8月15日

 7時過ぎに目を覚ます。朝、WEB『H』の単行本書き下ろし部分を練り始める。この日の行動の一部は原稿に書くので、そこに書かなかったところだけ、日記に書いておく。10時半、長袖でアパートを出ると、それでもまだ肌寒いぐらいだ。千代田線と山手線を乗り継ぎ、上野駅に出る。新幹線改札口はどんなもんかと眺めにいくと、まだ午前中ということはあるにせよ、新幹線が到着しても降りてくる人はまばらだ。ただ、それでもスーツケースを引いて行き交う人の姿は見かけた。「こんな時期に移動するなんて」という視線を、きっとあちこちで向けられただろう。でも、どんな思いで移動しているのかは、本人以外には窺い知ることはできない。

 改札を抜け、不忍口に出る。高架下に托鉢をする僧がいて、そのすぐ近くに、黒い寝袋に身を収めて眠っている人がいる。小銭が投げ入れられている器と並んで、コカコーラのペットボトルとスターバックスの紙カップ養老乃瀧に赤星が配達されている。昼間から営業している酒場もある。ただ、これだけ寒いと軒先のテーブルはがらがらだ。「カドクラ」は休業している。アメ横の商店はほとんど営業しているけれど、通りを行き交う人は少ない。ちらりと視線を向けると、「はい、まぐろ800えーん!」と声があがる。買う気もないのに呼びかけてもらうのも申し訳ないので、視線を落としてアメ横を通り過ぎる。

 上野広小路でタクシーを拾う。運転手さんに「ワクチンは打たれましたか?」と聞かれて、ぎくりとする。こういう仕事をされていると、ワクチンを未接種の客を乗せるのは不安に感じるのだろうか。最近自分の年代でも受付が始まってはいるんですけど、まだ予約ができてなくて――と、正直に答える。「わたしも、会社からほぼ強制的に『受けるように』と言われているんですけど、副作用が怖くて、ぎりぎりまで粘ろうと思っているんです」と運転手さんは言った。淡路町の交差点には警察車両がたくさん止まっていて、道路の一部をふさぐ準備が整えられている。靖国通り沿いには、何台も警察車両が停まっていて、大きな交差点には雨の中を警官が警戒にあたっている。

 九段下でタクシーを降りて、坂をあがる。こんな状況でも大勢の人がいる。ウイグル問題のビラを渡そうとする人がたくさん連なっているので、今日が雨でよかったなと思いながら、受け取りを拒否するように道を進む。信号待ちをしているとき、ふと脇に目をやると、道端の石垣に座り込んでいる人の姿と、その隣に「遺骨の含まれている土砂」という文字が見えた。おや、と思いながらも、人混みにうんざりしていたせいでそのまま通り過ぎてしまったけれど、あとでガマフヤーの方だったと気づき、声をかければよかったと後悔した。あんな場所でハンストしているときに、「こないだ県庁前でハンストされていたときも、平和祈念公園でされていたときも、お姿拝見してました」と伝えることができれば、少しは心強く思えたかもしれない。

 神社にとっては本来大きな意味を持たない今日、この場所に足を運んだのは、キュンチョメの「あなたのあしもと」という市街展が行われると知ったからだ(「東京で一番大きな鳥居の下にいる/黄色い傘を持った男に声をかけてください」とだけ告知されていた)。今日は神保町に出かける用事があったので、せっかくだからと九段下にまで足をのばしたのだ。境内に足を踏み入れると、スピーカーから総理大臣の挨拶が響いていてギョッとする。日本武道館でおこなわれている式典の音声が流れているようだ。挨拶が終わると、正午になり、「黙祷」と声がする。境内にいたほとんど全員がその場に立ち尽くし、首を垂れている。途中で傘を閉じた人もいて、ぞっとする。黙祷するまではともかく、わざわざ雨に打たれに行く所作は一体何だろう。いや、一体何だろうと書くまでもなく想像はできるから、ぞっとする。親に連れられてやってきた小さな子供も黙祷している。黙祷が終わり、続いて天皇陛下の挨拶が始まると、再び世界がストップする。ぼくは黄色い傘を探して歩く。鳥居のそばのベンチに、黄色い傘を差して座っている男性がいる。あの人だろうか。この状況下で、もし違う人に話しかけてしまったとしたら――緊張してTwitterの告知文を読み返し、「鳥居の下」「黄色い傘」で間違いないよなと確かめる。ベンチに座る男性が、底冷えしないようにとわざわざ段ボールを敷いて座っていることに気づき、これはきっとそうだろうと確信を得て、あの、キュンチョメの、と声をかけると、すっと紙を手渡される。そこにあるQRコードを読み込むと、YouTubeの映像にジャンプする。

 指示に背くことにはなるけれど、あまり長居したくなかったので境内を出て、あのビラ配りのエリアを通過しなくていいように歩道橋でお堀側に渡ってから、YouTubeの音声をイヤホンで聴きながら坂を下る。お堀端に「United by emotion」という例の標語が張り出されており、さっき目にした境内の様子を思い返してぞっとする。