干す。洗濯物がすぐに吹き飛びそうな強風で、こんな日に洗うんじゃなかったと後悔しつつ、あの手この手で飛ばないように干しておく。かなり薄手の洗濯物は、飛ばないようにと悪戦苦闘しているうちにほとんど乾きかけていた。湯に浸かりながら読んだ本を思い出す。戦後の沖縄に対する綿密な研究を経て書かれた本を読むと、自分が今書いている原稿がいかに性急かと考えてしまって、原稿を書くスピードが落ちてしまう。とっくにわかりきっている話を、得意げに書いているように見えてしまうのではないか。でも、島の人たちの言葉を書くだけでは、沖縄の歴史に明るくない人からすると、ただ小さな島の話になってしまって、その後ろにある社会が見えなくなってしまう。書きたいのは社会のことではなく、その社会の中に(あるいは周縁に)置かれている、誰かの小さな声であるのだけれど。テーブルに置かれている文芸誌を手に取り、ぱらぱらめくる。ふと「新人小説月評」が目に留まり、自分の原稿のことが触れられていないかと目で追ってしまう。触れられていなかった。原稿はただ「短期集中連載」とだけ冠して掲載されているし、フィクションかノンフィクションかと問われればノンフィクションであるけれど、「小説」かどうかと問われると、選評でメタメタに書かれたとはいえ富士正晴の「競輪」が芥川賞候補作となったことを考えると、小説でもあると思っている。「競輪」が『en-taxi』に掲載されたとき、編集部でアルバイトをしていて、図書館で初出をコピーしてきて、「競輪」を頭から終わりまでタイプした。あの小説は、強く自分の中に残っている。夕方になって、ようやく5日目の原稿をほぼ書き上げる。残り1日だ。

 18時からビールを飲み始めて、ジャガイモとソーセージの炒め物をツマミに、戦争関連のドキュメンタリーを立て続けに観る。新資料や新証言が強調されるのはわかるけど、「マルレの隊員たちが命を落とした場所を、初めてマッピングしました」みたいなナレーションが入ったときにはさすがに違和感をおぼえた。そんなにも「初めて」を盛り込もうとしなくてよいのではないか。新しい何かがなければ新しく制作したドキュメンタリーを放送できなくなってしまって、戦争が風化してしまうのではないか。それとは別に、ほんと、専門家はすごいなあとしみじま思う。ある一言を言うために、ひたすら資料に当たり続ける。ぼくは自分の関心があっちこっちに飛んでしまうので、本当に尊敬する。そうやって積み重ねてくれる人がいるから、今の自分のように、唐突に「このことが知りたい」と思ったときに参照できる論文や資料が整理されている。